2008/08/24(日)「幻影師アイゼンハイム」
ほとんど中身を知らずに見て、ラストでああ、そういう映画だったのかと思った(この鮮やかなラストには感心した)。僕はSF方面に発展していく映画なのかなと思っていた。死んだ恋人をマジックで生き返らせようとする男の話と紹介されていたからだ。恋人は確かによみがえるが、それはマジックの舞台の上で霊として登場するのであり、自分を殺した犯人が「この劇場の中にいる」と指摘する。
「アフタースクール」同様にこれもまた何も知らずに見た方がいい映画。監督のニール・バーガーはこれが2作目で、作品は日本初公開。元CMディレクターらしいが、要注目の監督だと思う。次作「The Lucky Ones」が近くアメリカで公開される。
19世紀末のウィーンが舞台。アイゼンハイムは少年時代に道ばたで奇術師と会い、不思議なマジックを見せられて奇術を志す。貴族の娘ソフィと親しくなるが、身分の違いから引き裂かれる。奇術を学ぶために世界を放浪したアイゼンハイム(エドワード・ノートン)は15年後、ウィーンに戻り、驚愕のマジックを見せる奇術師になっていた。ある日、アイゼンハイムの舞台を皇太子が見に来る。ソフィ(ジェシカ・ビール)が同行しており、2人は久しぶりに再会を果たす。アイゼンハイムのマジックは評判を呼ぶが、人心を惑わすとして皇太子は警部(ポール・ジアマッティ)に命じてアイゼンハイムの周辺を探らせ、逮捕させようとする。再会したアイゼンハイムとソフィの間には恋心が再燃する。しかし、ソフィは近く皇太子と結婚することになっていた。ソフィの心変わりを知って、皇太子は怒る。そんな折りにソフィが死体で見つかる。
回想シーンはアイリスを使用したクラシカルな作り。それが19世紀を感じさせて良い。原作はスティーブン・ミルハウザーの短編。それをバーガー自身が脚色している。原作は知らないが、この脚色は見事だと思う。マジックを扱っただけでなく、映画自体にもマジックがあるのだ。
SF方面の話と思ったのは劇中に驚愕のオレンジの木のマジックが登場するからでもある。こんなことがマジックでできるはずはなく、アイゼンハイムは超能力者だろうと思ったのだ。しかしこれは19世紀から実際にあるマジックだそうで、YouTubeでも見ることができる(http://jp.youtube.com/watch?v=-Ht_afydffk)。ただし、オレンジの木がいかにも作り物。映画のような幻想的な雰囲気には欠ける。
2008/08/09(土)「ダークナイト」
なんと香港の場面で一瞬、エディソン・チャンが出てくる。ちょっと顔が見えるだけ。セリフもなし。ホントはもっと大きな役だったのかもしれないが、ああいう事件がありましたからね。仕方がないだろう。これ、ヒース・レジャーの遺作なだけではなく、芸能界引退前のエディソン・チャン最後の作品ということになるのだろうか。
さて、さんざん期待して見たこの作品、十分に傑作だと思う。バットマンの身代わりになった地方検事ハービー・デント(アーロン・エッカート)の護送車にジョーカーが襲撃を仕掛ける中盤から延々とクライマックスが続く感じ。まさかそんなというドラマティックなストーリーに加えて、悪の化身であり狂気のジョーカーがゴッサム・シティも画面も支配し、おまけにトゥーフェイスまで出てくるのだ。映画2本分の内容とスペクタクルなシーンが満載だ。バットモービルは壊れるが、バットポッドがまたまたカッコイイ。2時間32分、飽きるところがなかった。
ただし、十分な傑作ではあってもそれ以上ではなかった。僕が期待したのは仮面を付けたヒーローの二面性で、ティム・バートン「バットマン
リターンズ」で描かれたようなヒーローであるがゆえの苦悩だった。もちろん、この映画でもジョーカーがバットマンに同じフリークスであることを指摘する場面があるし、バットマンの行動はゴッサム・シティの市民に理解されないという設定もある。ダークナイト(暗黒の騎士)とはそんなバットマンの悲しい姿を警部から市警本部長に昇格したジム・ゴードン(ゲイリー・オールドマン)が指す言葉だ。
だが、そうした設定がどうもエモーショナルなものにまで十分に高まっていかないもどかしさが残る。「リターンズ」においてバートンはペンギンとキャットウーマンの不幸な身の上を描き、それが世間への復讐へと向かう姿に説得力を持たせていた。そしてバットマンとキャットウーマンはお互いに素の自分と仮面を付けた自分の二重人格を持つ身として心を通わせた。この映画に足りないのは悪のジョーカーの精神構造で、こういう存在になった背景が詳しく描かれないことだろう。ヒース・レジャーの鬼気迫る演技に押し切られそうになるけれども、ジョーカーの精神の深奥にまで踏み込めば、さらに映画は深みを増したのではないか。
ウェインの幼なじみで刑事のレイチェル・ドーズ役は前作のケイティ・ホームズからマギー・ギレンホールに代わった。好みの問題ではあるけれど、ジョーカーがレイチェルに向かって「威勢の良い美人だ」と言う場面で「そうかあ?」と思ってしまった。もう少し美人の女優をキャスティングしていれば、ドラマティックさはもっと増したような気がする。
ついでに書いておくと、民衆に理解されない孤高のヒーローという存在は珍しくはない。「デビルマン」や「超人ハルク」「スポーン」もそうだし、「スパイダーマン」にもそんなところがある。単純な正義のヒーローよりもドラマ的に面白くなるのだが、もはやこれもパターン化しており、相当に工夫がないとつらいものがあるのだ。
2008/07/28(月)「ハプニング」
不思議なのはなぜこの程度のアイデアの脚本でプロデューサーが映画化を決めたのかということだ。普通ならば、この思いつき程度のアイデアを補強するために脚本家は知恵を絞るだろう。どうやったらリアルなものにできるか、観客に信じてもらえるかを考えるはずだ。M・ナイト・シャマランの場合、それはさっさと放棄して、好意的に言えば、状況を語ることに力を注ぐ。だから魅力的な状況は描けてもネタを知らされたら、何それ、ということになる。どうもシャマラン、基本のアイデアではなく、シチュエーションを先に考えるタイプなのではないかと思う。この状況の説明のために何とか考えたのがこのリアリティー皆無のネタなのだろう。ま、「シックス・センス」の場合はネタが最初にあったのでしょうけどね。
ニューヨークのセントラル・パークで人々が突然足を止め、ベンチに座っていた女性2人のうち1人が髪留めを外して自分の喉に突き立てる、という始まりはショッキングだ。それに続く、工事現場で人がバラバラと飛び降り自殺をするという場面も面白い。アメリカの東海岸一帯で人々が突然おかしくなり、自殺を始める。何らかの毒物が蔓延し始めたらしいというのが予告編で描かれたこと。ここから映画は一組の夫婦に話を絞り、街なかでの大状況から家族単位の小状況に話を移行させ、サスペンスを煽る。この手法は内容のバカバカしさと併せて「サイン」を思い起こさずにはいられない。
終盤に登場するある人物がすべてのカギを握っていたという展開ならまだ良かったのかもしれないと思う。命からがら逃げた場所が状況の原因を作っている人物の場所だった、というシチュエーションはホラーなり、SFなりによくある設定である。これの方がまだ話に説得力があっただろう。シャマランもそれを思いついたのかもしれないが、それに説得力を持たせることができなくて放棄したのかもしれない、と想像してしまう。
状況の面白さとアイデアの陳腐さが対照的なトンデモ映画の1本だと思う。シャマランにとってはこういう作品、「サイン」に続いて2本目だ。シャマラン、限りなく才能が枯渇していっているのではないか。
パンフレットの監督インタビューで、映画で起こる現象について理由が明かされないのは意図的かと聞かれたシャマランはあきれたことを言っている。
「この描き方は先鋭的だと思う。僕は、スタジオのために大作を作る、インデペンデントな映画作家だと自認している。これまでにないタイプの物語に挑戦できる立場にあるんだ」
もう、バカかと思わざるを得ない。これが先鋭的だったら、世の中のクズ映画のほとんどは先鋭的だ。しかも理由がないのはヒッチコックの「鳥」と同じだなんて、たわけたことを言っている。この映画の問題はこれが起こりうる可能性を論理的に説明していないことなのだ。鳥が意図的に人間を攻撃することは現実にありうるが、この映画で起こることとの間には大きな開きがある。それが認識できていないとは、シャマランの頭の中は腐っているようだ。
2008/07/11(金)「タロットカード殺人事件」
「世の中ウソばかりじゃない。ほとんどウソだけど」。
ウディ・アレンのセリフの9割近くはジョークだった。まあ、死んだ記者が死に神の船の中で特ダネを知り、それを伝えるために現世へ逃げ出し、記者志望の女子大生(スカーレット・ヨハンソン)に伝えるという設定からしてジョークに近い。というか、アレンはその小説を読んでも分かるようにこうしたSFチックな奇想の系譜に属する作品がある。短編小説では名手と言って良い腕前ですからね。映画では「カメレオンマン」とか「ニューヨーク・ストーリー」の中の1本とか「ウディ・アレンの誰でも知りたがっているくせにちょっと聞きにくいSEXのすべてについて教えましょう」とかが思い浮かぶ。
もっともこの映画、出だしは奇想だが、その後の展開は殺人事件の容疑者に接近した女性が恋に落ちてしまうというよくあるもの。それを救っているのはアレンのジョークとヨハンソンのコケティッシュな魅力か。偽の親子に扮して容疑者の貴族(ヒュー・ジャックマン)に接近する2人のでこぼこコンビぶりが楽しい。「生まれた時はユダヤ教だったが、その後ナルシスト教に変わった」とかユダヤ関連のジョークも相変わらず多い。というわけで僕はまあまあ面白く見た。
2008/07/05(土)「いのちの食べかた」
クライマックスは牛の解体。それまでに鶏や豚の解体を見ているので、なんてことはないと思っていたが、やはり屠殺の仕方から牛の場合は違う。「ノーカントリー」でハビエル・バルデムが使っていたような屠殺銃を額に押し当てられて牛は一瞬で殺される(と思ったが、あの段階ではまだ死んでいず、失神しているだけらしい)。その直前にガタガタ体を震わせるのは自分の運命を知っているからだろう。その後の流れ作業は鶏や豚の場合とあまり変わらない。皮を剥ぎ、内臓を取り出し、切断していく過程がてきぱきと行われていく。
豚の場合は電気棒のようなもので、屠殺機の中へ追い立てられ、出て来た時には死んでいる。牛でこういう屠殺の仕方ができないのは体が大きいからなのだろうか。屠殺の過程さえ、自動化してしまえば、牛の解体に感じた残酷さは感じなくなるのかもしれない。実際、死んでワイヤーに吊されたシーンから豚も鶏もおいしそうに見えてくる。
食肉過程に残酷さを感じないのはすべてが流れ作業で機械化されているからだろう。豚は腹を切り裂く過程さえ、機械で行われている。豚で残酷さを少し感じたのは大きなハサミで足をパチンパチンと切断していくシーンのみ。作業の多くの場面で女性が参加しているのも面白いが、牛の解体に女性がいなかったのはやはり豚や鶏に比べて残酷さを感じる過程が残っているからだろう。
原題は「Unser taglich Brot」(Our Daily Bread=私たちの日々の糧)。食肉の製造過程だけでなく、野菜や果物、魚などがどう生産され、加工されていくかをランダムに見せる。音楽もセリフもなく、生産過程をそのまま見せることがニコラウス・ゲイハルター監督の意図だったという。豚から野菜に行き、豚に戻り、魚に行くといったランダムな見せ方が映画のポイントで、余計な説明がないのは潔いが、最小限の字幕ぐらいはあっても良かったのではないかとも思う。ひよこに予防注射をしている場面とか子豚の去勢のシーンなどは説明されないと分かりにくいのではないか。
ゲイハルターは「僕が特に興味を持つのは、『なんでもかんでも機械で出来る』という感覚や、そういった機械を発明しようという精神、それを後押しする組織です。それは、とても怖い感覚で、無神経でもあると思います」と語っている。機械化・自動化によって命を感じさせないことへの批判と受け取れるが、実際に毎日働いている人に命を断つことの重みを感じさせていたら、作業は成り立たないだろう。部分的に作業をやっているからできるのであって、あの過程に参加する数の人間がそれぞれ屠殺から解体まですべて一人でやることは不可能に近い。
牛の解体をクライマックスに持ってきたのは命を最も感じさせる処理であるからにほかならない。これに比べれば、野菜の生産現場の描写などは付け足しとも思え、牛の人工授精から解体までを詳細に描くだけでも映画として成立するだろう。監督の意図を実現するには牛の解体だけで事足りるのである。ただし、そうなったら重すぎる映画になるのかもしれない。野菜や果物のシーンにも農薬の問題などは含まれているけれども息抜き的な効果の配慮もあるのだろう。