2003/09/01(月)ブロンソン死去
チャールズ・ブロンソン、8月30日、肺炎のためロサンゼルスの病院で死去。81歳だったという。映画の遺作を調べてみると、94年のDeath Wish V: The Face of Deathらしい。これは日本ではビデオのみで「DEATH WISH/キング・オブ・リベンジ」というタイトルになっている。「狼よさらば」シリーズはなんと5作も続いたのか。
ブロンソンは「さらば友よ」(1968年)のころから、おじさんという感じが拭えなかった(公開当時47歳だから当たり前だ)。苦労人でスターになるのが遅かったが、70年代にはたくさんのアクション映画に出ていた。「軍用列車」(1975年)あたりで100万ドルスターになったのではなかったか。個人的には最初に劇場で見たブロンソンの映画はジャン=マイケル・ビンセント共演の「メカニック」(1972年)だった。
奥さんのジル・アイアランド(この人はデヴィッド・マッカラムの奥さんでもあったのだった)が亡くなったのが1990年。その後、再婚したそうだが、アイアランドが生きていたころのような活躍はなかった。合掌。
2002/03/30(土)ビリー・ワイルダー監督死去
27日、肺炎のためロサンゼルスの自宅で死去。享年95歳という。遺作は「新・おかしな二人 バディ・バディ」(81年)。これを僕は見ていない。その前の「悲愁」(79年)がリアルタイムでワイルダーの映画を劇場で見た最初で最後だった。ワイルダーは都会派コメディとシリアスドラマの両面で優れた映画を撮った。「失われた週末」「サンセット大通り」がシリアスドラマの代表なら、「麗しのサブリナ」や「7年目の浮気」「お熱いのがお好き」などがコメディの代表だろう。
ワイルダーはオーストリア出身のユダヤ人。ナチスの台頭を嫌い、1934年、28歳で渡米した。1988年、アカデミー賞のアーヴィング・タルバーグ記念賞を受賞した際のスピーチでこの時のエピソードを語り、感動的だった。
ワイルダーの入管書類には不備があり、職員に入国目的を尋ねられる。ここで規則通りに送り返されたら、収容所行きが待っている。それは死を意味する。事実、ワイルダーの母親ら家族は収容所で亡くなった。「脚本を書くために来た」。そう言ったワイルダーにその職員は「頑張って、いいのを書け」と言って、入国を許可してくれた。授賞式でワイルダーは「私はその職員のためにいい脚本を書こうと、これまで必死にこの仕事を続けてきた」と感謝の言葉を贈ったのである。ワイルダーは「シンドラーのリスト」の映画化を切望していたという。
「バニラ・スカイ」のキャメロン・クロウ監督はビリー・ワイルダーに長いインタビュー(「ワイルダーならどうする?」)をし、昨年のアカデミー賞脚本賞(「あの頃ペニー・レインと」)を受賞した際にもワイルダーに敬意を表するスピーチをした。ワイルダーに影響を受けた監督や脚本家は多い。20年以上、映画を撮っていなかったとはいえ、死去のニュースはやはり悲しい。くだらないコメディしか撮れない最近のアメリカの映画人はワイルダーから学ぶべきことが多いと思う。
以下は2018年11月8日に追記。スピーチの全文翻訳はヲノサトルさんという人のビリー・ワイルダーのスピーチにあった。YouTubeにはスピーチの動画がある。
2002/02/27(水)日本映画は二度死ぬ
「修羅雪姫」のパンフレット(大判で1000円)にプロデューサーの一瀬隆重が書いている言葉。ちょっと引用しておく。
日本映画はもっと金をかけられるようにならなきゃいけない。現場は貧しくて思い通りの画が撮れない。スタッフも貧しくて、良い人材が集まらない。「予算の割りには頑張ってた」「やりたいことは伝わった」って、お客さんに同情して許してもらってる。日本映
画は今のままじゃダメだ。だから、今日の傑作やヒット作じゃなく、未来の大傑作や大ヒット作を生み出すために、失敗を恐れず実験しなきゃいけない。日本映画は一度、死んだ。甦ることが出来るか否かは、十年後に向けた試行錯誤を今、出来るかどうかにかかっている。そうしないと、日本映画は二度死ぬ。
一度死んだのはいつのことか。恐らく大映が倒産し、日活がロマンポルノの製作を始めた70年代だろう。「修羅雪姫」の1億3500万円という製作費は、物価の高騰を考えれば、20年ほど前までATGが作っていた映画の製作費2000万円とあまり変わらないのではないか。
こうした現状はやはり間違っている。SFに理解のある一瀬のようなプロデューサーには頑張って欲しいと思う。
2000/04/26(水)「バイ・センテニアルマン」
邦題「アンドリューNDR114」という訳の分からないタイトルが付いたこの映画の原題、どこかで聞いたと思ったら、アイザック・アシモフ原作のロボットシリーズの一編だった。SFマガジンに分載されたのをリアルタイムで読んでいる。ざっと20年前だ。大学の図書館の地下にSFマガジンのバックナンバーが10年分あり、それを読むのが学生時代の暇つぶしの一つだった。ここにはキネマ旬報のバックナンバーもあり、「日本映画縦断」(竹中労が書いたルポルタージュ。もう忘れられているかもしれないが、今の映画ジャーナリズムとは比べものにならない傑作)もここで読んだのだった。
僕は当時、アシモフに特別な思い入れはなかった。クラークが好きだったし、アシモフのタッチは好みに合わなかった。「はだかの太陽」を読むまでは…。アシモフのロボットシリーズは「鋼鉄都市」「はだかの太陽」「夜明けのロボット」と続く。これが後に「銀河帝国の興亡」のファウンデーションシリーズと融合する。ファウンデーションの続編は昨年だったか、別の著者(グレゴリー・ベンフォード?)が引き継いで書いたのが出版された。ロボットシリーズはSFミステリとも言われ、設定はSFでもストーリー展開はミステリだった。アシモフが「黒後家蜘蛛の会」シリーズなどでミステリにも造詣が深いのは有名な話だが、僕はそんなミステリに色目を使うアシモフをSF作家の風上にも置けないと思ったのだった。
しかし、「はだかの太陽」でその認識は一変する。この小説のラスト1行にこめられた思いはアシモフが紛れもなくSFの人であることを強烈に印象づけた。なぜ人は宇宙を目指すのか、その回答がここにある。これに感動した僕はその後、アシモフの著書を読みあさることになった。クラークよりもアシモフの著書の方をたくさん読んでいるのはこのためだ。なにしろハヤカワ文庫の科学エッセイシリーズまで読みましたから。
「バイ・センテニアルマン」(邦題は「2世紀の男」か「200年生きた男」か、そんな感じだった)はアシモフの著書の中で際だって傑作ではないが、なぜロボットが人間を目指すのか、「はだかの太陽」と同じ意味合いからアシモフの考え方がよく分かる中編である。