2001/06/12(火)「ハムナプトラ2 黄金のピラミッド」
2年前の前作について僕はネガティブな感想を持ったが、今回はまず満足できる仕上がりと思う。SFXがスケールアップしているからではなく、主役の2人、ブレンダン・フレイザーとレイチェル・ワイズがこの2年間でスターへのキャリアを着実に積んできたことが影響しているのだろう。
フレイザーはコメディだけでなく、シリアスな演技もうまいことを「ゴッドandモンスター」で証明したし、ワイズも「スターリングラード」の好演が記憶に新しい。ワイズは今回、アクションも見せ、戦うヒロインを魅力的に演じている。
タイトルもなく始まった冒頭で紀元前3500年の伝説の戦士スコーピオン・キング(ザ・ロック)の誕生を凄いSFXで見せる。アヌビスの怪物たちの大群(ほんとにウォーッと思えるほど地の果てまで埋め尽くすような大群)が攻めるシーンはCGと分かっていても十分なスペクタクルだ。舞台変わって現代。前作から8年後の1933年。リック・オコーネル(ブレンダン・フレイザー)とエヴリン(レイチェル・ワイズ)は結婚し、8歳の息子アレックス(フレディ・ボース)と幸せに暮らしている。エジプトで相変わらず秘宝探しを続けているが、そこでスコーピオン・キングが残した腕輪を見つける。一方、大英博物館の館長はミイラのイムホテップを再び甦らせようとしていた。甦ったイムホテップの一団は腕輪をはめたアレックスをさらい、スコーピオン・キングのオアシスへ向かう。スコーピオン・キングを倒せば、世界最強の力を手に入れることができるのだ。
前半のエモーショナルなものがない単なるSFXではやはり盛り上がらない。後半、人間関係の因縁(なんとエヴリンは○○○で、リックは○○○だった!)とリックとエヴリンの絆がはっきりするにつれて面白くなった。やはりアクションなりSFXなりにはそれなりの理由が必要なのである。リックとエヴリンに対するイムホテップとアナクスナムンの関係もドラマを盛り上げている。クライマックス、危機に陥ったリックとエヴリンが交わす視線は「俺たちに明日はない」みたいで良かった。
この終わり方では第3作も作れるような気がする。今回は○○○としてのリックの覚醒もなかったし、スコーピオン・キングを倒したことによる強大な力も披露されなかった。ま、細かい所に疑問はつく映画なのだが、クスクス笑いと爆笑の連続なのは前作と同じ。演出的にも主役2人の演技もよくなった分、前作よりは楽しめる出来である。
2001/06/05(火)「日本の黒い夏 冤罪」
松本サリン事件のマスコミ報道と警察の捜査を批判した熊井啓監督作品。訴えていることは十分まともなのだが、パッケージングが古い。熊井啓は正直な作風だから、こういう展開、作り方になるのだと思う。現代にアピールするタッチに変える必要があると思う。昭和30年代の映画といわれてもそのまま通るような劇伴(この言葉通じないか)、セリフ回しである。
優等生的視点から「ここが悪かった」と言われても、「はあ、そうですか」と答えるしかない。高校生を狂言回しにするあたりがいかにもという感じ。これは高校生に対して「まだ純粋」という幻想を抱いている証拠である。
視聴率アップが至上命題のテレビ局と部数拡大がそれの新聞社。加えてメンツにこだわる警察が生み出したまれにみる冤罪劇。夜回りは警察担当記者の使命だけれど、警察のお先棒かつぎになる危険がつきまとう。情報を得るためには警察幹部のご機嫌もうかがわなくてはならない。そのあたりにもう少し踏み込むと、厚みが増したと思う。
映画の構造として報道に良心的なテレビ局を舞台にしたのはどうか。これはむしろ、被害者の立場から描いた方が説得力が得られたのではないか。
急いで付け加えておくと、熊井啓のような社会派の監督は今の邦画界には貴重な存在である。エンタテインメントだけを志向していては、邦画は薄っぺらになると思う。次作も是非、社会派の題材で作れるよう期待したい。
2001/06/05(火)「JSA」
共同警備区域(Joint Security Area)で起きた南北兵士同士の殺人事件を中立のスイス軍女性将校が捜査する。北と南で言うことは食い違い、事件は藪の中的様相。その背景には南北分断の悲劇が横たわっていた。
韓国では公開15日目で観客動員100万人を突破したという大ヒット作。あの「シュリ」の記録も塗り替えた。朝鮮民族に切実なテーマも要因だろうが、映画のエンタテインメントとしての作りが広く支持されることになった一番の理由だと思う。語り口は「シュリ」よりずっと洗練されている。しかし関係者とみられる兵士の回想でその事件の半分以上が明らかになるという構成はもう少し考える必要があった。回想が長すぎるのである。
板門店の緊張感漂う描写と南北兵士の交流の風景の温かさのうち、パク・チャヌク監督の資質は後者にあるようだ。パンフレットによると、南北兵士の非公式の交流はウワサとして絶えないのだという。それを考えれば、実際にはありそうにないこのストーリー展開も納得はするが、事件の真相には今一つ説得力に欠ける。なぜ、あの兵士は○○○を○○○しなければならなかったのか。それをしなければならない体制に押しつぶされた民族の悲劇ととらえることもできるのだが、兵士の行動に納得いかない部分が残る。
個人的には「シュリ」の熱い語り口の方が好みである。韓国での公開は昨年9月9日。ヒットの要因として歴史的な南北首脳会談の年だった影響も見逃せない。
2001/05/29(火)「ホタル」
高倉健が映画の中で歌う「アリラン」の訳詞に作家の帚木蓬生が協力している。どうせなら脚本にも協力が欲しかったところだ。映画は特攻隊の生き残り高倉健とその妻田中裕子を中心に特攻隊の回想と現在(昭和から平成に変わる1989年の鹿児島)を織り交ぜて、初老の夫婦の日常を描くのだが、脚本の焦点がやや定まらない感じを受ける。
特攻隊で亡くなった朝鮮人・金山少尉の存在が大きいのに、それをうまく生かしていない。というか設定に多少無理があるし、もっともっとここを中心に組み立てた話にした方が良かったと思う。設定の無理についてはキネマ旬報6月上旬号で韓国文化院長が指摘している。朝鮮の人が特攻隊に参加する理由として「朝鮮民族のため」と語るのは不自然なのである。なぜ特攻隊に参加することが朝鮮民族のためになるのかよく分からない。それなりの理由づけが必要だっただろう。
日本軍に協力して戦死した朝鮮人1000人の遺骨を韓国政府は引き取っていないとか、映画は朝鮮半島と日本の関係をエピソードとしては紹介するのだけれど、どうも深く言及するのを差し控えたような印象がある。降旗康男は社会派の監督ではないし、やんわりとした描写はその持ち味でもあるのだが、せっかくの題材なのにもったいない。もっと鋭く、もっと深く描くべき題材だったように思う。
高倉健が雪の中で鶴の真似をするシーンや韓国へ金山少尉の遺品を届けに行き、家の前で突っ立ったまま遺族と長々とやりとりをする場面などは違和感が残る。このほか細かい部分に不自然な描写があり、演出的にも緩んだ場面が散見される。田中裕子の病気の設定も僕には不要のように思えた。
ただし、奈良岡朋子は凄かった。特攻隊員の面倒を見て長年“知覧の母”と言われた奈良岡朋子が自分の半生を振り返って「本当の母親なら息子を次々と特攻隊に送り出すはずがない」と泣いて悔やむシーンは圧倒的な演技と相俟って強い印象を残す。元々この映画、「知ってるつもり!?」で紹介された“知覧の母”が企画の始まりという。それならば、やはり戦争中の場面を中心にした方が良かっただろう。時代を1989年にしたのは高倉健の年齢的な制約によるものだが、そもそもこの時代設定に間違いがあったのではないか。
2001/05/22(火)「15ミニッツ」
マスコミの報道の在り方を批判するなら、もっと真正面から取り上げるべきだ。こんなプロットではマスコミ批判なのか、刑事アクションなのか、はっきりしない。焦点がボケボケである。監督の頭の中もボケボケなのだろう。
視聴率競争やテレビの中で起きる殺人といえば、「ネットワーク」が思い浮かぶ。あの映画さえ、現実を誇張しすぎと公開当時いわれたものだが、今回は誇張というよりは視点と映画製作の姿勢の問題のように思える。批判の対象はもっと詳しく描かないと説得力がない。
昨年の「インサイダー」は立派なテレビ記者を描いていたけど、それでもテレビ局のどこがどう問題なのかは十分に描かれていた。
この映画で描かれるのはカリカチュアライズに近いテレビ報道と現実にはありそうにない殺人犯人の設定である。きっと監督・脚本・製作のジョン・ハーツフェルドには本気で批判などするつもりはなかったのだろう。本気なら、こんなありふれた展開にはしないはずだ。とりあえずマスコミ批判を入れて、刑事アクションを絡めてという安易な姿勢が見え見えである。頭で考えたストーリーを組み合わせただけで、現実の取材の跡はまったく見えない。
それでもなおロバート・デ・ニーロはいつものように好演しているし、相手役のエドワード・バーンズも良い味を出している。この2人を中心にした単なる刑事アクションにした方がよほどましだった。