2002/09/15(日)「美しい夏キリシマ」
黒木和雄監督が故郷のえびの市で全編ロケした作品。1945年の8月を監督自身がモデルである15歳の少年の目を通して描く。根底にあるのは監督が学徒動員先の都城の工場で空襲を受け、友人を亡くした体験。黒木和雄は頭がざっくり割れた友人の姿を恐ろしく感じ、逃げてしまった。そのことによって約1年間ノイローゼ状態になったという。
映画の主人公・康夫(柄本佑)はこれに加えて肺浸潤のため動員を免除されている設定だが、それが物語の中心にあるにしても、ここで描かれるのは終戦間近の日本の田舎町の風景である。
高知の田舎町を舞台にした「祭りの準備」(1975年)や原爆投下1日前の長崎を取り上げた「TOMORROW 明日」(1988年)がそうであったように、映画は全編、方言で語られる。描かれるのは霧島山のふもとにある霧野村という架空の村での人々の営みであり、この2作と共通する部分の多い内容でもある。しかし、中島丈博が脚本を書いた「祭りの準備」や井上光晴原作の「TOMORROW 明日」よりも重要なのは、これが黒木和雄の体験に基づく自分のストーリーだからで、えびのを舞台にした映画の製作を要請されて当初は「Kirisima 1945」というタイトルで映画を撮ろうとした(戦時下を取り上げた)のは、ここで描かれたことが黒木和雄の原体験であるからにほかならないだろう。
友人を亡くしたトラウマと権力への不信(兵隊への不信)の芽生えが主人公にもあり、主人公は終戦後、進駐してきた米兵に向かって竹槍で突進することになる。戦争中、神といわれた天皇への疑問を主人公が口にしたり、敗戦を嘆く兵士たちの中で「ケッ」という顔つきをしている一等兵の豊島(香川照之)などの描写を見ると、反戦と反権力をさりげなく散りばめた黒木和雄のスタンスがよく分かる。
ただし、こちらの胸を打つのはそうした主人公の姿よりも普通の村の人々の姿である。主人公の裕福な家で働く女中のなつ(中島ひろ子)が家同士のつながりで結婚した相手・秀行(寺島進)は南方戦線で片足をなくしている。仕方なくといった感じで結婚したなつだったが、秀行から「ここでしばらく母の手伝いでもして、なつさんはもっと素晴らしい人と結婚すればいい」と言葉をかけられることになる。あるいはやはり南方戦線で夫を亡くしたイネ(石田えり)の一見弱いながらもたくましい生き方などもそうだろう。
「美しい夏キリシマ」というタイトルは多分に郷愁を誘う内容を思わせるし、監督自身にもそうしたニュアンスがあったのかもしれないが、映画から受けるのは甘っちょろい郷愁よりも人々の切実な生き方に対する共感である。
パンフレットに映画評論家の佐藤忠男が「これは日本映画史のうえで長く名作として語り継がれるべきすぐれた作品である」と書いている。僕は「祭りの準備」より完成度としては劣ると思う。これは題材が監督自身に近すぎたことが原因の一つだろう。複数のエピソードを収斂させていくべきラストが「祭りの準備」の旅立ちの場面より、ややインパクトに欠ける。ただ、今の邦画の平均的なレベルを軽く超えている作品とは思うし、未だに全国公開が決まらないことも疑問に思う。
主人公を演じた柄本佑は柄本明の息子。監督はオーディションで「何を考えているか分からないところ」が気に入って起用したという。黒木和雄映画では常連の原田芳雄が主人公の祖父を演じて画面を引き締め、主人公と心を通わせる女中のはる役の小田エリカもいい。このほか左時枝や宮下順子、牧瀬里穂など特に女優陣の好演が光っている。
2002/09/13(金)「プロミス」
イスラエルとパレスチナの子どもたちを取り上げたドキュメンタリー。これは明確な傑作だ。子どもたちの言葉の一つ一つに重みがあり、激しく心を揺れ動かされる。テロに脅え、仕返しに脅える生活などだれも望んではいない。投石で抵抗すれば、銃殺される。死と戦争が身近にある子どもたちはどこか大人びているが、少女や双子の兄弟が語る「殺し合いはしたくない。もっと話し合うべき」という言葉は純粋な気持ちから発している。確かに相手を殺し続ければ、いつかはいなくなるという考え方に取り憑かれた少年もいるのだが、そんな考えがすべてではないということを示したことがこの映画の大きな価値だ。
こういう映画を見ると、排他的な宗教というのは人を不幸にするシステムなのではないかと思わざるを得ない。イスラエルとパレスチナは宗教が絡んでいるからややこしい。和平のためには政治的指導者ではなく、宗教的指導者が対話に乗り出す必要があると思う。
タイトルのプロミスが実現する場面の奇跡的な幸福感には涙、涙である。しかもそれで終わらず、問題の根深さを指摘して終わるあたりが賢明なところ。和平は簡単ではないが、希望はある。その可能性を信じたくなる。必見。
2002/09/13(金)「インソムニア」
単調で何の変化もないので途中でうつらうつら。インソムニアとは不眠症の意味だが、ゆっくり眠れる作品である。
アラスカのナイトミュートという町で起きた殺人事件をロス市警のアル・パチーノが捜査する。深い霧の中、犯人を追っていたパチーノは同僚の刑事を撃ってしまい、同僚は死ぬ。とっさに犯人が撃ったことにするが、それを犯人が目撃していたことから、パチーノは犯人に脅迫され、別の男を犯人に仕立て上げてしまう。パチーノはロスで内務調査班の調べを受けており、同僚は取引に応じようとしていたところだった。だから、パチーノが誤って撃ったのか、故意か灰色である。パチーノは白夜と良心の呵責から、不眠症に陥る。
ミステリ作家の二階堂黎人がパンフレットで「ミステリー映画の新たな地平を拓く傑作」と書いているが、展開は極めてジュンブンガクである。だからつまらないのではなく、話に変化がないのがつらいところ。かといって登場人物の内面を深く掘り下げているわけでもない。僕には物足りなかった。
パチーノを尊敬する女刑事にヒラリー・スワンク。あまり演技の見せ場がない。この映画、元々はノルウェーの作品で、それを「メメント」のクリストファー・ノーランがリメイクした。オリジナルの方を見たいところだ。
2002/09/13(金)「光と闇の伝説 コリン・マッケンジー」
「ロード・オブ・ザ・リング」のピーター・ジャクソンがニュージーランドの伝説的な監督コリン・マッケンジーの生涯を明らかにする作品である。これは知っている人は知っている“ドキュメンタリー”。
しかし、映画の中身を知っている人は不幸で、何も知らずに見た方が楽しめる。「あれ、これは」と思いますものね。たぶん、どっきりカメラのコメディアンが出てくるあたりで。どういう映画か知っていると、まあ、こんなものかと思うぐらいでした。「フリッカー、あるいは映画の魔」(T・ローザック)のような展開になると、もっと面白かったかもしれない。
2002/09/12(木)「チョコレート」
脚本も演出も際だってうまいわけではないが、とにかくハル・ベリーが有無を言わさない。もともと好きな女優だが、この人、こんなに凄かったか。化粧っけなしにも関わらず、見事に美しく、しかも生活感のあるハル・ベリーを見るだけで十分という感じ。女優の演技が映画を一級品に押し上げた。アカデミー主演女優賞も当然である。
といっても主演はハル・ベリーではない。ジョージア州の刑務所の看守ハンク(ビリー・ボブ・ソーントン)。父親バック(ピーター・ボイル)も看守だったし、息子ソニー(ヒース・レジャー)も看守を務めるという親子3代で同じ道を歩いている家族だ。バックは偏狭な人種差別主義者で、隣の家の黒人の子どもが庭に入ってくることも許さない。ハンクは父親の命令に服従しているが、息子のソニーは黒人とも交流を持つ。このあたりで家族の不協和音が微妙に映し出されるのだが、ソニーは死刑執行時にミスをしたことから、ハンクに叱責され、罵声を浴びせられて祖父と父の目の前で発作的に自殺してしまう。
ハル・ベリー演じるレティシアは死刑囚の夫ローレンス(ショーン・コムズ)と過食症の息子タイレル(コロンジ・カルフーン)を持つウエイトレス。ボロボロの車に乗り、借家も家賃の滞納で追い出されようとしている。11年間、夫の面会に来続けたが、もうすっかり生活に疲れ果てている。夫が死刑になって間もなく、レティシアは仕事から家に帰る途中、一緒に歩いていた息子を交通事故で亡くす。息子を病院まで運んだのがハンクで、生活に疲れ、孤独に苛まれる2人は急速に接近し、愛が燃え上がる。ハンクが夫の死刑に立ち会ったことはお互いに知らないまま。
ハンクは息子を亡くして初めて父親の言ってきたことが間違いだと知る。いや、間違いであることは知っていたが、踏ん切りを付けるきっかけになったのだろう。看守をやめ、ガソリンスタンドを購入し、忌み嫌っていた黒人の隣人と交流し、レティシアを愛すようになる。だから本来ならば、これは親の呪縛を断ち切って人生をリスタートする男の話なのである。しかしハル・ベリーが凄すぎた。中年男女の奥の深いラブストーリーという感じになった。
夫も息子も亡くして失意のどん底にあるレティシアは家まで送ってくれたハンクに「何か出来ることはないか」と問われて、「私を気持ちよくさせて。私を感じさせて」と言う。切なく激しいラブシーンは最終的にハンクの人生を変えることになる。父親から人種差別意識を植え付けられたハンクは女性への蔑視も持っていたに違いなく、妻が逃げ出したのはそのためだろう。映画の中盤で描かれる娼婦相手のセックスが後背位であるのに対して、レティシアとのセックスでは後背位→正常位→女性上位と変化する。これはハンクの意識の変化のメタファーでもあると思う。
脚本に対する疑問はレティシアが貧しく、ハンクがそれを援助する形で愛が募っていく構成と、偶然が起きすぎるところにある。ハル・ベリーが美しすぎることも欠点といえ、あんなに美人なら生活に困っても手助けする男がたくさんいるだろうなと思える。だが、それを差し引いても、細かい感情の揺れを的確に表現したベリーの演技は一見に値する。演技派のソーントンを完全に食っている。寂寥感を演じきったという点で、ジェーン・フォンダが主演女優賞を受賞した「コールガール」(1971年、アラン・J・パクラ監督)と同じタイプの作品と思う。