2002/07/27(土)「海は見ていた」

 山本周五郎の「なんの花か薫る」と「つゆのひぬま」を黒沢明が脚本化。自分で撮るはずだったが、その願いをかなえられないまま黒沢は他界した。それを黒沢プロの依頼で熊井啓が映画化した。黒沢だったら、クライマックスの暴風雨と洪水のシーンはダイナミックな映像を見せてくれたはずだが、熊井啓はそういう部分があまり得意ではない。物語を収斂させていくこの部分が弱いので映画全体もなんだか締まりに欠け、焦点が定まらない印象になった。緩やかに増えていく水の描写はのんびりしており、画面に生きるか死ぬかの切実さが足りないのである。

 もっとも、それ以前の部分も決して出来がいいわけではない。前半は深川の岡場所を舞台に遊女・お新(遠野凪子)が刃傷事件を起こして勘当された侍・房之助(吉岡秀隆)に抱く純な思いを描く。「こんな商売をしていても、きっぱりやめれば汚れた身体もきれいになる」という言葉に心動かされたお新と仲間の遊女たちはお新の客を代わりに引き受け、お新と房之助の結婚を夢見るようになる。ところが、房之助はお新との結婚などまったく考えていなかった。本人にはまったく悪意はなく、単なる鈍感で善良な男なのだが、迷惑なやつであることに変わりはない。遊女たちの勘違いから端を発したことを考えれば、これは軽妙な話のはずなのに、遠野凪子の演技はシリアス。この設定でシリアスに来られると、戸惑わざるを得ない。熊井啓の演出も正直すぎると思う。

 後半は不幸な身の上の良介(永瀬正敏)を好きになるお新と、お新の姐さんに当たる菊乃(清水美砂)のエピソードが絡む。菊乃は武家の出身だが、ヒモの銀次(奥田瑛二)から離れられず、吉原から渡り歩いてきた。材木商の隠居・善兵衛(石橋蓮司)から身請け話が進むが、銀次から別の岡場所へ売られそうになる。そこへ暴風雨と洪水が押し寄せるわけである。永瀬正敏も清水美砂も石橋蓮司もうまいし、話自体も悪くない。この後半だけを膨らませても良かったのではないか。

 前半のエピソードからすぐに後半の別の話に移行するこの脚本、決してうまいとは言えないと思う。2つの短編をただつなぎあわせるのではなく、並行して描いた方が良かっただろう。「隠し砦の三悪人」や「七人の侍」など絶頂期の黒沢の映画が面白かったのは脚本をチームで書いていたからで、晩年、黒沢が単独で書いた脚本には感心する部分はあまりなかった。

 遠野凪子は昨年の「日本の黒い夏 冤罪」に続く熊井啓映画への出演となる。頑張ったあとはうかがえるが、まだまだだと思う。演技の引き出しが少なく、表現力も足りない。笑顔や泣き顔を見せるだけではダメである。微妙な感情表現の仕方をもう少し身につけてほしい。これはある程度、人生経験も伴わないと難しいだろう。

 ちなみにこの作品、カンヌ映画祭に出品しようとしたが、できなかった。カンヌの審査に通らなかったらしい。つまり予選落ち。もしかしたら、内容が外国人には分かりにくかったのではと思っていたが、これぐらいの出来であるなら、予選落ちも納得がいく。

2002/06/23(日)「陽はまた昇る」

 ビクターの横浜工場ビデオ事業部がVHSを開発し、販売にこぎつけるまでの苦闘を実話に基づいて描く。ということは知っていた。NHKの「プロジェクトX」が元になったそうで、この番組、あまり見ていないが、映画が感動の押し売りになっていたら嫌だなと気構えて見た。

 監督デビューの佐々部清はそういう危惧を払拭するように手堅く真摯にまとめている。西田敏行がいつものような熱演タイプの演技であるとか、主人公の家族の描写に時間を割いている割にはあまり効果を挙げていないとか、さまざまな瑕疵はあるにせよ、一本筋の通った映画に仕上がっており、デビュー作としては合格点と言える。佐々部清は崔洋一、和泉聖治、杉田成道、降旗康男らに助監督としてついたそうだが、降旗の映画の感触に近いものがある。

 主人公の加賀谷静男(西田敏行)は日本ビクターの開発技師。あと数年で定年を迎えるところで、横浜工場のビデオ事業部長の辞令が下る。高卒の加賀谷が事業部長となるのは異例だったが、実は業務用ビデオを生産する横浜工場はビクターのお荷物的存在。体のいい左遷だった。不況にあえぐビクターは全部門に2年間で20%の人員削減を命じる。横浜工場の人員は241人。50人近い人員のリストラを課せられたことになる。加賀谷は1人の首も切りたくなかった。営業に力を入れ、家庭用VTRの開発で人員を守ろうとする。

 しかし、そんな努力も虚しく、SONYが一足先にベータマックスを発表してしまう。ベータマックスの録画時間は1時間。加賀谷たちは残業を重ねて、2時間の録画が可能な試作機のVHS(Video Home System)を完成させた。通産省はVTRの規格が乱立することを恐れ、家電業界に統一を促す。業界はベータマックスの導入に傾く。ビクターもベータに傾くが、ここでビクターがベータを選べば、工場のスタッフの努力が水の泡になる。加賀谷は世界規格を目指してVHSの技術を公開。松下電器をVHS陣営に引き入れるため、松下幸之助(仲代達矢)に直訴し、VHSの優秀さを訴える。

 リストラされるサラリーマンの悲哀を感じさるを得ず、目頭を熱くさせる描写がところどころにある。部下を救うために必死の努力を重ねる西田敏行の姿もいいが、それを補佐する次長の渡辺謙や下請け工場の社長を演じる井川比佐志、加賀谷たちの努力をくんでVHSの発売を決めるビクター社長夏八木勲らが好演している。

 こういう普通の感動作が日本映画にはもっと必要だろう。いや感動作でなくとも、奇をてらうことなく普通のしっかりした映画を作れば、観客はもっと映画館に足を向ける。

2002/06/08(土)「KT」

 金大中拉致事件を描くポリティカル・サスペンス。日韓の工作員が暗躍する、こういう闇の部分を描く映画が成立すること自体、日本映画では珍しい。未だに真相が分からない金大中事件は貴重な題材なのだ。

 で、十分面白いかというと、面白いことは面白いがメリハリを欠いたな、というのが率直な感想。韓国大使館の一等書記官でKCIAの命令に従って拉致を決行する金車雲(キム・ガプス)が一直線なキャラクターであるのに対して、日本側のキャラクターはどこかねじれており、拉致に協力する自衛隊員・富田満州男(佐藤浩市)には分からない部分が残る。三島由紀夫に共感し、反共意識を持つ人間というキャラは分かるのだが、それが拉致に協力していく考え方の変化が十分には描かれていない。佐藤浩市の演技そのものは良いのだが、主役がこういうあいまいな状態では困る(荒井晴彦の脚本ではこれが書き込まれていたようだ)。

 富田と恋に落ちる韓国人女性・李政美(ヤン・ウニョン)との関係も、ラストへの重要なエピソードになるわけだからもっと描きこむべきだったように思う。大衆紙の記者・原田芳雄は特攻隊と共産主義のどちらにも愛想を尽かし、右でも左でもない人物だが、やはり事件の中核には関わりようがない。韓国語を話せない在日韓国人・筒井道隆の役柄は最後に泣いて終わるだけではもったいない気がする。

 キム・ガプスの強面の演技と悲劇的なキャラクターは強い印象を残す。興行上の問題は別にして、最初の意図通り、こちらを主演に据えた方が映画としてはまとめやすくなったのではないか。

2002/06/08(土)「模倣犯」

 原作は未読。よく分からない部分が二つほど(結末の赤ん坊とか。でもこれは原作にはないようだ)あったので、本棚に積ん読状態だった原作を読み始めた(この映画、原作の販売促進効果があるのではないか)。で、読んでいない時点での感想をとりあえず書いておくと、あまり面白くはないが、まったくダメではないというところか。

 映画が始まって、豆腐屋の孫娘が殺され、雑誌記者のダンナが殺され、その他何人かの女が殺されるまでの描写は非常に雑である。いったい何人殺されたのかも分からず、本来ならじっくり描くべき豆腐屋のじいさん(山崎努)の無念の思いもあっさり流れている。感情移入しようがないような描写に終始して、とりあえず原作の設定を話し終えましたという感じ。

 ところが、ピース(中居正広)が出てきて、グッと調子が変わる。中居正広が好演しているのである。それまでとは違う映画になり、描写も丁寧になる。頭はよいが、どこかねじれた方向に行ってしまったピースと浩美(津田寛治)の関係はなかなかいいし、それまでの話を別の視点で語り直すのも面白い。

 この部分はなんとなく「アメリカン・サイコ」を思わせる話なのだが、残念なことに「アメリカン・サイコ」同様、犯人が殺人を続ける理由にあまり説得力がない。森田芳光監督としてはシリアル・キラーを描くことよりも犯人と山崎努の対決に話を絞っていくのが狙いだったようだ。しかし、犯人の動機や背景を十分に描いてくれないと、こういう話では面白くないのだ。中居VS山崎の構図は道徳的な結論に至り、意外性はない。

2002/04/21(日)「クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶアッパレ!戦国大合戦」

 しんのすけ一家が戦国時代(天正2年=1574年)にタイムスリップする。そこには前夜、なぜか夢で見た美しい女そっくりの廉姫(れんひめ)がいた。春日城に住む廉姫は幼なじみで家臣の又兵衛に恋心を抱いており、又兵衛の方も同じ思いでいるが、身分差の厳格な時代、姫と家臣ではお互いに本心を打ち明けようがない。家の裏庭の穴からタイムスリップしたしんのすけは又兵衛の家に世話になり、いつものように騒動を巻き起こしていく。廉姫は大蔵井家に政略結婚させられるはずだったが、しんのすけから未来の話を聞いた殿様が心変わりし、政略結婚を断る。大蔵井は激怒し、いい口実とばかりに大軍を率いて、春日城に攻めてくる。

 この合戦シーンはもちろん子ども向けであるから残虐シーンはないが、合戦の在り方がリアルに描かれており、一つの見どころになっている。

 原恵一監督は「今回あえて野原一家を中心に物語を展開させないで、時代劇の面白さを追求しようと決めて、時代劇でしかできない、現代劇でやったら照れちゃうような真っ直ぐな気持ちとか、潔さ、覚悟みたいなものを登場人物たちに入れ込んだんです」と語っている。又兵衛や廉姫は確かに良いキャラクターだし、2人の許されない恋の描写も悪くはないが、それならば、「クレヨンしんちゃん」の枠組みでやる必要はなかったのではないか、という根本的問題とぶつかってしまう。「オトナ帝国の逆襲」ほどの出来にならなかったのは、一家がメインの話ではないからと思う。

 ラスト近くのエピソードは下手をすると、「ペイ・フォワード」のように観客を泣かせるためだけの、あざといシーンになるはずだったが、しんのすけのタイムスリップの意味と絡めて説明されるので、まあ許容範囲だろう。SF的設定で欲しいのは、タイムスリップの理屈で、裏庭で掘った穴からできたというだけではちょっと物足りない。何かもう一つ超自然的な設定(簡単なものでいい)が欲しかった。

 「オトナ帝国」によって、大人も今回の作品には期待していた。原監督はそれに応えようとして、本格的な時代劇と悲恋を絡めたのかもしれない。今回も水準は高いが、こういう話になってくると、作画の雰囲気とあまり合わなくなってしまう。ストーリーはまるでベルバラ調ですからね。来年は家族中心の話に返って、捲土重来を果たして欲しいと思う。