2003/09/03(水)「ドラゴンヘッド」

 ドラゴンヘッド=龍頭(りゅうず)。人間の欲求・本能・自律神経などを司る海馬体を切除された人間。恐怖をなくすためにこの手術を受ける。

 ということは映画の中では詳しく説明されない。だいたい龍頭もドラゴンヘッドも単語としては出てこない。主人公のテル(妻夫木聡)とアコ(SAYAKA)が廃墟で出会う幼い兄弟がこの手術を受けていた。医師の母親によって手術されたこの兄弟は母親が死んでも涙一つ流さない。

 破滅後の世界を描くこの映画で、終盤、立ち上がってくるのは、感情をなくしてでも人は生きたいかというテーマだ。ようやくたどり着いた東京の地下で、テルは非常用保存食とされる缶詰を食べる人々の姿を見る。缶詰のラベルには(試)と記されており、これを食べることで感情がなくなってしまうのだ。「これうまいぞ、ほら」と缶詰を投げる根津甚八の姿は「マタンゴ」を思わせた。言うまでもなく、「マタンゴ」は島に流れ着いた男女のグループがキノコを食べることで化け物になってしまうというホラー映画。飢えには耐えられず、グループは一人また一人とマタンゴ化していく。僕と同年代の飯田譲治監督はこの映画を見ているはずで、人が人でなくなっていく恐怖が脳裏に深くインプリンティングされているはずである。感情をなくすことは化け物になること、そして死ぬことと同義なのだ。

 望月峯太郎の原作コミックを映画化したこの作品、この部分だけが良く分かった。世界はなぜ破滅したのか、詳しい説明はない。地殻の変動で地磁気が狂い、それが地球に多大な変化をもたらしたとの仮説が提起されるだけである。修学旅行の新幹線の中でテルが目を覚ますと、列車はトンネルに閉じこめられ、クラスメートはほとんど死んでいた。何が起こったのか。テルと同じく生き残ったノブオは狂気すれすれの状態で、もう一人のアコは足にけがをしながらも正気を保っていた。冒頭、延々と続くこのトンネル内の描写が極めて手際が悪い。ようやくここを出たと思ったら、外も息が詰まるような状態。空は雲に覆われ、白い灰が絶え間なく降っている。映画は最後までこの陰々滅々とした雰囲気に終始する。

 いくら破滅した世界だからといっても、これはあんまりで、破滅前の世界の描写を色鮮やかにインサートするとかの工夫が欲しかったところだ。生き残った人々の多くが精神に異常を来しているという描写も類型的(これは磁場の乱れが影響しているらしいが、それにしてもである)。飯田監督、どこかで計算が狂ったのではないか。

2003/08/15(金)「ウルトラマンコスモス VS ウルトラマンジャスティス The Final Battle」

 長男と次女を連れて見に行く。「新世紀2003 ウルトラマン伝説 The King's Jubilee」という短編が最初にある。これがなんで作ったのか分からない出来。ウルトラマンたちのダンスコンテストである。去年も同様の短編があったが、あちらの方がまだましだった。

 こういうのを最初に見せられると、本編の方に不安を持ってしまうが、予想に反してまずまずの出来だった。いや、これはあくまでも子ども向けとしてはという条件が付く。

 2000年後に地球は有害な存在となるとの理由で、宇宙の調和を守る宇宙正義が地球上のすべての生命の抹殺を図る。ウルトラマンジャスティスはその決定に基づき、コスモスと対決。コスモスはジャスティスとロボット怪獣グローカーの連合軍に敗れ、消滅してしまう。地球滅亡まであと35時間。かつてのチームEYESの面々は消えたコスモスとムサシを探し求める。一方、ジャスティスは地球人の女の子に触れ、徐々にその心を変化させていくが…。

 有害な存在になるのにまだ2000年の猶予があると言うムサシに対して、ジャスティスは「サンドロスにも2000年の猶予を与えて失敗した」と切り返す。サンドロスは昨年の「ウルトラマンコスモス2 THE BLUE PLANET」に出てきた怪獣で、このシリーズ、ちゃんと映画第1作、テレビ、映画第2作、そして今作と一応つながっている。VFXも一応整っている。だから子供たちはまずまず満足するだろう。

 宇宙正義という存在が今ひとつよく分からないのは置いておくにしても、ジャスティスの心を変化させるのに愛や希望や夢という言葉を持ち出して説明するあたりがダメなのである。地球と人類を守るコスモスと宇宙を守るジャスティスの対比が映画のメインテーマになるはずなのに、そのテーマは深化されず、極めて表面的な描写で終わってしまう。宇宙にとって有害な人類をなぜ守るのか。このテーマを突き詰めれば、映画はもっと深みが出てきたはずだ。なのに脚本はテーマの設定だけで、その後の展開の工夫を放棄している。子ども向けと思って、この程度のことしかやらないようでは大した映画ができないのは自明のことだ。

 人類の守護者と宇宙の守護者という対比は、「ウルトラマンガイア」の人類の守護者(ガイア)と地球の守護者(アグル)の対比によく似ている(監督・特技監督の北浦嗣巳はガイアシリーズも担当した)。そういえば、ガイアでもこのテーマは突き詰めきれずに終わったのだった。去年も思ったのだが、「ウルトラセブン」のような名作を生むにはやはりしっかりと話を作っていく必要がある。

2003/07/28(月)「茄子 アンダルシアの夏」

 黒田硫黄の連作短編「茄子」の一編「アンダルシアの夏」を「千と千尋の神隠し」などの作画監督・高坂希太郎が監督した47分のアニメーション。47分という長さは映画としては商売になりにくい中途半端さで、オリジナルビデオとして企画されたのではないかと思ったら、やはりパンフレットにそう書いてあった。いくら短編が原作だからといっても、劇場にかける以上は1時間20分程度の作品にするものなのだ。その代わり料金は1,000円だったが、これには異論があって、以前3時間の映画で2000円だったか3000円だったかを取った作品があったけれど、上映時間の長さと料金とは決して比例するものではないだろう。無駄に長くて心をピクリとも動かさない作品はたくさんあるし、短くても十分満足できる作品もある。

 劇場用映画としての長さはともかく、これは自転車レースをアニメではたぶん初めて取り上げて、CGも駆使した佳作になった。主人公の心情とレース展開がクロスしてくるところが定石とはいえ、うまく、ラスト近く、かつて兵役から帰った主人公が故郷でつらい思いをした経験とレースを終えた今の主人公がオーバーラップするところでなんだかジーンと来てしまった。この作品は十分、こちらの心を動かしてくれた。

 スペイン全土を駆け抜ける自転車レース「ブエルタ・ア・アスパーニャ」。主人公のぺぺはパオパオビールチームのアシストとして故郷のアンダルシアでのレースを走ることになる。摂氏45度の中で行われる過酷なレース。集団から抜け出したペペを8人の選手が追う。故郷ではちょうど兄のアンヘルがカルメンと結婚式を挙げたところだった。カルメンはかつてのペペの恋人。兵役に行っている間に兄に奪われた。ちょうどペペが兄の兵役の間に兄の自転車を自分のものにしたように。パオパオビールのエース・ギルモアがレース中に事故を起こしたことから、ペペはエースとして最後までトップを行くよう命じられる。スポンサーから首を言い渡されそうになっていたペペは必死でペダルをこぐが、後方にいた集団からみるみる迫られてくる。

 ペペは兄とカルメンのこともあって故郷を遠く離れたいと思っているが、現実はなかなかうまくいかない。絶望的なつらさは乗り越えたけれど、まだちょっとつらい思いが残っている主人公なのである。描き込めば、さらに深く描ける題材なのだが、映画は47分という短さもあって、淡泊である。しかしその淡泊さが、かえってスマートに見える。主人公が自分の不幸を嘆くようなダサダサの展開から逃れられたのはこの描写のスマートさがあったからだろう。高坂希太郎の脚本・演出は間違っていないと思う。レース場面のCGも迫力がある。

 それにしても、後方集団から3分以上離れていたのに集団が残り5キロでみるみる追いついてくるのはマラソンでは考えられない展開。自転車レースはそういうものなのか。

2003/07/21(月)「踊る大捜査線 The Movie2 レインボーブリッジを封鎖せよ!」

 5年前の映画版第1作でおおおおお、と思ったのは青島(織田裕二)が「天国と地獄だああ」と叫ぶシーンだった。そこで座り直して、この脚本家はえらいと思った。君塚良一の名前を認識したのは、遅まきながらこの時。今回、最初の方に「天国と地獄」のビデオのパッケージが出てくるのはご愛敬である。

 映画の引用で言えば、今回は「砂の器」+「機動警察パトレイバー2」が入っている。「砂の器」に関しては方言の使い方がそのままだし、見ている人にはすぐに分かる(「砂の器だああ」とは叫ばない(織田裕二は叫びませんが、深津絵里が叫んでいるそうです。見落としてました)。「パトレイバー2」は意識しなかったのかもしれない。進化する街・お台場を舞台にしていることで、必然的に似てきたのだろう。5年前、空き地が目立ったお台場は今や年間4000万人が訪れる観光・レジャースポットになった。そのお台場の地理が物語の重要なポイントになっているし、冒頭、SAT(警視庁特殊急襲部隊)が豪華客船に突入する場面の呼吸もパトレイバー的だった。現場のズッコケ組が事件解決に大きな役割を果たすというのも特車2課の面々の活躍と同じである。ただ、犯人側のスケールが「パトレイバー2」に比べると、ずっと小さい。この程度の犯人の逮捕に警視庁側の捜査態勢は大げさではないか。また、犯人側のキャラクターは現場の刑事たちとの共通点があるのだが、それがうまく表現できていないのは残念だ。

 4つの事件が同時進行するいわゆるモジュラー型の構成である。メインの猟奇連続殺人のほか、親子4人の“アットホームなスリ”と連続噛みつき魔、湾岸署の神田署長(北村総一郎)の不倫メール事件(これはいつもの署内の騒動である)が描かれる。スリと噛みつき魔の捜査に傾注する湾岸署員に対して、連続殺人の捜査本部長を務める沖田管理官(真矢みき)は「所轄の仕事なんてどうだっていいでしょう」と一喝する。「踊る大捜査線」がテレビシリーズの時から一貫して描く現場とキャリア組の確執がこの映画でも重点的に描かれる。いや、この映画はこの確執を描くことだけを念頭に置いたようだ。

 「私たちの仕事はやらなきゃいいって言われるような、そんな仕事なんですか」「俺たち下っ端はなあ、地べたはいずり回ってるんだ」。そんなセリフに象徴される現場の仕事をそれこそ現場主義とでも言うべき描写で執拗に描く。このシリーズが圧倒的な大衆性を備えているのはこういう部分があるからだろう。犯人側をあまり描かないのはこの確執を描くことに筆を費やしたかったからだと好意的に解釈しておく。

 解釈はしておくが、重大な事件が発生しているのにスリや噛みつき魔を追うことを主張するような描写はリアリティーを欠く。警察は重大事件が起こったら、泥棒なんて単純な事件はほったらかしにしておくものなのである。キャリア組の描写もデフォルメされすぎており、君塚良一の脚本は今回、それほどの充実度はない。これは本広克行の演出にも言え、先に書いた冒頭の場面の手際も決して良くないし、全体的に緩い印象だ。

 穴だらけの出来なのに、それでもなおかつ成功しているのは出演者の呼吸がぴったり合っているからで、観客が求めるもの(例えば、青島とすみれの関係。「やっぱり、愛してる…」のセリフに拍手)をことごとく見せてくれるからでもあるだろう。憎まれ役の真矢みきはレギュラー陣に負けない好演をしている。口跡の良さと迫力のある演技はさすが舞台の人なのだなと思う。

 気になったのはフィルムの色合いがくすんだ場面があること。HD24pでの撮影が影響しているのだろうか。

2003/07/09(水)「バトル・ロワイアルII 鎮魂歌」

 前作は傑作だったと思う。あの映画で深作欣二は中学生同士の殺し合いを戦争のメタファーとして描いた。自分の戦争体験を交えて熱く熱く描き、物語の弱さを感じさせない映画に仕上げていた。映画は一にも二にも三にもスジだと僕は思うが、描写のエネルギッシュさがありきたりの物語を凌駕して傑作を生むこともあるのだ。

 今回はまさに戦争である。バトル・ロワイアルに生き残った七原秋也(藤原竜也)はテロ組織「ワイルド・セブン」のリーダーとして爆弾テロを行い、政府から追われている。島に立てこもった組織殲滅のため、政府はバトル・ロワイアルII(BRII)法を制定、落ちこぼれの集まった中学校のクラス42人に七原秋也殺害を命じる。今回も生徒たちは首輪をはめられているが、前回と違うのは出席番号のペアで片方が死ぬと、もう一人の首輪が爆発する仕掛け。前作で殺害された教師キタノ(北野武)の娘シオリ(前田愛)は秋也に会うため、BRIIに参加する。

 生徒たちが島にボートで上陸する場面は映像のタッチも含めて「プライベート・ライアン」そのまま。しかし、どうも「戦争ごっこ」という感じがつきまとう。もちろんBRIIはゲームなのだが、少なくとも前作の生徒たちにはゲームを超えた必死の思いがあった。テロに明確な理由がないことも「ごっこ」感を加速する。秋也は犯行声明で「俺たちはすべての大人に宣戦布告する」と話す。これがもう幼稚な考えとしか思えない。すべての大人ではなくBR法を制定した一部の政治家であり、社会を牛耳る権力、大企業を標的にしないと、単なる馬鹿である。革命にはイデオロギーが必要だし、民衆を味方にしないと成功しないものなのである。

 冒頭、東京の高層ビルがテロの爆破によって次々に崩れ落ちていくシーン(9.11の露骨な影響だ)は視覚的には面白いものの、こういう浅はかな考えに基づくのでは著しく興ざめだ。

 総じて脚本を練る時間がなかったとしか思えないストーリーである。事実、キネマ旬報7月下旬号の製作ドキュメントを読むと、深作健太から脚本の直しを要請された木田紀生には1カ月も与えられず、最終稿が完成したのは撮影開始の2日前というハードスケジュールだ。深作欣二の病状が緊迫していた時だし、撮影が1カ月遅れていたという事情はあるにせよ、あまりにも無茶である。映画の基礎が不十分なので、完成した映画にも一本芯が通っていない。秋也たちテロリストの思想をどう固めるか、そこに十分時間をかけるべきだった。

 深作欣二ならまだ、中学生の話を開き直ってオヤジ映画にしてしまえる技量があったが、監督デビューの深作健太にそれを要求するのは酷だろう。

 前作では生徒たちの死に方が多面的に描かれていた。今回はどれも同じような一面的な描写に終始する。このあたりにも工夫が欲しかった。何より「ワイルド・セブン」の主要メンバーとして役を割り振りながら、スナイパー役の加藤夏希にほとんどセリフも見せ場もないのが大いに不満。ほかの役者も見せ場らしい見せ場はなく、忍成修吾と酒井彩名と前田愛と藤原竜也が中心。生徒たちの集団劇のドラマが今回の主軸ではないにせよ、キャラクターの描写不足が致命傷になった観がある。

 若い役者たちが、ちょっとだけ出てくる北野武や三田佳子、オーバーアクト気味の怪演を見せる教師RIKI役の竹内力に場面をさらわれてしまっているのはそのためだ。