2001/08/28(火)「アメリカン・サイコ」

 シリアル・キラー(連続殺人犯)はプアー・ホワイト(低所得者層の白人。しかも幼児虐待の経験がある場合が多い)というのがお決まりだが、この映画の主人公は裕福な環境にある。80年代のヤッピーを描いて、どこか「レス・ザン・ゼロ」のような雰囲気だなと思ったら、その通り原作は「レス・ザン・ゼロ」の原作者ブレット・イーストン・エリスの3作目に当たるそうだ。だからこれは一般的なサイコ映画とは違っている。イーストン・エリス、自分の土俵で相撲を取ったな、という感じである。

 原作がどうなっているかは知らないが、監督・脚本のメアリー・ハロンが取ったのもヤッピーの苦悩としての殺人(といっても当初、本人は苦悩を自覚していないだろう)。シリアル・キラー自体がテーマではなく、あくまでヤッピーの描写の方が重点であり、カリカチュアライズと皮肉なタッチが随所にある。

 主人公のパトリック・ベイトマン(クリスチャン・ベール)はウォール街の一流企業ピアース&ピアースで副社長の地位に就いている。毎日エクササイズに精を出し、健康に気を遣い、美しい婚約者がおり、何不自由ない生活。しかし、内面は空っぽだ。仲間とは、作った名刺の出来を比べ合ったりする(自分より出来のいい名刺を持っている奴に嫉妬し、殺人の動機の一つになるのがおかしい)。上辺を取り繕った生活の中で、ベイトマンはある夜、衝動的にホームレスを殺す。それから殺人の衝動を抑えられなくなる。自分よりいい暮らしをしているビジネスマン、街で買った娼婦、自分の秘書(クロエ・セヴィニー)までも殺そうとする。

 ベイトマンはエド・ゲインやテッド・バンディに言及し、ビデオで「悪魔のいけにえ」を見ているぐらいだから、シリアル・キラーには関心があるようだ。思わず笑ってしまうシーンが挿入される映画自体も別に悪い出来ではない。ただし、やっぱり連続殺人とヤッピーとは結びつかない。苦悩の果ての殺人なら分かるが、殺人が日常化するのに説得力がないのである。ヤッピーの空虚な日常を描くのなら連続殺人を持ち出す必要はなかったのではないか。

2001/08/21(火)「ドリヴン」

 シルベスター・スタローンとレニー・ハーリンが「クリフハンガー」以来8年ぶりに組んだカーレースの映画。脚本もスタローンが書いているが、これがひどい出来。人間関係の描写にリアリティーを欠き、ドラマは盛り上がらず、もうアマチュアが書いたとしか思えない脚本である。スタローンは製作を兼ねているから、ハーリンとしても修正しにくかったのだろう。しかし、演出に関しても見るべき所はほとんどない。

 映画が描くのはF1ではなく、CARTというレース。世界を転戦して順位を競うのはF1と同じで、日本のツインリンクもてぎも出てくる。

 昨年度のチャンピオン、ボー・ブランデンバーグ(ティル・シュワイガー)と無名のルーキー、ジミー・ブライ(キップ・パルデュー)が優勝を競っている今年のレース。シカゴで行われたレースでジミーはボーに敗れ、チームのオーナーであるカール・ヘンリー(バート・レイノルズ)はかつての名レーサー、ジョー・ダント(シルベスター・スタローン)に支援を頼む。ジョーはレース中の事故で引退し、今は隠遁生活を送っていたが、カールの誘いで久しぶりにレースに復帰する。主演とはいってもスタローンは一歩下がった形ではある。年齢的に見て、これは妥当な判断だろう。

 ただし、やはり出たがりのスタローンであるからコーチ役に徹しているわけでもない。自信を失っているジョーの再生を図る物語にすれば良かったのに、とりあえずアドバイスめいた言葉を口にするだけ。この主人公が2人いるような設定が失敗の要因かもしれない。

 人間関係のドラマにしてもボーの恋人ソフィア(エステラ・ウォーレン)がちょっとしたことで別れ、ブライと付き合い、やっぱりボーの元へ帰る描写などどうでもいい感じ。ボーを悪役としては描いていないから、2人の男の間を行ったり来たりするウォーレン(「猿の惑星」)がなんだかバカな女にしか見えない。

 スタローンと元妻の描写に関してもこれは言え、こういうドラマの部分はほとんど雑である。こんな人間関係を描くぐらいなら、もっとレースの本質に迫るべきだった。ハーリンはカーレースが好きと言っているが、本気で好きならマニアックな部分が出てきてもいいはずだ。

2001/08/18(土)「千と千尋の神隠し」

 傑作の多い宮崎駿の映画の中でも1、2を争う完成度と思う。完璧なものを見せられた、という感が強い。

 10歳の少女千尋が引っ越しの途中、両親と一緒に異世界に迷い込む。両親は無断で料理をガツガツと食ったために豚になる。働く意志のない者は排除される世界。人間はいず、魔物が跋扈する。千尋は恐ろしい世界に立ちすくむが、ハクという名の少年に助けられ、八百万の神たちが休息に訪れる風呂屋「油屋」で働くことになる。油屋を支配するのは魔女・湯婆婆。千尋の両親を豚に変えたのも湯婆婆だった。何もできなかった千尋は懸命に働き、やがて周囲の理解を得るようになる。

 宮崎駿は硬派の人だから、この映画にも至る所に現実世界のメタファーが入り込む。千尋の父親が異世界の風景を見て「90年のバブル崩壊で潰れたテーマパークの一つ」と断じる場面からしてそうである。両親の庇護を離れた少女はどうするか。どうすればいいのか。宮崎駿はさまざまなメタファーを織り込みながら、それを描いている。

 ファンタジーは閉じた世界を描く手法であり、豚になった両親の救出と異世界からの脱出を描くこの映画もまたきれいに閉じた世界を描いている。完成度が高いのはこのプロットが分かり易いからでもある。物語の決着をどこにもっていくか迷いが見られた前作「もののけ姫」よりも数段優れた映画になったのはそうしたことも要因と思う。しかし、それだけではない。カオナシ、クサレ神、湯婆婆といった登場人物に代表されるイマジネーションの豊かさ、細部の作りの豊かさにはうならされてしまうのだ。

 千尋というキャラクターは普通の少女のようでいて、実はコナンやルパンやナウシカの血を継ぐ宮崎駿ならではの魅力を持ったキャラクターだ。油屋の外にある階段を転げ落ちるようにして駆け下りる千尋の描写は「ルパン三世 カリオストロの城」のルパンを彷彿させる。その懸命な生き方、悪に染まらないまっすぐな心を見ると、胸が熱くなる。

 この映画には絶対的な悪は登場しない。登場人物はその環境によって悪にも善にもなりうる存在として描かれている。その意味でエコロジーの先駆けとなった「風の谷のナウシカ」に通じる作品でもあると思う。傑作にして、既に名作。必見。

2001/07/31(火)「初恋のきた道」

 こんなに胸をときめかせ、心を揺さぶられた映画も最近珍しい。キネマ旬報ベストテン4位、ベルリン映画祭銀熊賞受賞だけのことはある。「グリーン・デスティニー」のチャン・ツィイー(章子怡)のデビュー作。チャン・イーモウ監督の映画だが、そんなことはどうでもよく、純で一途なツィイーがひたすら良い。出てくるだけで画面が輝く。誤解を招くかもしれないが、正統的アイドル映画である。

 父親が心臓病で急死したとの知らせを受けた息子が故郷の村に帰ってくる。母親は町の病院から村まで父親を担いで帰りたいと話す。父と母の愛は村の語りぐさになるほどのものだった。息子は両親から聞かされたその愛の強さを振り返る。というわけで映画は前後の現在の場面に40年前の時代を挟み、回想形式で描かれる。

 1958年、18歳のディ(チャン・ツィイー)は村に赴任してきた教師チャンユー(チョン・ハオ)を見て、一目で恋をする。校舎建設のために村の男たちとともに働くチャンユーに食べてもらいたいと毎日弁当を作り(しかし誰が食べるか分からない)、チャンユーの声を聞くために毎日学校のそばを通って水くみに行く。家が遠い子どもをチャンユーが送ると聞いたディは山道で遠くからチャンユーを見つめるようになる。ある日道ですれ違ったことで、その美しさに目をとめたチャンユーもディに思いを寄せるようになる。と、ストーリーを書いても、この映画の場合は何も伝わらない。チャン・イーモウ監督は丹念に丹念に2人の恋の過程を描いていく。これは描写の映画であり、映画の原初的感動が映像そのものにあることを強く思い起こさせてくれる。

 チャン・ツィイーの笑顔を見せはにかむ姿、思いが通じたうれしさに走る姿、雪の中でじっとチャンユーの帰りを待つ姿、どれもそれだけで感動的なのである。ツィイーでなければ成立しない映画。チャン・イーモウはどういう意図でこの映画を撮ったのか知らないが、ツィイーを見つけた時点で映画の内容そのものも変わったのではないか。でなければ、こんなにツィイーのクロースアップが多いわけがない。

 この映画の唯一の欠点は現在の母親を演じる女優があまりにもおばあさんであること。可憐でかわいいツィイーが40年後とはいってもあんな風に年を取るわけない。これはむしろ父親よりも母親を死なせてしまった方が説得力はあったのではないかと思うが、そうなるとツィイーの視点で物語を語れなくなる。難しいところではある。

2001/07/28(土)「Planet of the Apes 猿の惑星」

 33年ぶりの再創造(リ・イマジネーション)。リメイクではなく、こういう言葉を使っているのは旧作との違いを強調するためのようだ。猿に支配された惑星という構図は同じなので、違いはなぜ支配されたのか、その理由ということになる。いくらメイクアップの技術が進歩しようとも、展開するドラマが同じであるなら、結局のところ、観客の関心はここに向かうしかない。しかし、このアイデアはごくごく小さいものである。夏の大作として公開された映画を引っ張るには小さすぎるアイデアで、ラストを見ると、なんだか肩すかしを食ったような気分になる。大作には合わないオチなのである。

 リ・イマジネーションといいながら、イマジネーションの展開のさせ方が決定的に足りない。旧作を少しアレンジしただけ。脚本はウィリアム・ブロイルス・Jr、ローレンス・コナー、マーク・ローゼンタールの3人。「アポロ13」「キャスト・アウェイ」のブロイルス・Jrにしても、「スーパーマン4 最強の敵」「マイティ・ジョー」のローゼンタールにしても、あまりSFが得意な方じゃないらしい。旧作はなんといってもロッド・サーリング(「ミステリー・ゾーン」)が絡んでいたのが良かったのだと思う(ただし、ラストのアイデアは当初監督に予定されていたブレイク・エドワーズのものという)。

 贔屓のティム・バートンの作品なのであまり悪口は書きたくないが、この題材をバートン風に移し替えるには徹底的に世界を違うものにする必要があっただろう。それができていないのは残念だ。表面をさらっと描いて終わり。ダークな世界の構築に情熱を傾けるいつものバートンの映画じゃない。この企画にあまり乗り気ではなかったのではないか。

 旧作が公開された時、僕は小学生だったので劇場では見ていない。しかし最初にテレビ放映された日はしっかり覚えている。1973年の12月24日、TBSの月曜ロードショーにおいてである。なぜ、こんなことを覚えているかというと、この日は僕が最初にコンサートに行った日であり、「猿の惑星」の開始時間を気にしながら帰宅した覚えがあるからだ。公開から5年たっていたけれど、それほど旧「猿の惑星」は話題作だったのだ。解説の荻昌弘は番組の中で同時進行で猿のメイクアップをしてみせた。