2005/07/03(日)「ベルリン・フィルと子どもたち」

 「ベルリン・フィルと子どもたち」パンフレット「芸術は今後生存をかけた闘いを強いられる。だが芸術はぜいたく品ではなく必需品だ。空気や水と同じように生きるために必要だ」

 「友達とは君が新しいことに挑んでいる時、応援してくれる者のことだ。これは人生でも大事なことだよ。友達は君が高みへ上るのを助けてくれる者だ」

 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の「春の祭典」(ストラヴィンスキー)と250人の子どもたちのダンスの共演を描いたこの映画の中で、心に残るのは指揮者であるサー・サイモン・ラトルと振付師のロイストン・マルドゥームの数々の言葉だ。パンフレットの最後のページに2人の言葉が多数引用してあるのももっともであり、本筋である共演よりもこの2人を描いた部分の方が素晴らしい。2人とも、さすがプロだと思わされるほどの名言を吐いている。原題の“Rhythm is It !”も「人類がまだ文明を持つ以前の脳、それはおそらく爬虫類の時代からの脳で、そこにリズムが宿っている」というラトルの言葉から取られたものである。

 映画は2003年1月に行われた公演に至るまでのドキュメンタリー。集められた子供たちは各国の難民をはじめとした貧しい階層にあり、いずれもダンスは素人である。数人の子どもにスポットを当てながら公演までの6週間の練習を描いている。劇映画的なタッチを取り入れてはいても、ドキュメンタリーとしてはまず常識的な手法ではある。それにもかかわらず、音楽とダンスの素晴らしさが浮かび上がってくるのはこの2人の存在が大きいからだ。

 ラトルは言う。「クラシックは皆の音楽だ。気後れする必要はないし、遠くにあるものでもない。リッチな老夫婦のためだけの音楽ではない」。子どもたちの一人は「春の祭典は難しい」と言うけれど、映画を見ていると、クラシックを無性に聞きたくなってくる。それはマルドゥームのダンスの指導にも同じことが言える。「ここにいる中で誰一人ダメな者はいない。全員が輝ける可能性を秘めている…。君たちにはパワーがあるんだ」。こんな指導を受けられた子供たちは幸せだと思う。

 この2人が大きいために、本来ならメインになるはずの公演のシーンがそれほどの出来ではない。それは残念な点だが、一流の芸術家である2人を描いただけでも映画には価値があると思う。ラトルの「芸術は必需品だ」という言葉は、小説や映画などの物語をなぜ人は求めるのかということと重なって興味深かった。

2005/07/01(金)「ピッチブラック」

 デヴィッド・トゥーヒー監督。見始めたら面白くて最後まで見た。定期航路から外れた宇宙船が未知の惑星に不時着して、乗客がモンスターに襲われるというだけの話だが、タイトに引き締まった傑作。22日周期で夜が来るとか、夜になると凶暴なモンスターがぞろぞろ出てくるとか、SF的な設定に穴がない。なぜ、この続編「リディック」がああいう悲惨な出来になるのか理解しがたい。

2005/06/30(木)「宇宙戦争」

 「宇宙戦争」パンフレット情け容赦なく絶望的。1時間57分の映画で、最後の10分ほどを除けば、映画は絶望的な状況が支配する。圧倒的な科学力を持った宇宙人に対して地球人は手も足も出ず、虫けらのように駆除されていくだけ。これは怖い。1953年のジョージ・パル製作「宇宙戦争」(バイロン・ハスキン監督)の火星人より怖いのは宇宙人たちの乗るトライポッドが地球人の血を吸う描写があるからだ。スティーブン・スピルバーグは圧倒的な描写で、H・G・ウェルズの古典SFを描ききった。これは描写の凄さだけで成立した映画であり、スペクタクルな都市の破壊とゆっくりと動く巨大なトライポッドによる蹂躙は一見に値するだろう。その意味で「ジュラシック・パーク」と同じ意味合いを持つ映画だと思う。問題はあまりにも原作に忠実な映画化であること。いくらなんでも有名すぎるラストは少し変えるだろうと思っていたら、原作と同じだった。もちろん、原作はこのラストがあるから傑作なのだが、19世紀文学の思想をそのまま映画化するのは工夫がないとも言える。少しは違うラストを考える気はなかったのか。

 それよりも気になるのはスピルバーグがなぜこの映画を撮ろうと思ったかということ。「未知との遭遇」や「E.T.」で友好的な宇宙人を描いたスピルバーグがなぜ凶悪なだけの宇宙人を描いたのか。スピルバーグはパンフレットのインタビューでこう語っている。

 「21世紀に入った今、僕らは世の中で起こっている多くのことに、それ以前よりも強い恐怖を抱いている。もちろん、宇宙からの侵略なんてことはないにしても、他国からの侵略はあるかもしれない。観客はそういう現実の恐怖を映画と重ね合わせられるので、より深いレベルで映画に共感できると思う」

 ジョージ・パル版「宇宙戦争」やドン・シーゲル「ボディ・スナッチャー 恐怖の街」など50年代SF映画の背景に共産主義の台頭とその恐怖があったのは周知の事実だが、アメリカにとって今の状況は50年代以上に危機的なものなのだろう。ご丁寧なことにモーガン・フリーマンのナレーションやジョン・ウィリアムズの音楽はいずれも50年代風である。映画に流れるのは理解不能の敵に対する恐怖であり、ここでは相互理解の精神なんて微塵もない。アメリカにとって宇宙人とテロは同じことなのだろう。「ボウリング・フォー・コロンバイン」でマイケル・ムーアが分析したアメリカ人の恐怖がそのままこの映画には流れている。なんと分かりやすい思考回路かと思う。要するにスピルバーグは単純なのである。

 スピルバーグが持つ一流の見せる技術がこんな風にしか使われないのは本当に惜しい。VFXの技術や演出がいかに革新的であっても、単純で古くさい思想に基づく映画は傑作にはならない。スピルバーグがこの映画で描いたのは、ムーアの主張を借りれば、外部に対して恐怖を抱くよう仕向けるアメリカ政府の手先みたいなことである。恐らく、スピルバーグ、そのことを自覚してはいないだろう。

 あとは気づいたことをいくつか。トライポッドが出す「ボワーッ」という音は「未知との遭遇」のクライマックスに出てきた5音階に似ている。トム・クルーズとダコタ・ファニングがトライポッドに捕らえられ檻に入れられるシーンは「A.I.」のロボット狩りのシーンを思い起こさせた。何万年も前から地球侵略を狙って地下にトライポッドを埋めるぐらいなら、地球環境が自分たちに有害かどうかぐらい分かっていたはず。これではいかに科学力が発達していようと、宇宙人は間抜けに見えてしまう。ジョージ・パル版と違って、宇宙人に対して核兵器を使ってみなかったのはいくらなんでもそれでは無神経と思われるからだろう。小学生のころ、原作を読んで火星人を退治したのは地球の細菌だったというラストにセンス・オブ・ワンダーを感じたものだが、この映画ではカミカゼが吹いて宇宙人をやっつけたぐらいの描写にしか見えない。思想的にはそういうレベルの映画なのである。

2005/06/28(火)「サイドウェイ」

 「サイドウェイ」パンフレット「ワインは日ごとに熟成して、複雑になっていく。ピークを迎える日まで。ピークを境にワインはゆっくり坂を下りはじめる。そんな味わいも捨てがたいわ」。

 パンフレットの真ん中の見開きページに引用してあるこのセリフが印象深い。言っているのはレストランのウエートレスでワインに詳しいマヤ(ヴァージニア・マドセン)。主人公のマイルス(ポール・ジアマッティ)はワインの趣味が合うマヤに好意を寄せるが、美人のマヤが自分を好きになるわけはないと半分あきらめている。親友で俳優のジャック(トーマス・ヘイデン・チャーチ)とともにカリフォルニアのワイナリーを巡る旅に出たマイルスは、ワイナリーで働くステファニー(サンドラ・オー)の家でマヤといい雰囲気になる。

 台所から居間のソファを経てポーチに出るまで2人はワインのことしか話さない。しかし、マヤの濡れたまなざしは別のことを物語っている。マヤのマイルスへのまなざしには最初から好意が感じられるのだ。ワインの話とまなざしの意味が一致するのが冒頭のセリフなのだが、マイルスは居心地が悪くなってしまい、マヤが重ねてきた手を振り払って席を立つ。2年前に離婚した妻にまだ未練があるし、女性に対して臆病になっているのだ。意を決して戻ったマイルスは台所にいるマヤを抱きしめてキスをする。

 芝山幹郎はこの一連のシーンを「『伝説』にさえなるかもしれない」ラブシーンと評している。それほど印象的なシーンであり、もうここだけでこの映画はいいと思えてしまう。ロマンティックであり、リアルであり、切実だ。「アバウト・シュミット」で定年退職した男を描いたアレクサンダー・ペイン監督が今度は40代の男2人を描く。その演出はこのシーンが象徴するように奥行きが深い。どのエピソードもユーモアの中に真実がこもっており、キャラクターに人生経験を感じさせる陰影がある。劇中に出てくる極上のワインと同様にコクのある映画だ。

 主人公のマイルスは国語教師で小説家を志望している。売れない役者のジャックが1週間後に不動産会社の娘と結婚することになったことから、2人は独身最後の旅に出る。マイルスにとっては好きなワインを楽しむ旅だったが、ジャックは女のことしか頭にない。ステファニーに声をかけたのもお楽しみが目的だった。マイルスは以前からマヤのレストランに立ち寄っており、顔なじみだったが、ステファニーとマヤも知り合いであることが分かる。ジャックはステファニーと、マイルスはマヤと行動をともにする。近く結婚することをジャックはステファニーに隠していたが、マイルスはうっかり口を滑らせてしまう。

 映画はこうした物語をユーモラスに描く。同時に結婚に失敗し、仕事でも「自分は何も達成していない」と落ち込むマイルスや3年間の形骸化した結婚生活に終止符を打ったマヤ、気ままな生活に愛着を持ち結婚への迷いを口にするジャックの姿を描いていく。「アバウト・シュミット」を僕はあまり感心しなかったけれど、今回のペインの演出は充実している。さまざまな小さなドラマで人生の真実を描き出し、面白く見せるペインの技術は洗練されていると思う。登場するワインへの蘊蓄は人生の比喩でもある。

 主演のポール・ジアマッティは「アメリカン・スプレンダー」に続いて、ダメ男を好演している。ヴァージニア・マドセンは若いころ、もの凄い美女だったが、今は普通の美女である。ただ、若いころよりも情感はあふれており、アカデミー助演女優賞ノミネートも当然という感じの味わい深い演技を見せている。

2005/06/25(土)「海猿」

 オープニングに大規模な救援活動シーンがあって、なんだなんだと思ったら、最後にこれが「海猿 THE NEXT STAGE」(2006年春公開)のものと分かる。これはDVDのみの仕様か? で、7月5日から始まるフジテレビの「海猿」も伊藤英明、加藤あいが主演。つまりテレビと映画を連動させているわけで、「踊る大捜査線」と同じくメディアミックスになるようだ。しかし、テレビドラマまで付き合ってられないな(けど、見てないと、来年公開の映画に話がつながらないかもしれない)。

 映画の方はスタンダードな出来と思う。海上保安庁の潜水士を目指す14人の訓練生の物語。優秀な訓練生・仙崎に伊藤英明、厳しい教官に藤竜也が扮する。水深40メートル、残圧30、1人分の酸素しかない状況でどうする―という命題をこの教官は最初に口にする。予想通り、クライマックスにはその通りのシチュエーションが登場する。「仙崎はバディを見捨てない。お前たちが救援に来ると信じて待っている」と、上官の命令を無視して訓練生たちに言う教官の言葉がなかなか感動的である。

 しかし、いろいろと引っかかるところはあって、主人公のバディで劣等生の伊藤淳史を途中で死なせたりとか、クライマックスにかかわってくる藤竜也の過去のエピソードとか、加藤あいはなぜあんなに酔っぱらっていたのか分からないとか、もう少しうまく描けないものかと思う。別にこれがテレビドラマになると分かっているから書くわけではないが、全体的にテレビと同程度の描写が目についた。訓練生たちの描き方も「ウォーターボーイズ」のノリである。パッケージングは誰もが指摘するように「愛と青春の旅立ち」。

 加藤あいは良かった。その友人の看護婦役・香里奈は去年、これと「深呼吸の必要」「天国の本屋 恋火」の3本の映画に出たが、今年は全然見かけないな。