2005/11/03(木)祖父の硫黄島戦闘体験記

 2ちゃんねる経由で行って読む(2ちゃんねるには軍事板というのがあるのか。「趣味」のジャンルの中に入っているのが何というか凄い)。4度召集され、4度目は硫黄島へ行くことになった工兵の手記。硫黄島では生きて帰れない斬り込み隊に参加するが、3度生還し、4度目に重傷を負って捕虜になる。奇跡的に助かったわけだ。硫黄島から生還した日本兵は1000人程度だから、かなりの強運の持ち主と言える。

 手記は実話だけに硫黄島の戦闘の激しさが分かって一読の価値がある。淡々と次々に人が死んでいく描写には言葉をなくす。例えば、こんな具合である。

 「死体を数えてみると一人足らん。探すうち、はるか遠く飛ばされて下半身を土に埋められすわっている。よく見ると頭がない。頭の頂上の皮が破れて頭がい骨が全くない。皮には目も鼻も耳もついている。こんな死に方は見た事がない」。

 こういう手記をインターネットで公開することは非常に価値があることだと思う。ただし、このページ、黄色いバックに小さな文字でちょっと読みにくい。全文をコピーして一太郎に貼り付け、PDF化して読んだ。

2005/11/02(水)「散るぞ悲しき」

 「散るぞ悲しき」表紙サブタイトルは「硫黄島総指揮官・栗林忠道」。原田真人監督の日記に「素晴らしい。必読」とあったので読む。5日間で終わると米軍が考えていた硫黄島の攻防戦を、本土への空襲を防ぎたい一心で36日間にわたって持ちこたえ、最後は攻撃の先頭に立って戦死した栗林中将を描いたノンフィクション。大本営から見捨てられた硫黄島で、意味のないバンザイ突撃を否定し、日本軍の伝統だった水際での米軍上陸阻止作戦を否定し、地下壕を築いて徹底抗戦したその姿を浮き彫りにする。

 日本軍の指揮官は突撃には参加せず、玉砕の際には割腹自殺するのが普通だったという。栗林は唯一、突撃した指揮官なのである。幹部の豪華な食事を拒否して一般の兵士と同じものを食べ、部下の健康に気を配り、水の乏しい硫黄島で率先して節水に努めたという人となりもいいが、何よりも多く引用される家族への手紙が胸を打つ。

 「最後に子供達に申しますが、よく母の言いつけを守り、父なき後、母を中心によく母を助け、相はげまして元気に暮して行くように。特に太郎は生れかわったように強い逞しい青年となって母や妹達から信頼されるようになることを、ひとえに祈ります」

 栗林は若い頃にアメリカに留学し、アメリカの国力をよく知っていた。だから戦争には元々反対だったそうだ。最後の電報には無謀な戦争を始めた上層部批判と受け取れる内容がある。知力を尽くした合理的な戦い方はアメリカを苦しめ、それゆえアメリカでの栗林の評価は高いという。

 タイトルの「散るぞ悲しき」は「国の為重きつとめを果し得で 矢弾尽き果て散るぞ悲しき」という栗林の辞世の句に基づく。ノンフィクションとしては241ページではやや短く感じる。硫黄島の地獄の戦闘をさらに詳細に描き、栗林の硫黄島に至るまでの生い立ちをもっと詳細に描いても良かったと思う。戦後60年を過ぎ、戦場を知る関係者は次々に亡くなっており、こういうノンフィクションの取材は今がぎりぎりの所にあるような気がする。

 日本兵20,129人、米兵6,821人が戦死した硫黄島の激戦はクリント・イーストウッドが2本の映画化を進めている。アメリカ側と日本側の双方から描いた映画をそれぞれ作るという。アメリカ側の視点に基づくのは「硫黄島の星条旗」(Flags of Our Fathers)。摺鉢山に星条旗を立てた米軍兵士の息子(この本にも登場するジェームズ・ブラッドリー)が書いたノンフィクションの映画化である。原田監督によると、日本側視点の映画は栗林中将を描くらしいということだが、さてどうなるか。

2005/11/01(火)楽天ミュージックダウンロード

 楽天も音楽のダウンロード販売を始めた。「USENの音楽配信サービス『OnGen USEN MUSIC SERVER(OnGen)』を楽天向けに提供するもの」。楽天のポイントが使えるので利用するならこちらの方がいいが、ファイル形式がWMAというのがちょっとなあ。これだと、僕の環境ではパソコンでしか聴けません。ポイントで買えるので視聴代わりに買ってもいいか。

すしの日

 今日は何の日~毎日が記念日~によると、「新米の季節であり、ネタになる海や山の幸が美味しい時期であることから。全国すし商環境衛生同業組合連合会が1961(昭和36)年に制定」とのこと。というわけで寿司屋に行く。新聞広告では3割引ということだったが、割引があるのは一部のメニューだけだった。これが全品3割引なら、うれしいんですけどね。家内は上寿司を頼む(割引対象)。上寿司という割にはそれほど上等ではなかったり(少なくとも上寿司ならエビは生じゃないとね)。あとはそれぞれ、割引のないものを頼む。お腹いっぱいになりました。

2005/10/31(月)「四月の雪」

 「四月の雪」パンフレット省略が洗練を感じさせ、寡黙さが余韻を生む。描写によって物語を語るのが映画の基本とすれば、ホ・ジノの演出は映像表現の高度な部分を兼ね備えている。セリフで心情を説明するような野暮なことはしていないし、単なる不倫を純愛とも悲恋とも声高に主張したりはせず、ただただ2人の行動を静かに綴るのみだ。これが唯一崩れるのは主演の2人が交通事故死した若者の葬儀に行く場面。ここの類型的な演出は映画のトーンから浮いている。ここは2人が心を通わせる契機となる場面なので、なおさら慎重な演出が必要だっただろう。描写のあまりの自然さは逆に多少の不満にもつながっていて、物語にもう少しひねりを加えてくれないと、日常的な描写ばかりでは一般的な面白みには欠ける。物語をどう表現するかにホ・ジノの関心はあり、物語自体をどう面白くするかに心を砕いてはいないようだ。もちろん、そういう映画の方法もあるので、これは単に好みの問題なのだが、それならば、所々にウェットなピアノ曲など流さない方が良かったと思う。意識的に劇的効果を廃するのならば、音楽は最小限にとどめた方が良かった。

 最も残念なのは、これは監督の責任ではないけれど、韓流ブームの中核的な映画としてパッケージングされていることだ。主演がペ・ヨンジュンである必要はなかったし、そうでない方が下手な反発にはさらされず、映画の本質は見極めやすくなっただろう。

 キネ旬10月上旬号のインタビューでホ・ジノはヨンジュンについて、こう語っている。

 「後半になって、インスが能動的に動くのが難しい状況に追い込まれてからは、私はもう少し間接的で深みのある演技をしてほしかったけれど、俳優としては何か積極的に動ける表現がしたかったようです。これは私の映画に出演する俳優たちが共通して持つ希望ですけれど……」

 感情表現を俳優にはできる限り抑えさせ、それを別の描写によって表現するというホ・ジノの方法がヨンジュンには理解できなかったらしい。ヨンジュンが溌剌とするのは不倫の一線を踏み越えた後に見せる笑顔であり、この脳天気な笑顔がヨンジュンという俳優のキャラクター的限界を表しているように思う(「スキャンダル」の時のようにメガネを外せば何とかなったか)。監督の意図を理解できなかったのは“韓国の宝石”と称されるソン・イェジンにも言えることかもしれない。得意の泣く演技を封じられたイェジンはそれによって、別の魅力を引き出されることになった。ヨンジュンと会う前にシャワーを浴びる女心やベッドシーンのエロティシズム。清純さとは異なるそうした大人の女の魅力をイェジンは見せており、クロースアップを多用した撮影がそれを余すところなく伝えている。

 ホ・ジノはこの映画を長く撮ってたくさん切ったという。無駄な部分を切りつめていく作業こそが洗練を生む。それをよく理解しているのだと思う。饒舌を廃した寡黙な映画。かつてはそういう映画が邦画にもあったが、今はほとんど見かけることがなくなった。しかし、この何ということもないストーリーの映画を支えているのはそうした方法論なのである。ほとんど純文学のノリに近いこの方法では大衆性を得ることは難しいと思う。だからといって、ホ・ジノの価値が損なわれることがないのもまた確かなことではある。

2005/10/30(日)「ティム・バートンのコープス ブライド」

 「ティム・バートンのコープス ブライド」パンフレットティム・バートン監督のストップモーション・アニメーション。子供を連れて日本語吹き替え版で見た。だからオリジナルの歌の良さやジョニー・デップ、クリストファー・リー、ヘレナ・ボナム=カーターなどのセリフ回しなどは楽しめなかったのだが、それでもそれなりに面白い(欲を言えば、吹き替え版であっても歌だけは原曲を使ってほしいと思うが、子供のことを考えれば無理なのかもしれない)。個人的には「チャーリーとチョコレート工場」よりもこちらの方が好きである。物語を過不足なく(ストップモーション・アニメとしては大作の1時間17分に)まとめた作りは見事。ダークな雰囲気の中でクスクス笑わせながら温かいストーリーを語るのはバートンらしく、それを忠実にアニメ化したのが共同監督のマイク・ジョンソンなのだろう。完璧なアニメーティングと構図に加えて、セットの造型も細かく丁寧である。良い出来だと思いつつ、何だか物足りない思いも残るのはこれがチョコレート工場同様にファミリー向け映画だから。もちろんだからこそ、子供を連れて行ったのだれども、「スリーピー・ホロウ」「バットマン リターンズ」のようなバートン映画が好きなファンとしてはファミリー映画ばかり作らず、次作こそは大人向けの映画を作ってほしいと切に願う。

 結婚を翌日に控えた青年ビクターが森の中で誓いの言葉の練習をしたために死体の花嫁(コープス・ブライド)エミリーと結婚する羽目になる。親が決めた婚約者ビクトリアを一目で好きになっていたビクターはさてどうする、というシチュエーション。ビクターの両親は成金で、ビクトリアの家は金庫がスッカラカンの貧乏貴族。富と名声をそれぞれに欲した両親が進めた結婚話だったが、ビクターのナイーブさとビクトリアの清楚さはそれぞれが惹かれ合うのに十分な理由を持っている。一方、エミリーは幸福な結婚を夢見ていたのに結婚してすぐに夫から殺されてしまった過去がある。この3人の善良な三角関係に絡んでくるのが正体不明の男バーキスで、この映画唯一の悪役である。生者か死者か、ビクターはどちらを選ぶのか。普通なら生者を選ぶに決まっているが、映画は死者の世界を明るいカラーで、生者の世界はモノクロームに近いくすんだ色合いで描き、死者の世界のデメリットを打ち消している。バーキスの存在は三角関係の解消による切なさを和らげる方向に働いており、この脚本、なかなか巧妙だ。つまり、結ばれた2人だけでなく、取り残された1人にも満足感が得られる構造になっているわけである。

 ストップモーション・アニメの常で技術的な部分についつい目が行ってしまう。「キング・コング」(1933年)の昔からストップモーション・アニメはどこか動きにぎこちない部分が残るものだが、この映画、一瞬、CGではないかと思えるほど滑らかな動き。花嫁のブーケやドレスが風に揺れるシーンなど極めて自然である。この撮影、なんとデジタル・スチール・カメラが使われたという。スチール・カメラの画像を1秒間に24コマつなげれば、確かにアニメになるのだが、その作業は想像を絶するほど根気のいるものだろう。いや、ストップモーション・アニメは元々根気のいるものであり、画像の処理がデジタルならば簡単にできるという利点は確かにあるのだが、スチールを使うというのは普通は考えない。これはもう気分的なもので、ムービーカメラを使ったにしても一コマずつ撮っていくしかないのだから、スチールで撮ったって別に構わないのだ。編集もパソコンでできるメリットがある。そうした技術的な部分を映画からは感じさせないのが良いところで、技術が物語を語る手段に収まって前面に出てこないのは好ましい。