2003/01/22(水)「壬生義士伝」
「たそがれ清兵衛」と同じ東北の下級武士が主人公で、清兵衛と同じく剣の達人。主人公が幕末の戦乱で死ぬところまで同じである。しかし、描かれること、描き方は大いに違う。主人公は貧困に苦しむ妻子を救うために脱藩し、新撰組に入るが、「義のために」負け戦に参加し、「義のために」死ぬのである。国家や組織のために自分を捨てて忠誠を誓うという考え方は気持ち悪くてしょうがないので、この映画にもまったく乗れなかった。
映画の作りとしても、戦いで重傷を負った主人公のその後を延々と描き、その子どものことまで描く構成は何とかならなかったのか。主人公がかなわないと分かっていながら、朝廷の軍へ突撃する場面で終わっていれば、まだ映画の印象は良くなったのかもしれない。余計なことを描きすぎなのである。主人公の話に絞らなければ、長い原作を映画化するのは無理。ダイジェストにしかならない。
「たそがれ清兵衛」が主人公の貧しさを前半で徹底的に描いたのとは対照的に、この映画での貧しさは記号のようなものである。だから話に説得力が足りないし、薄っぺらなのだ。だいたい、貧しさから抜け出すために人殺し集団の新撰組に入った主人公には共感を持ちようがない。自分の家族を救うためなら、こいつは平気で人を殺すのだ。キネマ旬報1月下旬号で佐藤忠男が指摘しているように、前半は家族のために動いていた主人公が後半、義のために動くのはテーマの突き詰め方が足りなかったためだろう。お涙頂戴のレベルを超えられなかったのはそのためだ。映画の作りが安いのである。
監督は滝田洋二郎。ひいきの監督なのだが、今回は支持できない。主人公の吉村貫一郎を演じる中井貴一は好演しているものの、多少オーバーアクト気味なところが気になった。妻役の夏川結衣は鈴木京香に似ている。
2003/01/17(金)「アイリス」
イギリスの作家ジョン・ベイリーが妻のアイリスについて書いた原作をリチャード・エア監督が映画化。現在の(というか年老いた)ベイリーを演じたジム・ブロードベントはアカデミー助演男優賞を受賞した。現在のアイリス役のジュディ・デンチは主演女優賞ノミネート、若い頃のアイリスを演じたケイト・ウィンスレットは助演女優賞にノミネートされた。
アルツハイマーが進行するアイリスを絶妙に演じるデンチには感心したし、それを温かく見守るブロードベントもうまいのだが、それ以上にウィンスレットが良い。この女優、決してスタイルが良いわけではないが、豊満な感じが奔放なアイリス役にぴったりだ。ウィンスレットが出ていなかったら、映画は輝きを失っていただろう。デンチを見ているよりもウィンスレットを見ている方がもちろん楽しく、若い頃のパートをもっと多くしてほしかったと思う。
リチャード・エアの母親もアルツハイマーだそうで、映画は43年間に及ぶ夫婦愛とともにアルツハイマーの描写が大きな部分を占める。言葉にこだわりを持っていたアイリスが言葉を失っていく過程は残酷で哀しい。
この映画が日本初公開作となるエアの演出は輝く過去(それは若さの輝きでもある)と悲惨さを増す現在を描き分けているのだが、話の進め方としてはやや単調になってしまった。役者たちが3人もアカデミー賞にノミネートされながら、作品賞にノミネートされなかったのはそのためだろう。もう少しメリハリを付ける必要があった。
ウィンスレットが素晴らしすぎたために老年の夫婦の描写と若い頃のラブストーリーが乖離してしまった印象もある。あんな風にして結ばれた夫婦がアルツハイマーに冒されるという風になるはずが、別々の映画を見ているような感じを受ける。ウィンスレットとデンチに落差がありすぎるのである。アルツハイマーはこの映画の重要な主題であり、難しいところなのだが、もっと明確に夫婦愛とアルツハイマーのどちらに重点を置くかを決めた方が良かったのではないか。
2003/01/11(土)「運命の女」
ダイアン・レインとリチャード・ギアが「コットン・クラブ」以来18年ぶりに共演したサスペンス。クロード・シャブロル「La Femme Infidele」を元に「危険な情事」のエイドリアン・ラインが監督した。
会社社長の夫エドワード(リチャード・ギア)の妻で何不自由ない生活を送っているコニー(ダイアン・レイン)が強風のニューヨークで若いポール(オリヴィエ・マルティネス)に出会い、情事を重ねるようになる。それはやがて夫に知られ…、という展開。元がフランス映画だけに大人の映画になっており、ラストの処理には味わい深いものがある。「危険な情事」のように安易なホラーになったりはしない。特に後半、危機に陥った夫婦が絆を取り戻していく描写などギアとレインの演技も含めて感心した。しかし、細かいところで微妙に違うなと思わせる部分が残る。
一番の疑問はなぜコニーはポールに惹かれたのか、という肝心の部分である。もの凄い強風(ホントに何かの冗談じゃないかと思えるぐらいの強風)のソーホーを歩いていたコニーは本を抱えて歩いていたポールとぶつかり、転んで足にけがをする。親切なポールは部屋で手当てをするよう勧める。その時は何のこともなく終わり、続いて2度目にお礼をしにアパートに行った時も何もなく終わる。しかし、コニーは三度、ポールのアパートを訪ね、そこで2人は一線を越えてしまうのである。このコニーの3度目の訪問の気持ちが良く分からない。
夫に不満があるわけではない。エドワードがかなり高齢でコニーが性生活に不満をもっていたとか、そんなこともない。ポールがコニーに対して特別に積極的だったわけでもない。本で埋まったポールの部屋を見せ、そのユニークさを映画は描こうとしているのだが、コニーとの出会いが運命的なものには感じられないのである。例えば、コニーの役柄が軽薄な女であったなら、こういう展開でも納得できたのかもしれない。でも演じるのがダイアン・レインですからね。軽薄になりようがないのである。
あるいはエドワードの役がリチャード・ギアではなく、もっと高齢の俳優であったなら、コニーはポールの若さに惹かれたのだという説明もできる(ちなみに元の映画ではこの役はミシェル・ブーケである。やっぱり、という感じがする)。しかし、ギアはいたって若く見えるのである。ならば、なぜコニーはポールに惹かれたのか、そこのところを詳しく描く必要があったように思う。
恋愛は理屈ではないが、映画は理屈なのだ。理屈ではない部分に説得力を持たせる必要があるだろう。キャストを変えれば、説得力はあったのかもしれないけれど、ミスキャストというにはギアもレインも十分に好演している。だからこれは微妙な齟齬と言うほかない。
前半のレインはセクシーさも含めて非常に良いのだが、中盤、妻の情事を知ったエドワードが苦悩をにじませてポールのアパートに行く場面のギアの演技がなかなかである。なかなかではあるが、感情を爆発させる部分にこれまた少し説得力が足りない。アルヴィン・サージェントとウィリアム・ブロイルズ・Jrの脚本には詰めの甘さが残る。前半は妻の話なのに後半は夫中心の話で、物語の視点が動くのも気になる。どちらかに(特に夫の視点の方に)統一させた方がすっきりしたのではないか。
2002/12/31(火)「マルホランド・ドライブ」
デヴィッド・リンチのベストワークだと思う。欲を言えば、ミステリの種明かしが非常によく分かりすぎることで、その明かし方にもリンチらしい芸があっていいのだけれど、かつてのリンチならもっと分かりにくくしたような気がする。いや、これは誉めているのであって、技術的に向上したから映画が分かりやすくなってしまったのである。「ツインピークス ローラ・パーマー最期の7日間」はこういう風に映画化すべきだったのだろうが、あのころのリンチにはこれほどの技術はなかったのだ。
マルホランド・ドライブの事故で記憶をなくした女(ローラ・ハリング)と、女優を夢見てハリウッドの叔母の家にやってきたベティ(ナオミ・ワッツ)が出会う。リタ・ヘイワースのポスターを見て女はとっさにリタと名乗るが、すぐにベティにうそを見抜かれる。ベティはリタに好感を抱き、記憶を取り戻させようと手がかりを追い求める。
ブロンドのベティとブルネットのリタは視覚的にも好対照なのだが、光り輝くベティ=陽と、陰気なリタ=闇の描きわけがまず面白く、これが後半に逆転するのも面白い。物語のプロットを突き詰めると、ベティはリタに影響されて闇の世界に引き込まれてしまうのである(前半と後半では違う人物じゃないか、という議論は置いておく)。
前半は物語を構成するさまざまな断片を描いてある。登場するのがエキセントリックなキャラクターばかりなのはリンチらしいが、後半にそれを収めるべき所に収める手腕が見事。リンチは物語を語るために神の視点、というか狂言回し(カウボーイ)も登場させ、強引に、しかし見事に話を進めていく。
だからこれは難解でもなんでもなく、単純なプロットをリンチの語り口で語っただけの作品と言える。そして映画を彩るさまざまな要素(例えば、種明かしの場面に進むきっかけとなる小さな箱と鍵)にほれぼれとせずにはいられない。構成も脚本もリンチは随分うまくなったのである。
いつものようにアンジェロ・バダラメンティの音楽は素晴らしく、ピーター・デミングの撮影もいい。しかし、特筆すべきはナオミ・ワッツの好演で、中盤にある映画のオーディション場面の迫真の演技には驚いた。前半と後半のまったく質の違う演技を難なくこなしており、なぜアカデミー主演女優賞にノミネートもされなかったのか理解に苦しむ。
2002/12/24(火)「ギャング・オブ・ニューヨーク」
19世紀のニューヨークを舞台にアメリカで生まれ育ったネイティブズの一団とアイルランド系移民の抗争が描かれる。米同時テロによって公開が1年延びたマーティン・スコセッシの超大作(撮影270日、製作費150億円)。
スコセッシは主人公の復讐劇に合わせて当時のニューヨークの風俗を詳細に描いており、アナーキーで暴力が横行していた当時の様子を町並みも含めて再現している。そうした描写自体は悪くないのだが、物語にひねりがなく、2時間48分を引っ張るほどの魅力に欠けた。ダニエル・デイ=ルイスの悪役のみ深みがあり、主演のレオナルド・ディカプリオとキャメロン・ディアスがやや精彩を欠いている。というか、もともとディカプリオにはこういうタフな男の役は似合わないのだろう。デイ=ルイスも決してタフなタイプではないが、この人の場合、演技力がもの凄いから有無を言わせない残酷さと非情さ、加えて人間の複雑さまでをも表現できている。仇役が主人公より圧倒的に強そうで、ディカプリオでは役不足なのである。
冒頭に描かれるのは1846年のニューヨーク。アイルランド系移民のデッド・ラビッツとネイティブズの縄張り争いが激化し、両者は雪の広場で対決する。デッド・ラビッツを率いるヴァロン神父(リーアム・ニーソン)は戦いの中で、ビル・ザ・ブッチャー(ダニエル・デイ=ルイス)に殺され、神父の息子アムステルダムは少年院に入れられる。
16年後、少年院を出たアムステルダム(レオナルド・ディカプリオ)は復讐を胸にニューヨークに帰ってくる。ここからすぐに復讐が始まるのかと思いきや、アムステルダムは正体を隠してビルの組織に接近し、ビルに気に入られるようになる。かつてのデッド・ラビッツの仲間もビルに取り入っている。そうした描写が長々と続く。父親の命日についにアムステルダムはビルを殺そうとするが、逆に重傷を負わされる。と、ここまでが1時間半余り。その後はけがの癒えたアムステルダムがデッド・ラビッツを再結集し、一大勢力を築き上げていくくだりが描かれる。
普通の復讐劇であるなら、終盤の1時間がメインになるはずである。しかし、スコセッシに興味があったのは復讐劇などではないのだろう。ニューヨークに生まれ育ったスコセッシはこれまでにもさまざまなニューヨークを描いてきたが、これはその原風景とも呼ぶべき世界。だからギャング同士の抗争は「グッドフェローズ」の原点なのだろうし、政治家や警官とギャングの癒着や背景となる南北戦争にも細かい目配りがうかがえる(消防士がまるでギャングのように描かれる場面もあり、これも公開延期の一因かもしれない)。ただ、こうした要素が物語と密接な連携をしているとは言い難い。こうしたことを描くのであれば、復讐劇ではない方が良かったのではないか。大作にふさわしいうねりがないのは致命的だ。復讐劇がいつもそうであるように要は単純な話なのである。
クライマックス、南北戦争の徴兵制度に反発する市民が起こした暴動の中で、ネイティブズとデッド・ラビッツの抗争が始まる。そこに海上から軍の砲弾が浴びせられ、兵士の銃撃によって両者ともに多大な死者が出る。粉塵が漂う中でのディカプリオとデイ=ルイスの対決をスコセッシは黒沢明のように演出したそうだ(見れば分かる)。しかし黒沢のダイナミズムには到底及ばない。エキセントリックな小さな話を演出させると、スコセッシは才能を発揮する監督だが、モブシーンはあまり得意ではないのだろう。大作を締め括れるクライマックスになっていない。
ラストに貿易センタービルを捉えたロングショットをあえて用意したスコセッシにはニューヨークに対する特別な思いがあったのにちがいない。思いは分かるが、作品として十分に結実はしなかったのが残念だ。