2003/08/13(水)「ハルク」

 アメリカン・コミックの原作を「グリーン・デスティニー」のアン・リー監督が映画化。アン・リーが「ハルク」を監督すると聞いた時には随分アンバランスだなと思ったが、映画もアンバランスなままに終わっている。前半のマッド・サイエンティストの父親とその実験台にさせられる息子の描写は「フランケンシュタイン」で、後半、暴れ回るハルクを恋人が止める描写は言うまでもなく「キング・コング」。脚本は原作とは違って、ハルク誕生の要因を父親のせいにして、父と息子の関係に焦点を当てているのだが、これがどうも中途半端。その意図があるのなら、後半をキング・コングにすることはなかったのだ。

 アン・リーの演出にも緩い部分が目に付き、「パイレーツ・オブ・カリビアン」同様、2時間18分と無用に長い。ハルクの造型が動きも含めてお粗末だとか、ILMが担当したVFXに見るべき部分がないとか、全体的にまとまりを欠き、盛り上がらない映画になってしまった。良いのはヒロインのジェニファー・コネリーだけである。

 冒頭、主人公ブルースの子ども時代を順を追って説明していく描写から工夫が足りない。ブルースの父親は軍の研究所に所属する科学者で人間の再生能力を高める研究をしていた。赤ん坊のブルースを実験台にしたことや父と母の争いの場面を映画は思わせぶりに描いて(これが長い)、現在のブルース(エリック・バナ)にようやく話が移る。ブルースも科学者になっており、やはり傷の再生能力を高める研究をするようになった。両親は子どものころに死んだと聞かされており、これは偶然の一致である。ブルースは元恋人のベティ・ロス(ジェニファー・コネリー)と一緒に実験しているが、ある日、致死量のガンマ線を浴びてしまう。まったくの無傷でいられたものの、怒りに駆られると、緑色の巨人ハルクに変身するようになってしまった。そして死んだと思っていた父親(ニック・ノルティ=ほとんど怪演)が生きており、かつて自分を実験台にしていたことを知る。

 ハルクがつかまったジェット機がグングン高度を上げて成層圏に至り、一瞬、星がきらめくシーンは「ライト・スタッフ」を思わせる。しかし、そんな高度から海に落ちたのに、あの程度の水しぶきで良いものかどうか。ここだけでなく、VFXはどれもこれも映像のダイナミズムに欠けている。戦車を振り回すシーンは予告編で見ても漫画みたいだと思ったが、本編ではさらにブルースのDNAを注入されて怪物化した犬との戦いとか、漫画みたいなシーンが連続する。ILMがいつも良い仕事をしているわけではないのである。

 恐らく、アン・リーはハルクの悲劇的な部分を中心に映画化したいと考えたのだろう。残念なことに主演のエリック・バナの演技が深みに欠けるので、ドラマも平板なままである。望まれない怪物の悲劇で比較するなら、これはデヴィッド・クローネンバーグ「ザ・フライ」の足下にも及ばない。第一、この映画でハルクを死なせるわけにはいかないのだから、基本的に悲劇になりようがないのである。アン・リーはアメリカン・コミックにもSFにも興味がないのだと思う。監督を引き受けるメリットはなかった。

2003/08/07(木)「パイレーツ・オブ・カリビアン 呪われた海賊たち」

 ディズニーランドのアトラクション「カリブの海賊」を基にしていると聞いたのでお子様向けかと思ったら、そうでもなかった。牢屋の鍵をくわえた犬に向かって囚人がこっちへ来いと叫んでいる場面や、敵役が骸骨のゾンビたちである点はアトラクション通りで、あとは自由に作ってある。監督のゴア・ヴァービンスキーは「ザ・リング」に続いて、凡庸なりにまずまずの演出を見せ、「ザ・メキシカン」の汚名はぬぐい去ったようだ。しかし、話に広がりがないし(狭いところで、ごちゃごちゃやっている)、展開がもたもたしているし、2時間23分もつ話でもない。展開が難しくないのはやはりお子様を意識したからだろう。レイティングがPG-13とはいっても、アメリカでヒットしているのはファミリー映画であるからにほかならない。

 タイトルが出てきただけで始まるオープニングがかつての海賊映画をなぞった感じである。カリブ海を航行中の英国海軍の船が漂流している少年ウィルを発見する。黒い海賊船に襲われたらしい。総督の娘エリザベスは少年が掛けていた髑髏の図柄入りの金のメダルをとっさに隠す。そして8年後、エリザベス(キーラ・ナイトレイ)は美しく成長し、ウィル(オーランド・ブルーム)は鍛冶屋となっている。総督の就任式に出席したエリザベスは海に落ちたところを海賊のジャック・スパロウ(ジョニー・デップ)に助けられる。その夜、黒い海賊船ブラック・パール号が町を襲撃。エリザベスは船長バルボッサ(ジョフリー・ラッシュ)に囚われの身となる。ウィルはジャックの助力を得て、エリザベスを助けるためブラック・パール号を追う。

 黒い海賊たちは実は呪いを掛けられて死ぬに死ねないゾンビで、月明かりの下では骸骨に変身する。ILMが担当したVFXは人間から骸骨への変化を実に自然に見せる。デップやブルームと骸骨との戦いもよくできている。しかし、原初的な感動に関してはレイ・ハリーハウゼンが「アルゴ探検隊の大冒険」で見せたモデル・アニメーションの骸骨との戦いの方が優れているようだ。あちらの方が手間がかかっていそうに見えるのである。

 話は金のメダルを巡る争奪戦で単純なのはいいのだが、“死の島”で同じような場面を2度繰り返したり、話自体にも新鮮さが感じられない。もう少し脚本に工夫が欲しいところだった。ありきたりなのである。

 ジョニー・デップは沈みかけた船で港町にやってくる登場場面からおかしい。会う女に殴られ続けるというのが実にピッタリな感じで、この映画を支えている。清楚に美しく、どこかウィノナ・ライダーを思わせるキーラ・ナイトレイはこれでブレイクすると思える演技。オーランド・ブルームは「ロード・オブ・ザ・リング」のレゴラスの方が颯爽とした感じがあるが、この役柄も悪くなかった。

2003/07/28(月)「茄子 アンダルシアの夏」

 黒田硫黄の連作短編「茄子」の一編「アンダルシアの夏」を「千と千尋の神隠し」などの作画監督・高坂希太郎が監督した47分のアニメーション。47分という長さは映画としては商売になりにくい中途半端さで、オリジナルビデオとして企画されたのではないかと思ったら、やはりパンフレットにそう書いてあった。いくら短編が原作だからといっても、劇場にかける以上は1時間20分程度の作品にするものなのだ。その代わり料金は1,000円だったが、これには異論があって、以前3時間の映画で2000円だったか3000円だったかを取った作品があったけれど、上映時間の長さと料金とは決して比例するものではないだろう。無駄に長くて心をピクリとも動かさない作品はたくさんあるし、短くても十分満足できる作品もある。

 劇場用映画としての長さはともかく、これは自転車レースをアニメではたぶん初めて取り上げて、CGも駆使した佳作になった。主人公の心情とレース展開がクロスしてくるところが定石とはいえ、うまく、ラスト近く、かつて兵役から帰った主人公が故郷でつらい思いをした経験とレースを終えた今の主人公がオーバーラップするところでなんだかジーンと来てしまった。この作品は十分、こちらの心を動かしてくれた。

 スペイン全土を駆け抜ける自転車レース「ブエルタ・ア・アスパーニャ」。主人公のぺぺはパオパオビールチームのアシストとして故郷のアンダルシアでのレースを走ることになる。摂氏45度の中で行われる過酷なレース。集団から抜け出したペペを8人の選手が追う。故郷ではちょうど兄のアンヘルがカルメンと結婚式を挙げたところだった。カルメンはかつてのペペの恋人。兵役に行っている間に兄に奪われた。ちょうどペペが兄の兵役の間に兄の自転車を自分のものにしたように。パオパオビールのエース・ギルモアがレース中に事故を起こしたことから、ペペはエースとして最後までトップを行くよう命じられる。スポンサーから首を言い渡されそうになっていたペペは必死でペダルをこぐが、後方にいた集団からみるみる迫られてくる。

 ペペは兄とカルメンのこともあって故郷を遠く離れたいと思っているが、現実はなかなかうまくいかない。絶望的なつらさは乗り越えたけれど、まだちょっとつらい思いが残っている主人公なのである。描き込めば、さらに深く描ける題材なのだが、映画は47分という短さもあって、淡泊である。しかしその淡泊さが、かえってスマートに見える。主人公が自分の不幸を嘆くようなダサダサの展開から逃れられたのはこの描写のスマートさがあったからだろう。高坂希太郎の脚本・演出は間違っていないと思う。レース場面のCGも迫力がある。

 それにしても、後方集団から3分以上離れていたのに集団が残り5キロでみるみる追いついてくるのはマラソンでは考えられない展開。自転車レースはそういうものなのか。

2003/07/21(月)「踊る大捜査線 The Movie2 レインボーブリッジを封鎖せよ!」

 5年前の映画版第1作でおおおおお、と思ったのは青島(織田裕二)が「天国と地獄だああ」と叫ぶシーンだった。そこで座り直して、この脚本家はえらいと思った。君塚良一の名前を認識したのは、遅まきながらこの時。今回、最初の方に「天国と地獄」のビデオのパッケージが出てくるのはご愛敬である。

 映画の引用で言えば、今回は「砂の器」+「機動警察パトレイバー2」が入っている。「砂の器」に関しては方言の使い方がそのままだし、見ている人にはすぐに分かる(「砂の器だああ」とは叫ばない(織田裕二は叫びませんが、深津絵里が叫んでいるそうです。見落としてました)。「パトレイバー2」は意識しなかったのかもしれない。進化する街・お台場を舞台にしていることで、必然的に似てきたのだろう。5年前、空き地が目立ったお台場は今や年間4000万人が訪れる観光・レジャースポットになった。そのお台場の地理が物語の重要なポイントになっているし、冒頭、SAT(警視庁特殊急襲部隊)が豪華客船に突入する場面の呼吸もパトレイバー的だった。現場のズッコケ組が事件解決に大きな役割を果たすというのも特車2課の面々の活躍と同じである。ただ、犯人側のスケールが「パトレイバー2」に比べると、ずっと小さい。この程度の犯人の逮捕に警視庁側の捜査態勢は大げさではないか。また、犯人側のキャラクターは現場の刑事たちとの共通点があるのだが、それがうまく表現できていないのは残念だ。

 4つの事件が同時進行するいわゆるモジュラー型の構成である。メインの猟奇連続殺人のほか、親子4人の“アットホームなスリ”と連続噛みつき魔、湾岸署の神田署長(北村総一郎)の不倫メール事件(これはいつもの署内の騒動である)が描かれる。スリと噛みつき魔の捜査に傾注する湾岸署員に対して、連続殺人の捜査本部長を務める沖田管理官(真矢みき)は「所轄の仕事なんてどうだっていいでしょう」と一喝する。「踊る大捜査線」がテレビシリーズの時から一貫して描く現場とキャリア組の確執がこの映画でも重点的に描かれる。いや、この映画はこの確執を描くことだけを念頭に置いたようだ。

 「私たちの仕事はやらなきゃいいって言われるような、そんな仕事なんですか」「俺たち下っ端はなあ、地べたはいずり回ってるんだ」。そんなセリフに象徴される現場の仕事をそれこそ現場主義とでも言うべき描写で執拗に描く。このシリーズが圧倒的な大衆性を備えているのはこういう部分があるからだろう。犯人側をあまり描かないのはこの確執を描くことに筆を費やしたかったからだと好意的に解釈しておく。

 解釈はしておくが、重大な事件が発生しているのにスリや噛みつき魔を追うことを主張するような描写はリアリティーを欠く。警察は重大事件が起こったら、泥棒なんて単純な事件はほったらかしにしておくものなのである。キャリア組の描写もデフォルメされすぎており、君塚良一の脚本は今回、それほどの充実度はない。これは本広克行の演出にも言え、先に書いた冒頭の場面の手際も決して良くないし、全体的に緩い印象だ。

 穴だらけの出来なのに、それでもなおかつ成功しているのは出演者の呼吸がぴったり合っているからで、観客が求めるもの(例えば、青島とすみれの関係。「やっぱり、愛してる…」のセリフに拍手)をことごとく見せてくれるからでもあるだろう。憎まれ役の真矢みきはレギュラー陣に負けない好演をしている。口跡の良さと迫力のある演技はさすが舞台の人なのだなと思う。

 気になったのはフィルムの色合いがくすんだ場面があること。HD24pでの撮影が影響しているのだろうか。

2003/07/16(水)「ターミネーター3」

 12年ぶりの第3作。ジェームズ・キャメロンは降り、ジョナサン・モストウ(「U-571」)が監督した。そして驚くほど手堅く、真っ当なSFアクション映画になった。モストウはシリーズのセルフパロディ的な描写でユーモアを挟みつつ、ハードなアクションを徹底的に見せる。ストーリーもよく考えられていて、人類を支配するスカイネットの正体や、成長したジョン・コナー(ニック・スタール)とケイト・ブリュースター(クレア・デーンズ)の関係、衝撃的ラストまで過不足なく描かれてある。未来から現代へ殺人マシーンが送られてくるという基本プロットを踏襲しながら、新たな話を作り上げたと言ってよく、ここから始まる人間対機械の戦いの続きを見たくて仕方がなくなる。時間テーマSFの常でパラドックスじゃないかと思える部分もあるのだが、見ている間はそれを感じさせないタイトでスピーディーな演出は見事。モストウの起用は大成功だったと思う。

 パンフレットでも触れられているが、ラストは「猿の惑星」シリーズを思わせるものである。「猿の惑星」は2作目で地球が核兵器によって消滅し、それでジ・エンドになるはずだったが、製作者たちは地球の爆発によって宇宙船が過去にタイムスリップし、2匹の猿が現代に現れるという凝った設定の第3作を用意した。「ターミネーター」シリーズも2作目でスカイネットの誕生を阻止したのだから、本当は3作目は作りようがない。シリーズを続けるための設定が「猿の惑星」ほど考えられてはいないのは少し残念だが、とにかくスカイネットは未来に現れることになる。そして新しいターミネーターT-Xを現代(時代は明示されないが、前作から10年たっている設定だから2004年のはずだ)に送り込んでくる。同時にシュワルツェネッガー型のT-850も再びジョン・コナーの元に送り込まれる。前半はなぜターミネーターが現れたのかの理由を説明しないまま、新旧のターミネーターの壮絶な戦いが描かれる。クレーン車を使ったカーアクションにまず圧倒される。通りの建物を次々にぶち壊しながら繰り広げられる凄まじいカーチェイス。こんなの見たことがなかった。ここを見るだけでもこの映画には価値がある。

 ストーリーの詳細を書くのは避けるが、後半はスカイネットの稼働を阻止しようとするコナーとケイト、T-850を執拗にT-Xが追いかけてくる。ターミネーターの原型となるロボットT-1や空飛ぶ破壊兵器のプロトタイプも登場してくる。なぜ、送られてきたターミネーターが古いタイプのシュワルツェネッガー型なのかという説明も後半にあり、そこがまたSF的でいい。スカイネットによる核ミサイル発射まで3時間という設定が緊迫感を盛り上げる。

 僕は前作「T2」のVFXの充実ぶりには感心したが、ターミネーターが人間を傷つけないという制約があったためか、アクションシーンのインパクトはそれほどでもないなと思った。ストーリー的にもロマンティシズムとSF的アイデアが見事に融合した第1作の方がまとまりが良かったと思う。今回は両方のいいとこ取りをした感じである。モストウは前2作をよく研究している。T-Xは金属の骨格にT-1000の液体金属の表皮を付けたような感じ。演じるクリスタナ・ローケンの硬質な表情が良く、この映画の成功に貢献している。

 ニック・スタールは外見が冴えないのだが、演技力はあり、次第に人類のリーダーになるコナーらしくなってくる。クレア・デーンズはリンダ・ハミルトンの代わりを十分に果たした。この2人の関係は第1作のカイル・リースとサラ・コナーを彷彿させるものである。シュワルツェネッガーも前作の人間らしさを排してロボットらしさを前面に出しており、最近の映画の中ではベストの演技ではないか。

 続編を意識したようなラストで、こちらとしても話の続きがどうしても見たくなるけれど、作るのはなかなか難しいだろう。話がここまで進んだ以上、未来からターミネーターが送られてくるというパターンはもう使いにくいからだ。そして、この映画の続きにシュワルツェネッガーが登場するとすれば、それはスカイネットが作ったターミネーターになるはずで、ということは第1作のような悪役のターミネーターとして登場せざるを得ないだろう。