2005/10/27(木)「楽天市場」個人情報流出、店舗の元社員を逮捕

 そうか、こいつが犯人か。よくも僕の個人情報を…。おかしかったのはTBSのニュース専門チャンネルNEWS BIRDでこのニュースを繰り返し流していたこと。このチャンネルはいつも同じニュースを何度も繰り返しているのだけれど、楽天だったから、力が入っていたと思うのは気のせいか。被害者の楽天への怒りまで取材していましたからね(この女性被害者、健康器具を買ったそうだ。たぶん、僕と同じラテラルサイトレーナーでしょう)。楽天自体のミスではなく、店舗側のミスなのだが、まあ、楽天も管理責任は逃れられないでしょう。

2005/10/26(水)「ドミノ」

 「ドミノ」パンフレット実在した女賞金稼ぎドミノ・ハーヴェイを描くアクション映画。というよりはアクション映画のストーリーに実在の賞金稼ぎをはめ込んだと言うべきだろう。中心となる事件がうまくできすぎていて、いかにもフィクションという感じがある。マフィアと現金輸送車強奪グループと賞金稼ぎの三つどもえの争いとなるこの事件自体は、誤解と陰謀が絡み合って面白い。監督のトニー・スコットはミュージック・ビデオのような映像で物語を綴っていく。短いカット割りとフラッシュバック、ざらついた映像の連続は、しかし、効果を上げているとは言えない。スタイリッシュを目指したと思えるのにそうなっていず、感情移入を拒否して見にくいだけなのである。同じく凝った映像で楽しませた「シン・シティ」と比べれば、両者の優劣は歴然とするだろう。それ以上に問題なのは端的に「ドミノ」にはハートがないこと。ドミノのキャラクターや仲間との関係が極めて表層的なものに終わっており、エモーションが高まっていかない。主演のキーラ・ナイトレイは悪くないだけに残念だ。

 映画は警察の取調室でFBI捜査官(ルーシー・リュー)の聴取に答えて、ドミノが事件を回想する形式。ドミノは俳優ローレンス・ハーヴェイとモデルの母親(ジャクリーン・ビセット)の間に生まれた。高校時代からスーパーモデルとして活躍したが、セレブな生活に嫌気が差して、新聞広告で募集記事を見つけた賞金稼ぎ(バウンティ・ハンター)となる。映画の前半は実際のドミノの奔放な人生を描いていく。メインの事件が始まってからはほとんどフィクション(映画の冒頭にはBased on a True Storyと出た後にSort of ...とただし書きがつく)。賞金稼ぎのボスはエド(ミッキー・ローク)、仲間はチョコ(エドガー・ラミレス)とアフガニスタン人の運転手アルフ(リズワン・アビシ)。これに保釈金保証人クレアモント(デルロイ・リンドー)、ドミノを取材するテレビ局スタッフ(クリストファー・ウォーケンが変人プロデューサー、「アメリカン・ビューティー」のミーナ・スヴァリが美人スタッフを演じる)、マフィア、カジノのオーナー、現金輸送車強奪グループが絡まり合ってストーリーが進む。

 脚本は「ドニー・ダーコ」のリチャード・ケリー。メインの事件の描き方は、映画の最初の方から事件の断片を入れていくところなどガイ・リッチー「スナッチ」を思わせる。これは人命がかかった事件なので、もっとエモーショナルなものになっていくはずなのだが、この映画の描き方ではそれが希薄になってしまう。希薄なのはドミノとチョコの関係にも言え、クライマックス前のラブシーンが盛り上がらないのはそれまでの2人の関係の描き方が不十分だからだろう。凝った映像だけがあって、中身がない映画になってしまっている。描写を積み重ねて登場人物の内面まで描き出していくような演出に欠けているのである。MTV出身の監督にはこういうケースがよくあるが、ベテランと言えるトニー・スコットがこういう映画を撮っているようでは困る。

 映画の最後に登場する実際のドミノ・ハーヴェイはフランセス・マクドーマンドのような容貌だった。ドミノは今年6月27日、自宅の浴槽で死んだ。35歳。死因は特定されていないが、麻薬の大量摂取が原因とされているという。母親役のジャクリーン・ビセットは久しぶりに見た。かつてはキーラ・ナイトレイ同様、指折りの美人女優だったが、細かいしわが顔全体に刻まれていて、あまりと言えばあまりの老けよう。61歳だから仕方がないのだが、それにしてもこんなに老けるとは驚きである。

2005/10/22(土) ジュニア用インラインスケート

 次女が欲しいというので楽天で探してみる。5,000円足らずで売っているので、これならいいかと思ったが、ジュニアのインラインスケートについてを読むと、安い製品は良くないと書いてある。当たり前といえば当たり前なのだが、あまり滑らなかったり、横滑りしたりするらしい。なるほど。ローラーブレードやK2あたりのメーカー製品は2万円近くするけれど、プロテクターと一緒にそういう製品を買った方が結局は子供のためにはいいようだ。

 ちなみに長女にはローラーシューズを2年ほど前に買った。サイズが少し小さかったこともあって、ほとんど使っていない。それにローラーシューズはインラインスケートより難しいみたいですね。

20秒間500円

 9月に開局した大分県のコミュニティFM局「FMなかつ」の広告料。破格といって良い価格だと思う。これなら街の八百屋さんや魚屋さんも広告を出せるのでしょう(広告制作費は5000円から1万5000円程度という)。1日の放送時間は15時間ですべて生放送。午後7時から9時までアダルト番組があり、その聴取率がいいそうだ(これは聞いてみたい)。放送時間が午後10時までなのでこういう編成になるのだろうが、いくらなんでも午後7時からのアダルトは早い。いっそのこと、昼間の放送はやめて夕方から深夜に放送すればいいのではないかと思う。

2005/10/20(木)「ヒトラー 最期の12日間」

 「ヒトラー 最期の12日間」パンフレットタイトルの意味よりもベルリン陥落か第三帝国の崩壊という感じの内容だなと思ったら、原題はDer Untergang(没落、破滅という意味とのこと)。その通りで特にヒトラーに焦点を絞った映画ではない。だからパンフレットにある「戦後初めてヒトラーを注視した映画」というニューヨークタイムズの批評には疑問を感じる。これまでの映画の中で描かれた悪の象徴としてのヒトラーよりは人間性が描かれているのだろうが、映画の中のヒトラーはベルリン陥落を前に錯乱した人物としか思えないぐらいの描き方である。ヒトラーは戦争を無用に長引かせることによるベルリン市民の犠牲など何とも思っていず、人間性を肯定的に描いた映画では全然ない。第一、ヒトラーがエヴァ・ブラウンとともに自殺した後も映画は延々と続くのだ。とはいっても、日本では昭和天皇をこのヒトラーのように描いた映画などこれまでまったくないことを考えれば、まだまだドイツはえらいと言うべきか。

 映画はヒトラーの秘書となり、その最期まで身近にいたトラウドゥル・ユンゲ(アレクサンドラ・マリア・ララ)の視点が中心になっている。実は映画で最も心を揺さぶられたのは物語が終わった後に実在の年老いたユンゲが登場するラストである。ここでユンゲはニュールンベルク裁判までユダヤ人が600万人も虐殺されたことを知らなかった、と話す。しかし、自分がヒトラーの秘書になったのと同じ年で虐殺されたユダヤ人女性のことを知り、後悔の念を語るのだ。「もし、私が目を見開いていれば、気づけたはずです」。それはユンゲだけではない。ドイツ国民の多くは目を見開いていなかった。いや、見開いているのに自分が見たものの意味が分からなかった。分かったのにそれを自分に隠していた。隠さずに間違いを主張すれば、殺されるのだから仕方がないとも言えるのだが、映画で描かれたことは60年前に終わったことではないという思いを強くする。そういう状況はいつの時代でもあり得ることだろう。ユンゲの言葉はだからこそ重い。

 映画を見て強く印象に残るのはバカな独裁者の妄想を信じた人々とそれに疑問を呈する人々が同じように戦争の犠牲になっていく姿である。砲撃で犠牲になる市民、ヒトラーの自殺の後を追うように自殺する側近たち、裏切り者として親衛隊から殺される男たち、軍を盲目的に信じてソ連兵に銃を向ける少年たち、寝ている間に母親から毒殺されるゲッベルスの子どもたち。この映画、反戦のスタンスを少しも崩していない。同時にドイツも戦争末期は日本と同じような状況だったのだなと思わされる。どこの国も崩壊する時の状況は同じようなことになるのだ。

 監督は「es[エス]」のオリバー・ヒルシュビーゲル。刑務所内で役割を固定されたことによる人間性の崩壊を描いた「es」はこの映画に通じるものがあると思う。ヒトラーを演じるのは「ベルリン 天使の詩」のブルーノ・ガンツ。

2005/10/18(火)「この胸いっぱいの愛を」(小説)

 「この胸いっぱいの愛を」小説版の表紙普通だったら、映画のノベライズは読まない。映画と関係ない作家(たいていは2流)が書いた小説が映画を超える作品になるはずはないからである。この小説は梶尾真治自身がノベライズしているから読む気になった。正解だった。これは映画よりも素晴らしい。その素晴らしさの要因の一つはラストを変えたことによる。このラストの改変によって、小説は多元宇宙の概念を取り入れた時間テーマSFの佳作になった。とても素敵で幸福なラストであり、映画とは決定的に異なる。

 小説にはタイムマシンのクロノス・ジョウンターが登場する。そして映画を見た時に感じた2つの疑問がちゃんと説明されている。飛行機には多数の乗客がいたのになぜ4人だけがタイムスリップしたのか。タイムスリップした時代が20年前だったのはなぜか。この2つの疑問は密接にかかわっており、それを説明するにはやはりタイムマシンが必要なのである。

 物語は映画と同じように進んでいく。ただ一つ、子どもを交通事故で亡くした夫婦が登場するところが違う。つまり1986年にタイムスリップしたのは6人になっているのである。この夫婦の20年前の行いはラスト近くにその結果が描かれる。これを見ても分かるように小説は「過去を変えることで未来は変えられる」という考え方に基づいている。登場人物たち、少なくともこの夫婦と主人公の比呂志は不幸な未来を変えるために20年前の時代で奔走するのである。

 元々、完成した小説(「クロノス・ジョウンターの伝説」)があり、それを映画化したものを元の原作者がノベライズするというのは非常に珍しい。映画のパンフレットで梶尾真治は「2001年宇宙の旅」を例に挙げているが、あれは映画用のプロットをクラークが書き、それを元にキューブリックは映画を作り、クラークは小説化したという経緯がある。だから「2001年…」の小説版は映画のノベライズではない。

 もちろん、この小説はノベライズだから映画のストーリーに引っ張られた部分が当然のことながらある。ノベライズという枠がなければ、もっと面白くできただろう。それにしても映画はこういうラストにすべきだったとつくづく思う。梶尾真治は「シン・シティ」のフランク・ミラーのように映画にかかわるべきだったのではないか。少なくとも脚本には協力した方が良かった。出来上がった脚本に手を入れて、この小説のような形にしていたら、映画はもっと評価が高かったと思う。だからSFの分かる脚本家でないとダメなのだ。

 映画が小説より優れていると感じたのはただ一場面だけ。例の中村勘三郎の登場シーンである。ここは小説にはより詳しく心理描写があるのだけれど、中村勘三郎の演技の説得力が勝っている。役者のレベルの高い演技はしばしばそういうことを生むのだろう。