2004/09/16(木)「ヴィレッジ」

 「ヴィレッジ」パンフレット「僕が恐ろしいのは君が危険な目に遭うことだ。だから、今このポーチにいる」。中盤、主人公のルシアス(ホアキン・フェニックス)がアイヴィー(ブライス・ダラス・ハワード)に話す。村を外界と隔てる森には得体の知れない魔物が住んでいると言われる。その魔物から守るためにルシアスはアイヴィーの家のポーチで寝ずの番をしていたのだ。M・ナイト・シャマラン監督が初めて恋愛映画的要素を取り入れたというこのルシアスとアイヴィーの描写がいい。秘めた思いを表面に出さない奥ゆかしさというのはアメリカ映画では新鮮である。この後、ルシアスはアイヴィーに促されて結婚を申し込むことになる。そしてそれが悲劇を生む。本筋とはあまり関係のないこの2人の描写に感心した。シャマランは描写がうまいと思う。

 「ホラーの装いをまとってはいるが、プロットは純然たるミステリ」とシャマランの出世作「シックス・センス」(1999年)の映画評に書いたのだけれど、それと同じことがこの「ヴィレッジ」にも当てはまる。予告編ではホラーのパッケージングが施されていたが、これはミステリ以外の何物でもない。「アンブレイカブル」(2000年)を見た時、僕はシャマランをSFの人と思ったが、それは勘違いで、SF的設定を強化した前作「サイン」(2002年)のバカバカしさによって、シャマランはSFに理解がないことを露呈してしまった。それが本来の得意なジャンルに戻ったら、破綻のない映画が出来上がった。これを見て「騙された」とか「ラストでがっかりした」と怒る人は本格ミステリとは一生縁がない人である。

 映画は葬儀の場面で始まる。死んだのは子どもで、墓石に刻まれた文字から時代が19世紀末と分かる。ペンシルベニア州のその小さな村には60人ほどが住んでいる。村人たちは近くにある町を汚れた場所と信じて、外とは交流を断った生活をしていた。しかも町へ続く森の中には何か凶暴な魔物がいると言われている。魔物は村人が森に入らない限り、襲ってくることはない。主人公のルシアスは外界への好奇心を持ち、ある日、森の中に入る。その晩、村を魔物が襲い、家畜が犠牲になった。ルシアスは盲目のアイヴィーを密かに愛していた。ミステリの性格上、詳しく書くのは避けるが、この後、事件に巻き込まれて重傷を負ったルシアスを助けるため、アイヴィーは町へ薬を取りに行こうと、禁断の森に入ることになる。

 ネットに氾濫するネタバレ感想によって、大まかなネタは知っていた。ネタの盗用問題が云々されているのも知っていた。だから僕がこの映画に臨む姿勢には「貶してやろう」とのバイアスがかかっていた。そのネタが成立するには、どうしても回避すべきことがあるのだ。しかし、それは映画の終盤、いつものようにゲスト出演しているシャマラン自身の言葉によって、ちゃんと説明された。なるほどね。そこまで気を遣っているなら、これは褒めるべき映画でしょう。傑作と胸を張るほどの作品ではないし、小味ではあるけれど、きちんとまとまったミステリだと思う。

 ネタの盗用に関しては、僕は元ネタの映画を見ていないので何とも言えない。ただ、その元ネタの作品よりもこちらの方が面白いのではないかと思う。ミステリに関しては何を語るかよりも、どう語るかが重要な場合もある。過去にあったトリックを上手に再利用することは悪いことではない(知らないふりをして盗用するのはもちろん非難されるべきことだが、黒沢明だって「用心棒」で「血の収穫」のプロットを借りているのだ)。付け加えれば、シャマランは「刑事ジョン・ブック 目撃者」あたりもヒントにしたのではないかと思う。

 アイヴィーを演じるブライス・ダラス・ハワードはロン・ハワードの娘という。途中から実質的な主人公となるハワードはこの映画の魅力の一つでもある。このほか、シガニー・ウィーバーやウィリアム・ハートも村の年長者を過不足なく演じている。「戦場のピアニスト」のエイドリアン・ブロディは本来的にはこの映画のような役柄が合っているのだろう。

2004/09/10(金)「ヴァン・ヘルシング」

 「ヴァン・ヘルシング」パンフレット「ハムナプトラ」シリーズのスティーブン・ソマーズ監督がドラキュラの好敵手ヴァン・ヘルシングを主人公にしたホラーアクション。本来のヴァン・ヘルシングは教授のはずだが、この映画ではヴァチカンの指令でモンスター退治に動く007のような存在。ちゃんと秘密兵器も持っている。ジキルとハイドやフランケンシュタインのモンスター、狼男も登場するが、メインの敵はやはりドラキュラ。これまでのドラキュラ映画を多少スケールアップし、「エイリアン」風の描写を取り入れただけで、目新しさには欠け、これ以外に話の作り方はなかったのかと思えてくる。同じく多数のモンスターを登場させた昨年の「リーグ・オブ・レジェンド 時空を超えた戦い」同様、出来の方は芳しくない。

 主人公ヘルシングを演じるのはヒュー・ジャックマン。これに協力するのが、「アンダーワールド」で狼男と戦う女吸血鬼の戦士をカッコよく演じたケイト・ベッキンセールである。ベッキンセール、同じようなタイプの映画に出ることに抵抗はなかったのだろうか。

 映画はフランケンシュタイン博士がモンスターの創造に成功するモノクロ場面から始まる。「It's Alive!」と叫ぶフランケンシュタイン博士がいかにもな感じである。研究に資金協力しているのがドラキュラ(リチャード・ロクスバーグ)で、その研究を盗み、モンスターを連れ去ろうとするが、モンスターは逃げ出し、村人に追われて風車小屋の中で火に包まれる。1年後、舞台はパリ。ヴァン・ヘルシングが凶暴なハイドを苦労の末倒す。ヘルシングはヴァチカンの命令で邪悪な存在を倒しているのだが、モンスターが死ぬ時は人間の姿になるため、世間からは人殺しと思われているという設定。ダークなヒーローなのである。ヴァチカンに戻ったヘルシングに新たな指令が下る。トランシルバニアでドラキュラと長年対決してきたヴァレリアス一族のヴェルカン(ウィル・ケンプ)とアナ(ベッキンセール)に協力して、ドラキュラを倒す任務だった。そのころ、ヴェルカンは狼男と戦い、崖の下に落ちてしまう。船と馬を乗り継いで、トランシルバニアにやってきたヘルシングと助手の修道僧カール(デヴィッド・ウェンハム)は、いきなりドラキュラの花嫁の女吸血鬼たちに襲われる。女吸血鬼はアナを狙っていた。ヘルシングとアナは協力し、ドラキュラ打倒を目指すことになるが、ヴェルカンが狼男になっていたことが分かる。

 話のポイントはドラキュラがなぜフランケンシュタインの研究を必要にしていたのか、というところにある。これはまずまずのアイデアだが、ここでVFXが炸裂すべきところなのに、冒頭から連続してVFXを見せられると、クライマックスあたりで、飽きてくるのである。その意味でメリハリがないというか、演出が一本調子なところがある。ドラマティックな盛り上がりがなく、ヘルシングのキャラクター描写も通り一遍という感じである。ラストの処理も何か勘違いしているとしか思えない。VFXは充実しているのに、なぜこの程度の出来に終わるのか。ソマーズの捲土重来を期待したいところだ。

2004/09/03(金)「LOVERS」

 「LOVERS」パンフレット「石井のおとうさんありがとう」とか「忍者ハットリくん The Movie」など、どこか壊れた映画を見た後ではチャン・イーモウ演出は一級品に見える。映画はこう撮るんだよ、という見本みたいに美しい場面が多い。当たり前のことだが、映画はショットの積み重ねなのであって、この映画のようにワンショット、ワンショットを計算し尽くして撮るのが本来的な在り方なのだろう。最近、それをないがしろにした映画が多すぎるのだ。

 序盤にあるチャン・ツィイーの華麗な舞踊から始まって、竹林や平原で繰り広げられるアクション場面がどれもこれも素晴らしい。この美しく極めて映画的な映像で描かれる話が結局、三角関係に収斂していくことには不満もあるのだが、「十面埋伏」(四方八方に伏兵がいるという意味)というアクション映画的な原題を海外用として「LOVERS」というタイトルにしたのだから、これは恋人たちの話であっても別にかまわないわけである。たっぷり見せてくれるチャン・ツィイーの美しさと金城武のいい男ぶりに比べて、「3年間思い続けてきたのに」と恩着せがましく言うアンディ・ラウがしつこい中年おやじみたいにしか見えないのはかわいそうなのだけれど、キャラクターの心情を繊細に微妙な部分まで演出したチャン・イーモウには拍手を送りたい。身振りや言葉とは裏腹な真意をすくい取って見せる演出はそうあるものではない。その点で話が上滑りした「HERO」より僕には面白かった。

 反政府組織が乱立した中国、唐の時代。その中で最大勢力の飛刀門の重要人物が遊郭の牡丹坊に潜入しているとの情報を朝廷の捕吏・金(ジン=金城武)と劉(リウ=アンディ・ラウ)がつかむ。飛刀門を殲滅するため、金は牡丹坊で客になりすます。潜入しているのは盲目の踊り子・小妹(シャオメイ=チャン・ツィイー)らしい。激しい戦いの果てに劉は小妹の捕獲に成功するが、小妹は口を割らない。劉は金に命じて小妹を牢から連れ出し、逃亡させる。信用させて飛刀門の本拠地を突き止める計画だった。北へ逃げる金と小妹に朝廷の追っ手が波状攻撃を掛けてくる。その戦いの中で金と小妹の間には愛が芽生え始める。多数の追っ手の攻撃で、竹林の中で絶体絶命の危機に陥った2人を飛刀門の首領が救出。連れてこられた本拠地で金は意外な事実を知らされる。

 キネマ旬報9月上旬号の「刻み込まれたのはアニタ・ムイの不在」という記事によれば、当初、飛刀門の首領にはアニタ・ムイがキャスティングされていた。しかし、病状の悪化から1場面も出演することなく、アニタ・ムイは亡くなった。チャン・イーモウは代役を立てず、脚本を書き換えることで、映画を完成させたという(最後に「アニタ・ムイに捧げる」という献辞が出る)。だから映画の結末は本来の物語とは違うものになっている。確かにアニタ・ムイを登場させれば、クライマックス以降はもっとスペクタクルなものになっていたはずだ。朝廷と飛刀門との戦いも詳しく描かれたはずである。アクション映画としてはだから残念な結果なのだが、物語はスケールダウンしたものの、破綻はしていない。三者三様に本心を隠して進行する物語の中で、金と小妹に本当の愛が芽生えたことが悲劇を生むことになる。任務と愛情の間で心が揺れ動く金と小妹の描写がいい。大変深みのある描写であり、演技であると思う。この一直線の魅力を見せる2人に対抗するには、劉のキャラクターにもうひとひねりあった方が良かっただろう。

 ワイヤーアクションを使った竹林の中での戦いは全体の白眉。この映画、アクションの撮り方に関しては他の追随を許さない完成度があると思う。一部吹き替えはあるが、踊れてアクションもできるチャン・ツィイーの魅力も十分に伝えている。飛刀門はその名の通り、短刀を投げて相手を倒す技術に長けている。CGも使って表現されるこの短刀の描写が面白い。金城武の矢の放ち方は「ロード・オブ・ザ・リング」のレゴラスに負けないくらいスマートで、アクションも申し分なかった。

2004/08/31(火)「NIN×NIN 忍者ハットリくん The Movie」

 「NIN×NIN 忍者ハットリくん The Movie」パンフレットハッピーコーラという清涼飲料水のCMや看板や空き缶が至る所に出てくる。タイアップだとしたらあまりにどぎついと思ったが、そんなコーラはないようだ(同名のお菓子はある)。このCMに何の意味があるのか、2度登場するテレビの無表情な女性アナウンサーと同様に分からない。パンフレットを読むと、鈴木雅之監督は「特に意味やオチはないんですが、全体的にちょっと変な感じにしたかったんです。リアルな現代とは違うハットリくん的な世界観を作りたかった」と言っている。忍者という異形の存在を現代に出すことで、リアリティが失われることを危惧したのかどうかは知らないが、元がコメディなのだから、そういう変な世界にシフトさせるよりは現代そのものに忍者を登場させても別に構わなかった。凝るべきところはそんな部分ではないのだ。同じことは最初に登場する手裏剣のまるで円盤のような見せ方にも言える。あんな風に手裏剣をアップで見せることに何の意味があるのか。意味などないのだろう。鈴木監督の演出はそういうビジュアルに中途半端に凝っている。なのに肝心のドラマがありきたりである。

 伊賀忍者最後の服部一族のカンゾウ(香取慎吾)が父親のジンゾウ(伊東四朗)から江戸に修行に行くよう命じられる。最初に会った人が主人で、主人以外に姿を見られてはいけないという条件付き。カンゾウが主人にしたのは小学生のケンイチ(知念侑季)。2人は変な友情を感じながら、ケンイチの両親(浅野和之、戸田恵子)に知られないようにケンイチの部屋で共同生活をすることになる。ケンイチは学校ではいじめられっ子。そのケンイチのクラスに新しい担任のサトー(ガレッジセールのゴリ)が赴任する。サトー先生は超人的な能力を持っていたが、その正体はカンゾウの宿命のライバル、甲賀忍者のケムマキだった。そのころ東京ではおかしな事件が起こっていた。毒物で意識不明の重体とされる事件で、被害者には一見、因果関係はなかった。共通するのは現場に残された棒手裏剣と被害者の腕にある刺青。やがて被害者は甲賀忍者であることが分かる。

 原作が月刊「少年」で連載開始されたのが40年前。実写のテレビドラマ(全26話)が放映されたのが38年前だ。僕はこのテレビ版をリアルタイムで見ているが、コメディリリーフの花岡実太(ハナオカジッタ)先生(谷村昌彦)に強い印象がある。今回の映画には登場しないのが残念。鈴木監督もリアルタイムで見ている世代だが、テレビ版と同じ作りにするつもりはなかったのだろう。伊東四朗の起用は「ニン」と言えば、伊東四朗だからだそうで、それならばもっと登場場面を増やしても良かったのではないかと思う。全体的にギャグが幼稚である。子ども向けだからということではなく、ギャグのレベルが低い。

 多用されるCGはまずまずのレベルだし、主演の香取慎吾も悪くないけれど、どうもテレビの2時間ドラマで十分な作品を見せられた感じ。フジテレビ製作の映画で、そこそこヒットはするだろうが、刹那的な商売してるなという印象がつきまとう。

2004/08/26(木)「石井のおとうさんありがとう」

 「石井のおとうさんありがとう」パンフレット明治時代に3000人の孤児を救った高鍋町出身の石井十次の生涯を描いた山田火砂子監督作品。身も蓋もない言い方をすれば、極めて凡庸な作品である。題材自体はいいのに、料理の仕方が決定的に凡庸すぎる。石井十次の生涯をなぞっただけで、ドラマティックなポイントがない。だから主演の松平健をはじめ出演者にも演技のしどころがない。おまけに自主上映の形での公開が中心のためか、16ミリフィルム。画質の悪さ、画面の狭さが加わって、これならテレビの方がましか、と思えてくる。脚本も担当した山田監督は「私は一人でも多くの方にこの事実を知って頂きたいと思います」とパンフレットに書いている。あまり知られていない事実(というわけでもないのだが)を知らしめることが映画製作の目的にあったとしても、生涯を単になぞっただけの映画にしていいわけがない。出演者には恵まれているのに、これでは惜しい。

 映画は日系ブラジル人の西山洋子(今城静香)が病床の祖父から1枚の写真を手渡される場面で始まる。「石井のおとうさんにありがとうと言ってくれ」。祖父からそう言われた洋子は“石井のおとうさん”について知るために宮崎県木城町にある石井記念友愛社に行き、園長の児島草次郎(大和田伸也)から石井十次がどんな人物だったかを聞く。医学生の石井十次(松平健)は明治20年、岡山県大宮村の診療所で代診中に、食べるものにも困っていた浮浪者の女から男の子を預かる。この話が広まり、十次のもとにはたくさんの孤児が集まるようになる。熱心なキリスト教信者であった十次は妻の品子(永作博美)とともに孤児の世話にあたっているうちに、医師になることをやめ、孤児院を開くことを決意。濃尾大地震や東北の大飢饉などで十次が預かる孤児は急速に増えていく。そんな十次の姿勢に芸者の小梅(竹下景子)や資産家の大原孫三郎(辰巳琢郎)は物心両面にわたる援助を積極的に行っていく。

 十次が設立した岡山孤児院には最も多い時で1200人もの孤児がいたという。孤児たちが集合した記念写真がパンフレットにも収められているが、この数は相当なものである。石井十次が成し遂げたことに対しては敬服するしかない。それはいいのだが、パンフレットの扉には「一度は放蕩に身を持ち崩しつつも、改心して立ち直り…」とある。この部分を映画はまったく省略している。10年ほど前に放映された日本テレビ「知ってるつもり?!」では性病にかかったことが十次のターニングポイントの一つだったと紹介していた。これを見た時は、それはあんまりだろうと思ったが、一人の人間を描くからにはそういう部分も必要なのである。映画はきれい事で終わった観がある。

 だから十次の人間性も分かったようで分からない部分が残る。もっともっと対象に詰め寄り、深い部分をえぐっていく視点がなければ、深みのある映画にはなりようがない。