2002/01/17(木)「WASABI」

 同じリュック・ベッソン脚本・製作でも「キス・オブ・ザ・ドラゴン」とはまったく異なる味わい。あちらが大人の映画とすれば、こちらは広末涼子のイメージ通りどこか幼い映画である。安直なストーリー、凡庸な演出。おかしなファッションの広末といつも通りのジャン・レノは悪くないが、どちらも本来の魅力を引き出しているとは言い難い。監督のジェラール・クラヴジック、つくづく才能がないのだなと思う。

 パリの刑事ユベール(ジャン・レノ)が捜査中に署長の息子を殴って大けがをさせ、休暇を命じられる。ユベールは19年前に別れた日本女性小林ミコのことをまだ忘れられないでいる。当時、情報機関に勤務し、日本に滞在していたユベールの前からミコは突然姿を消した。わずか8カ月の付き合いだった。そんな時、ユベールにミコが死んだとの連絡が入る。ミコは遺言の立会人にユベールを指定していた。ミコにはユベールとの間にできた一人娘ユミ(広末涼子)がいることも分かる。日本に飛んだユベールは弁護士からユミが

20歳になるまで面倒を見るようにとのミコの遺言を告げられる。ユミはあと2日で20歳。ユベールは父親であることを隠して2日間、面倒を見ることになる。ミコの死には不審な点があり、銀行口座には2億ドルの預金があった。その上、何者かがユミの命を狙ってくる。ユベールは以前の相棒モモ(ミシェル・ミューラー)とともに謎を探り始める。

 ジェラール・クラヴジック監督は「TAXi2」(これまた脚本・製作はベッソン)でも日本人を登場させていたので、ベッソンとしては日本人つながりで演出をまかせたのかもしれない。しかし日本の描写は表面をサラーっと流しただけで、よくあるカルチャー・ギャップの上に成り立った誤解に満ちた作品と大して変わらない。これがパリが舞台なら、もう少しましになったのかもしれない。「TAXi2」と同じくとぼけたユーモアがあるけれど、センスは今ひとつ。日本の俳優も広末だけでなく、もっと名のある人を使えばよかったのにと思う。

 クラヴジックの次作は「TAXi3」。基本的にはああいうスラップスティック系の監督なのだろう。しんみりした描写が効果を挙げていないのはそのためか。だいたい、8カ月つき合った後に別れて19年と言えば、広末の役が20歳直前なのも計算は合うが、別れる前には既に妊娠中期以降だったはず。それに気づかなかったというのではユベール、バカだ。

 ユベールの現在の恋人役でキャロル・ブーケが出演。これは、もう少し出番が欲しかった。

2002/01/16(水)「スパイキッズ」

 子ども向けの映画なのだが、監督がロバート・ロドリゲス(「フロム・ダスク・ティル・ドーン」「パラサイト」)なので少し期待した。でもやはり子ども向けだった。作りが雑で心がこもっていない。ロドリゲスは子ども向け映画の力を信じていないのだと思う。

 敵対していた2人のスパイ(アントニオ・バンデラスとカーラ・グギノ)が結婚するエピソードを描く冒頭はスピーディーで良い出来なのだが、そこから始まるメインのストーリーがいきなりファンタジーである。マッド・サイエンティストのフループ(アラン・カミング)が作った子ども型ロボット“スパイキッズ”を完成させるために、バンデラスがスパイ時代に作り、秘かに持っていた“第三の脳”を狙う。バンデラスとグギノは誘拐され、2人の子どもカルメン(アレクサ・ヴェガ)とジュニ(ダリル・サバラ)が救出に向かう。

 フループが作る親指型のロボット“サム・サム”や機械で人間が変換された怪物キャラクターは、いかにもお子さま向け(でも気持ち悪い)の造型。フループのいる城も同様。キャストは豪華で、ジョージ・クルーニーがちらりと出てくる。「ターミネーター2」のロバート・パトリック、テレビ版「スーパーマン」のロイス・レイン役テリ・ハッチャーも出ているが、ハッチャーはあまりといえばあまりの格好になる。アメリカで人気が落ちたのだろうか。

 SFXはそれなり。子役に魅力がないのが難。

2001/12/26(水)「バニラ・スカイ」

 スペイン映画「オープン・ユア・アイズ」(1997年)をキャメロン・クロウがリメイクした。主演で製作を兼ねるトム・クルーズの依頼だったらしい。キャメロン・ディアスとペネロペ・クルス(ご存じのようにこの共演がきっかけでトム・クルーズと熱愛中とのこと。そのうちペネロペ・クルス・クルーズになるのか?)共演で、主演3人は魅力たっぷり。クロウの演出も音楽の使い方や映像の凝り方に見どころはある。だが、スピーディーにプロットを綴った予告編の方が面白かった印象。中盤、顔に大けがをしたクルーズがあれこれ悩むシーンなどばっさり短くすべきだったのではないか。このストーリー、ドラマよりもプロットを語るタイプのものなので、余計な描写に思えてくる。

 出版社を経営する裕福な男デヴィッド・エイムス(トム・クルーズ)は自分の誕生パーティーで美しい女ソフィア(ペネロペ・クルス)に出会う。デヴィッドはソフィアの純粋さに惹かれるが、セックス・フレンド(とデヴィッドが思っている)のジュリー(キャメロン・ディアス)はそんな2人を見て激しい嫉妬心を抱く。ソフィアの部屋から出てきたデヴィッドを車に乗せ、ジュリーは猛スピードで街中を走り、橋から落下する。この事故でジュリーは死亡。映画は殺人容疑で収監され、顔に大けがをしたデヴィッドが精神科医マッケイブ(カート・ラッセル)の質問に答える形で進行する。

 と、これ以上のストーリーは書けない。冒頭の人通りの絶えたタイムズ・スクエアをはじめ、キャメロン・クロウの映像はなかなか面白い。夢か現実か分からないシーンを挟み込み、フィリップ・K・ディックの小説を思わせるような世界。「オープン・ユア・アイズ」を見ていないので比較はできないが、かなり忠実なリメイクらしい。だからこれは元の作品の欠陥でもあると思うのだが、こういうオチはあまり褒められたものではない。本当なら、このオチは中盤に持ってきて、そこから物語を展開させたいところ。クロウの本質もじっくり語る方にあるだろう。徹底的に改変してソフィアとの純愛をもう少し前面に出した方が良かったような気がする。

 主人公が友人に語るセックス・フレンド(Fuck Body)というのはひどい言葉で、キャメロン・ディアスが憎悪するのも当然。こういう主人公ならば、ああいう目に遭っても仕方がないか。

2001/12/09(日)「シュレック」

 数年前、「政治的に正しいおとぎ話」という小説がベストセラーになった。白雪姫やシンデレラなど名作とされるおとぎ話を社会的差別や男女差を撤廃して語り直したもので、意図はよく分かるのだが、まあそれほど笑えるものではなかった。このドリーム・ワークス製作の映画も“政治的に正しい”CGアニメと言える。ただし、キャラクターが描き込まれているのでエンタテインメントとして十分に通用する仕上がりだ。

 沼地に住むシュレック(マイク・マイヤーズ、吹き替え版は浜田雅功)は緑色の怪物で、村人たちから「骨を粉にして、パンにして食う」と恐れられている。ある日、シュレックのところにおとぎ話のキャラクターたちが大挙、押し寄せる。この国のファークアード卿(ジョン・リスゴー、伊武雅刀)は完璧な国を作るのにキャラクターたちが邪魔になると考え、追放したのだ。一人で暮らすのが好きなシュレックは、キャラクターたちの騒がしさに怒り、「お前たちを元いたところへ追い返してやる」とファークアード卿に掛け合いに行く。

 ファークアード卿はシュレックの強さに目を付け、ドラゴンが守る城に閉じこめられたフィオナ姫(キャメロン・ディアス、藤原紀香)を助けたら、沼を元通りにしてやると持ちかける。美人の姫と結婚して王になろうと考えているのだ。シュレックはおしゃべりなロバのドンキー(エディ・マーフィー、山寺宏一)と協力してドラゴンを撃退し、フィオナ姫を救出。国へ帰る途中、シュレックとフィオナ姫には愛が芽生えるが、フィオナ姫にはある秘密があった。この秘密が従来のおとぎ話とこの映画を分けるポイント。「白鳥の湖」や「美女と野獣」を逆にした設定で、人間は(怪物も)外見じゃないよというテーマ通りの結末を迎えることになる。

 製作のジェフリー・カッツェンバーグはディズニーで「美女と野獣」「アラジン」などを製作し、低迷していたディズニーの復活に貢献した人物。美男美女のめでたしめでたしで終わる普通のおとぎ話の裏返しとして、このアニメを作ったらしい。設定は裏返しでも物語は真っ当で、ひねりすぎてはいない。子どもよりも大人が見て楽しめる佳作と言えるが、「美女と野獣」の力強さにはかなわなかったなという印象。

2001/12/04(火)「ハリー・ポッターと賢者の石」

 J・K・ローリングの世界的ベストセラーを「ホームアローン」「アンドリューNDR114」などのクリス・コロンバスが監督した。SFXは満載で主役のハリーを演じるダニエル・ラドクリフや、おしゃまな優等生ハーマイオニー役のエマ・ワトソン、ホグワーツ魔法魔術学校のタンブルドア校長役リチャード・ハリス(ほとんど素顔見えず)ら出演者も申し分ない。しかし、映画はいまいち面白さに欠ける。

 ハリーは両親を交通事故でなくし、意地悪な叔父・叔母、従兄弟と一緒に暮らす。部屋は階段下の物置。プレゼントなんかもらったこともない。だが、ハリーには隠された力があった。ということは冒頭から描かれるので観客にはすべて分かっている。隠された力に徐々に目覚めていく過程を描けば、SFにもなりうるが、映画は(原作も)ファンタジーなのでそうした部分はあっさりしている。ハリーの11歳の誕生日にホグワーツ魔法魔術学校から招待状が届き、入学を許される。両親は交通事故ではなく、悪い魔法使いヴォルデモートと戦って死んだのだった。

 この悪い魔法使いとの戦いをメインに描くのならば、それなりに面白くなったのかもしれない。ところが、第1作の哀しさ、魔法学校の授業など背景までも描かなくちゃいけない。別にそれぞれの描写が悪いわけでもないのだが、本筋から離れたこういう描写はどうも面白くないのである。ハリーが授業を通じて能力を高めるわけでもない。中盤が単調に感じられるのはこうした描写が多いからだろう。ストーリーに意外性はなく、悪役がだれかはすぐに分かる。この程度の物語を面白がっていいのかどうか。

 SFXに関して言えば、魔法のほうきの描写は「スター・ウォーズ ジェダイの復讐」に登場したスピーダー・バイクの発展形だろう。魔法のほうきが多数登場するゲーム・クィディッチのシーンはスピーディーでよくできているが、それだけのこと。トロール(「となりのトトロ」の元ネタ)やチェスのシーンも感心するほどのものではなかった。

 生活保護を受けながら、この原作を書いたというJ・K・ローリングには現実逃避の気持ちが少なからずあっただろう。いや、物語というのは多かれ少なかれそうしたものである。小説や映画は、今の自分はホントの自分じゃないはずだという理想と現実のギャップから逃れる手段として有効なのである。だから「スター・ウォーズ」や「マトリックス」や「ダーク・シティ」などなどSFでは毎度おなじみの、不遇の生活を送る主人公が実は世界を救うヒーロー(選ばれし者)だったという設定は観客(読者)の願望そのものといっていい。

 問題はヒーローが覚醒した後の活躍にあるわけで、この映画の場合、ハリーの活躍が物足りないものに終わっている。個人的な好みの問題だが、魔法ではなく、超能力だったらもう少し楽しめたのかもしれない。

 脚本は「恋のゆくえ ファビュラス・ベイカー・ボーイズ」のスティーブ・グローブス。原作を過不足なくまとめた感じ。もっとポイントを絞り込む必要があったのだと思う。