2004/03/07(日)「K-19」
「父上と同じように収容所送りになる。あなたは軍歴を失う」
「我が家はそういう伝統らしい」
モスクワへの命令違反により害が及ぶことを案じる副艦長リーアム・ニーソンに対し、艦長のハリソン・フォードがさらりと答える。急造の原子力潜水艦K-19で起きた放射能漏れ事故で艦内は放射能汚染が進む。乗組員7人が“レインコートと同じ”ケミカルスーツで原子炉の修理を行い、被曝する。これ以上、乗組員を危険にさらせないと、ハリソン・フォードは軍務違反を決意するのである。
最初はハリソン・フォードにしては珍しい悪役かと思っていたら、最後でこういう逆転が待っていた。キャスリン・ビグローは分かっているなと思う。女性なのに、「マスター・アンド・コマンダー」のピーター・ウィアーよりよほど分かっている。
それにしてもひどい事故である。冷戦時代のタワケタ行動とはいえ、原子力潜水艦によって米軍に示威行動をするのがK-19の任務なのである。核兵器も積んでいるし、炉心溶融に至ったら、広島の原爆投下以上の惨事になるところだった。チェルノブイリ事故の際にも冷却水の中に飛び込んだロシア人がいたが、この映画で描かれるケミカルスーツでの補修も同じようなものだ。ちらりとうかがえる反共テーマを割り引いても、緊張感あふれる傑作だと思う。
2004/03/07(日)「黒水仙」
宮崎ロケがあった韓国映画。50年前の朝鮮戦争直後の悲劇が現在の殺人事件につながるアクションだが、脚本があまりうまくないのでB級にしかなっていない。宮崎ロケにはシーガイアや中央通(ニシタチ? 舞妓さんが歩いてる)のほか、犯人を追って高千穂峡→綾の大吊り橋→サボテンハーブ園→サンメッセ日南と舞台が移り変わるのに苦笑。まあしょうがありませんが。
監督はペ・チャンホ。俳優では不運な身の上(独房に50年間入れられた)の男を演じるアン・ソンギ(「眠る男」「MUSA」)の演技に見所がある。
2004/03/05(金)「マスター・アンド・コマンダー」
恐らく、ピーター・ウィアー監督は海の男の誇りとか心意気などを描くことに興味はないのだろう。パトリック・オブライアンのジャック・オーブリーシリーズ第10作「南太平洋、波瀾の追撃戦」を映画化したこの作品、嵐や砲撃、帆船内部の描写などビジュアルな部分は素晴らしいのにあまり話が盛り上がってこない。エモーションの高まりがないのである。これは主に主人公のキャラクターから来ており、ジャック・オーブリー、立派な軍人ではあっても海洋冒険小説の主人公としては魅力に欠ける。アカデミー10部門にノミネートされながら、2部門のみの受賞(音響編集賞と撮影賞)に終わったのはそんなところに要因があるように思う。
時代は1805年。英国海軍のフリゲート艦サプライズ号は霧の中から現れたフランスの船アケロン号から奇襲を受け、霧の中に逃げ込む。アケロン号は民間の私掠船で捕鯨船を襲っているらしい。船長のジャック・オーブリー(ラッセル・クロウ)は反撃のため、港に引き返すのをやめ、海上で船を修理してアケロン号を追う。サプライズ号よりも速く、大砲の数も多いアケロン号をどう倒すかがメインの話で、これに乗組員と士官の対立など過酷な船内の様子が絡む。
出てくるのは男ばかりなのに男臭さは意外に希薄だ。ウィアーに興味があるのは船長のジャック・オーブリーよりも医師で博物学者のスティーブン(ポール・ベタニー)なのだろう。だから本筋とは関係ないガラパゴス諸島に上陸するエピソードが必要以上に面白くなってしまう。
中盤、嵐の海に落ちた乗組員をオーブリーが泣く泣く見殺しにする場面がある。折れたマストがブレーキとなり、そのままでは船が転覆する恐れがあったためだが、このエピソードがその後の主人公の考えに影響を及ぼさないのは疑問。このほかのエピソードも本筋の物語と深くかかわってこない弱さがあり、原作がどうかは知らないが、脚本にはもう少し情緒的な工夫が必要だった。オーブリーの行動は軍人としては正しいのだろうが、共感できない部分が残るのだ。
2004/02/26(木)「ゼブラーマン」
「この格好でジュース買いに行っちゃおうかな」。
ゼブラーマンのコスチュームを身に着けた市川新市(哀川翔)がつぶやく。コスチュームは自分でミシンで縫ったものである。昭和53年に視聴率低迷のため7話で打ち切られた「ゼブラーマン」の絶大なファンである主人公は大人になってもゼブラーマンに憧れている。学校の教師だが、生徒からは馬鹿にされ、そのため息子はいじめられている。娘は援助交際しているらしいし、妻は不倫しているらしい。映画は序盤、スーパーヒーローものの冗談のような展開なのだが、やがて本気になり、ダメな父親、ダメな先生が復権し、スーパーヒーローが誕生して宇宙人を撃退するまでを描く。
これは監督の三池崇史の趣味というより、脚本の宮藤官九郎の思い入れなのだろう(と思ったが、パンフレットを読むと、三池崇史が手を入れた部分もかなりあるらしい)。「先生、聞きたいことがあるんです。…先生はゼブラーマンじゃないんですか」。鈴木京香が主人公に尋ねるセリフはなんだか「ウルトラセブン」を思い起こさせた。ちょっぴり冗長な部分はなきにしもあらずだが、僕は面白かった。Anything Goes。願えばかなうという字幕が最初に出て、映画はその通りの展開を見せる。そういう真正面から言われると恥ずかしくなるようなことを、スーパーヒーローものの設定を借りて言っている力強さがこの映画にはあり、本筋は非常にまともである。これが見ている人を熱くさせる理由なのだろう。
スーパーヒーローになぜあんなコスチュームが必要なのか、現実世界にはまるで合わないのではないかという疑問が実はスーパーヒーローものにはつきもので、「バットマン リターンズ」でティム・バートンはそのあたりまで描いて見せた。しかし、この映画を見ると、人はコスチュームを着けることで別人になれるという効果があるのが分かる。ゼブラーマンがなぜ、あんな力を持てるのか、映画では詳しく説明されないけれど、それでもいいんだ、ヒーローになったんだからという説得力が十分にあるのだ。日常の自分とは違う格好をすることで、人は何らかの力を得るのだろう。テレビの「ゼブラーマン」は空を飛べなかったために宇宙人に負け、人類は支配されてしまう。そのためもあって主人公は飛ぶことに執着する。何度も何度も飛ぶことに挑戦し、傷だらけになる。だからようやくゼブラーマンが校舎の屋上から落ちた生徒を助けるために空を飛ぶシーンは「E.T.」の自転車が空を飛ぶシーンに近い感動がある。「俺の背中に立つんじゃねえ」「白黒つけるぜ」という序盤に出てきたセリフはクライマックスに熱を込めて繰り返される。
主演の哀川翔は硬軟織り交ぜた演技で主演100本目にふさわしい出来。鈴木京香のゼブラナースのコスチューム(絶品!)に驚き、渡部篤郎の防衛庁の役人の面白いキャラクターにも感心させられた。志の低いパロディにしなかったスタッフと出演者を賞賛したい。
2004/02/19(木)「この世の外へ クラブ進駐軍」
主人公の父親役で楽器店を営む大杉漣がリヤカーにオルガンを積んでいる。「ああ、ちょっと上げて。もういいですよ、下げて」と言ってオルガンを積み終えた大杉漣は「どうもすいません。通りすがりの人に」と礼を言うのだった。この場面、もう一度繰り返され、おかしさを煽る。あるいは、新宿のバーでジャズバンド「ラッキーストライカーズ」の面々に客の復員兵がいちゃもんを付け、険悪な雰囲気になる場面。カットが切り替わると、彼らは一緒に肩を組んで演歌を歌っている。この場面も2度繰り返される。こういう場面を見ると、阪本順治の細部の描写のうまさが際だっていることが良く分かる。「この世の外へ クラブ進駐軍」はそうした描写の積み重ねで戦後の日本の一断面を切り取った映画だ。
実際、この映画に出てくる戦後の焼け跡や闇市の様子はここしばらく日本映画では描かれなかったことで、非常に新鮮さとリアルさを感じる(かなり力を入れた造型である)。そこに住み、生きる人々の顔つきもいかにも戦後の日本人という感じであり(オーディションでそういう古風な顔つきの人を選んだそうだ)、当時の様子が詳しく再現されている。
主人公の広岡健太郎(萩原聖人)はフィリピンのジャングルで終戦を知らせるビラと飛行機から流れるジャズ(「A列車で行こう」)を聞く。健太郎は復員後、ジャズバンドを組んで進駐軍の基地で演奏することになる。広岡は一応の主人公ではあるけれど、阪本順治の狙いは主人公の生き方などではなく、ジャズバンドの仲間(オダギリジョー、松岡俊介、村上淳、MITCH)や米兵たちのそれぞれの生き方を描いて、群像劇のような趣を出し、戦後そのものを描くことにあったのだろう。歌手を演じる前田亜季やパンパンの高橋かおり、ストリッパーの長曽我部蓉子などの女優にもそれぞれにいいエピソードが与えられている。その意味では非常に充実した描写のある映画である。
そうした描写のうまさに比べると、話の展開はそれほどうまくない。ラッキーストライカーズは禁じられた「ダニーボーイ」を演奏したことで、基地への出入りを禁じられ、他の事情も重なってバラバラになっていく。「ダニーボーイ」の演奏が禁止なのは軍曹ジム(ピーター・ムラン)が事故で亡くした息子ダニーを思い出してしまうからだ。バンドは仲間の死をきっかけに再び結集し、基地で演奏することになる。そこで歌うのは朝鮮戦争で死んだ米兵ラッセル(シェー・ウィガム)が作った「Out of This World(この世の外へ)」であり、「ダニーボーイ」である。この部分があまりうまくない。バラバラになっていく過程が簡単すぎるし、ジムが「ダニーボーイ」をリクエストする心情もよく伝わってこない。いやもちろん、朝鮮戦争への出征を命じられ、ピストル自殺をしようとした米兵をなだめる意味があるのは分かるのだが、あまり説得力がないのである。ここは物語のポイントになる部分なので、もっと緻密に描く必要があっただろう。
阪本順治は米同時テロをきっかけにこの映画の製作を決めたそうだ。エキストラとして出てくる米兵の中には映画撮影の後、イラク戦争に行った者もいるという。暗い世相がジャズや歌謡曲によって癒されるように、戦後の日本は復興の道を歩んだ。それとは裏腹に米兵たちはまた別の戦争に行かなければならない。ジャズを楽しめるのが「この世」であり、「その外へ」行くとは戦争へ行くことなのだと思う。