2014/01/26(日)「ハンナ・アーレント」
ナチスに協力したユダヤ人指導者がいたことと、アドルフ・アイヒマンが思考する能力のない凡庸な人物であったことを指摘しただけでバッシングされるということ自体が今となっては驚きだ。特にナチスへの協力はアイヒマン裁判の中でユダヤ人証人が証言した事実なのだから、バッシングを受ける謂われはない。
映画の白眉はバッシングを受けたハンナ・アーレントがラスト近く、大学の学生に語る8分間のスピーチのシーン。マルガレーテ・フォン・トロッタ監督による映画全体の演出には際立って優れた部分は見当たらないが、このシーンはアーレントを演じるバルバラ・スコヴァの演技と相まって熱がこもっており、映画の主張を強烈に印象づける。
「世界最大の悪は、平凡な人間が行うものなのです。そんな人には動機もなく、信念も邪心も悪魔的な意図もない。人間であることを拒絶した者なのです。そしてこの現象を、私は『悪の凡庸さ』と名づけました」
「人間であることを拒否したアイヒマンは、人間の大切な質を放棄しました。それは思考する能力です。その結果、モラルまで判断不能になりました。思考ができなくなると、平凡な人間が残虐行為に走るのです」
「“思考の嵐”がもたらすのは、知識ではありません。善悪を区別する能力であり、美醜を見分ける力です。私が望むのは、考えることで人間が強くなることです。危機的状況にあっても、考え抜くことで破滅に至らぬよう」
アイヒマンの登場シーンには記録フィルムが使われ、実際のアイヒマンがどんな人物であったのか、その一端が分かって興味深い。これを見る限り、アイヒマンは知的で優秀な人物のように思える。「思考する能力」のない人物には見えないのだ。アイヒマンには思考する能力がなかったのではなく、アーレントが言うように思考する能力を放棄していたのだろう。ユダヤ人の強制収容所への移送命令を唯々諾々と実行するだけだったのは体制に逆らう勇気がなかったことと、自分の保身しか考えなかったからだろう。
アーレントの批判の矛先は知識をため込んだだけの凡庸なインテリゲンチャにこそ向けられている。勇気がなく、行動もしないインテリゲンチャに価値はない。思考することを放棄したアイヒマンとユダヤ人指導者はだから同種の存在なのである。
アイヒマン裁判を傍聴したアーレントによる「イェルサレムのアイヒマン」は難解な書物のようだ。そのポイントを分かりやすく描き、アーレントを取り上げたこと自体にこの映画の価値はあると思う。演出の技術がいかに優れていようと、つまらない映画は多い。演出の技術よりも大事なことはあるのだ。
2014/01/04(土)「LOOPER ルーパー」
30年後の未来で死体を始末できない理由が説明されないし、生きている人間を過去に送るより、死体を送って処理だけさせた方が手間がかからないのではないかと思う。タイムトラベルものの常でラストの解決策では未来だけでなく、過去も変えてしまうのではないかとも思えるのだが、B級SFアクションとしてタイトな出来だ。
タイムトラベルにもう一つのSFのアイデアを組み合わせたのがいい。これ、ちゃんと伏線も張ってある。よくあるCG満載な割に空疎な大作よりもよほど好感の持てる映画だと思う。
エミリー・ブラントも相変わらずいいですね。
2013/12/16(月)「ゼロ・グラビティ」
最後まで見て初めて、グラビティ=重力という原題の意味が感慨深いものになる。邦題にある「ゼロ」はつくづく余計だと思う。配給会社はいったい何を考えておるのか。
という些末なことはどうでもよい。映画は3Dの技術の高さに驚嘆させられるものの、それよりも決してあきらめない主人公を置いたことが成功の大きな要因になっていると思う。次から次に襲いかかる困難を一つ一つクリアしていく主人公。「宇宙からの脱出」を図るため、懸命に必死に知力と体力を駆使する姿が感動的だ。本当に人を引きつけるのは技術よりも物語なのだ。
後半は一人芝居となるサンドラ・ブロックに「しあわせの隠れ場所」に続いて2度目のオスカーの呼び声があるのも納得だ。宇宙服を脱いで、宇宙船の中で奮闘する姿は「エイリアン」のシガニー・ウィーバーを彷彿させた。49歳なのに引き締まったスタイルの良さには感心させられる。女優は体を鍛えておかなくてはいけない。絶望的状況の中でもユーモアを忘れず、ブロックを鼓舞するジョージ・クルーニーも格好良くて好ましい演技だ。
余計なものをそぎ落として緊張感とサスペンスが持続する91分。映画の中の時間と実時間が一致しているようにも思えるが、90分で地球を周回する宇宙のごみが2度襲来するので、映画は少しだけ時間が長いことになる。
2013/09/22(日)「アルゴ」
なるほど、これはアカデミーが作品賞をあげたくなるのがよーく分かる。ハリウッドの映画人がすごく魅力的に見えるのだ。イランの米国大使館にイラン国民が殺到する緊張感あふれる場面から一転、メイクアップアーティストのジョン・チェンバース役ジョン・グッドマンが登場すると、画面の雰囲気ががらりと変わる。フェイク臭が立ちこめて、これはコメディかと思えてくる。プロデューサー役のアラン・アーキンとグッドマン、実に儲け役だ。映画が成功したのはこの2人の起用も大きい。ラストにはジャック・ニコルソンまでカメオ出演していて、映画人ならびに映画ファンなら喜ばないわけがない。
サスペンス映画としては普通の出来だと思うが、このハリウッドパートの描写が好ましく、作品に緩急のアクセントが生まれた。これを緩急自在の演出と言ってよいかどうかは分からないが、ベン・アフレック監督、隙のない作品に仕上げている。次作に予定されているデニス・ルヘインの大傑作「夜に生きる」もこの調子で演出してくれれば、十分に期待できるのではないかと思う。
2013/09/16(月)「嘆きのピエタ」
久しぶりのキム・ギドク。3年間の隠遁生活に入る前のギドク作品は鮮烈な描写と異様なシチュエーションに比べて思想的背景が薄弱と感じることが多かった。ここまで引っ張ってきて、結論はそれだけかと思わされることが多かったのである。隠遁生活を経てギドクは変わったのか?
結論から言えば、ギドクは変わっていない。3年ぐらいで人間、劇的に変わることなんてあり得ないのだ。ただ、今回はミステリー的趣向がうまくいっている。優れたミステリーとつまらないミステリーを分けるのは謎が解けた後に何を描くかだと思う。謎が解けてめでたしめでたしだけで終わるミステリーにろくなものはない。この映画では母子の愛情や絆、人間性といったテーマがずっしりと描かれる。
赤ん坊の頃に母親に捨てられて一人で生きてきた主人公のガンド(イ・ジョンジン)は利子が10倍というヤミ金の取り立て屋。借金を返せない場合は手を切断したり、足を折って障害者にして保険金を受け取る。非人間的であくどいやり口だ。そんなガンドの前にある日、母親と名乗るミソン(チョ・ミンス)が現れる。「捨ててごめんなさい」と謝るミソンを最初、疑っていたガンドは初めて味わう肉親の情に徐々に変わり、ミソンを「母さん」と呼んで、笑顔を見せるようになる。
もちろん、ギドク作品がこれだけで終わるわけはない。終盤にさしかかるところで映画はネタをばらし、悲痛で不幸で重たいラストに突き進んでいく。しかし、それにもかかわらず、この映画、救いがある。ガンドは決して不幸なままじゃない。母子の愛情を感じさせ、人間性を取り戻すことの意味を映画は静かに訴える。
ヤミ金から借金しているのは韓国の高度成長から取り残されたような寂れた町工場の主人たち。この寂れた風景と金に困った人たちの姿が印象に残る。パンフレットのインタビューでギドクはこう語っている。「韓国社会では名誉や権力、外見などさまざまなことが金銭で解決されることがあります。しかし金銭によって傷つけられる人間も多い。それを『嘆きのピエタ』で描いてみたかったのです。……韓国だけでなく世界中の多くの国が抱えている資本主義の犠牲、つまり経済的な理由で人々が傷つけられているという現実に対するこの映画のメッセージを、(ベネチア映画祭の)審査員が読み取ってくれたのだと思いました」。
ギドクの言う通り、それがベネチア映画祭金獅子賞の要因として強く働いたのだと思う。そうした部分の普遍性がこの映画の力強さの根源にある。