2011/02/11(金)「GANTZ」

足を切断し、肉を切り裂き、頭を握りつぶし踏みつぶし、体が破裂する。ニノとマツケンを目当てに見に来た若い女性客を跳ね返すように、佐藤信介監督は序盤のネギ星人との戦いに血みどろの場面を繰り広げる。この次のいかにもロボットのような田中星人との戦いも重厚な迫力とスピード感たっぷり。VFXは普通の出来なのだが、この映画、描写に力がこもってる。田中星人というふざけたネーミングと外見にもかかわらず、この面白さは大したものだ。

 GANTZとはいったい何なのか、星人たちはなぜ人間を襲うのかなどまったく説明されないけれど、映画には主人公が自分の力と使命を自覚していく(ヒーローとして覚醒していく)という1本の筋が通っており、十分に面白かった。就職が決まらない大学生が自分の居場所を見つける話、と比喩的に受け取ってもかまわないだろう。佐藤監督作品としては釈由美子の悲痛な叫びが胸に残ったあの傑作「修羅雪姫」(2001年)につながる作品と言える。序盤のテンポをもう少し速くすれば、胸を張って傑作と太鼓判を押していたところだ。4月公開のパート2にも大いに期待する。

 ここまで書いたところで30巻まで出ている原作の3巻までを読んだ。ネギ星人の場面は微妙に細部が異なるが、ほぼ原作を踏襲している。玄野計(くろのけい=二宮和也)と加藤勝(松山ケンイチ)は地下鉄のホームから落ちた酔っ払いを助けようとして電車にはねられる。気づくと、2人はマンションの一室にいた。そこにはガンツと呼ばれる黒い球体と同じように送り込まれたらしい数人の姿があった。部屋にいるのはいずれも一度死んだ人間だった。GANTZはネギ星人を倒すように指令を出し、玄野たちはネギ星人のいる街に送り込まれる。「ネギあげます」と震える子供のネギ星人を銃(撃った後、間をおいて相手を爆発させる)で惨殺したところで親の凶暴なネギ星人(フランケンシュタインみたいな外見だ)が現れるのがいかにもな展開。ここで送り込まれた数人が殺されるスプラッターなシーンとなる。辛くもネギ星人を倒した玄野たちは気づくと、自分の部屋にいた。しかし、その夜、またしてもマンションの一室に召還されることになる。玄野たちは否応なく、戦いを強いられていく。

 小学生のころ強かった玄野が加藤を助けたという設定からすれば、二宮和也と松山ケンイチの役柄は体格からいって逆の方が良いような気がするが、原作の2人も映画と同じ体格だ。玄野たちは星人と戦うために黒いGANTZスーツを着る。このスーツ、強化防護服(パワードスーツ)の一種で、身体能力を大幅にパワーアップし、攻撃から身を守る。いわば人を超人にするスーツだ。玄野がスーツの威力をためすため階段を高く高くジャンプするシーンは自分の進む道を自覚する良いシーンだと思う。ちなみにこのスーツを着た岸本恵(夏菜)の姿は綾波レイを思わせた。夏菜は昨年の「君に届け」に続いて魅力を発散している。川井憲次の音楽も相変わらず好調である。

 4月23日に公開されるパート2は「Perfect Answer」というサブタイトルが付いている。個人的には謎に満ちた話の真相よりも主人公がヒーローとしてどう成長していくのかが気になる。くれぐれも「マトリックス」のような路線変更はなしにしてもらいたいものだ。

2010/12/31(金)「トロン:レガシー」

 1982年の前作「トロン」は延々と普通の描写が続き、CGが始まったかと思ったらすぐに終わってしまった印象がある(パンフレットによると、CGのシーンは15分程度だったらしい)。CG自体は絵が変わっていてそれなりに面白く見たが、これでCG映画を標榜するのは羊頭狗肉に近いな、と思った。今回はCGだけはたっぷりある。前作にも登場したディスク・ファイトやライト・サイクル、監視用飛行マシンのレコグナイザーなどのシーンは随分パワーアップされ、スピード感を増して見応えがある。前作の主人公ジェフ・ブリッジスの若い姿もCGで表現されている。撮影は64日で終わったのに対し、VFXには68週もかかったそうだ。前作の監督スティーブン・リズバーガーは今回、製作に回っているが、CGの技術がまだまだだった28年前の捲土重来を果たす意図もあったのに違いない。サイバースペースの造型やスタイリッシュな衣装、重厚な音楽も良い。3Dにする必要はまったく感じないものの、ビジュアル的にはまあ、文句はない。

 ところが、前作同様にストーリーがいまいち面白くない。プログラムを擬人化するのは別にかまわないのだけれど、サイバースペースを牛耳る悪を倒すという話に新鮮さがないのだ。SFというよりはファンタジーの印象が強いのはSF的なアイデアがありふれているからだ(脚本は「LOST」のエドワード・キツイスとアダム・ホロヴィッツ)。11年前の「マトリックス」と比べてみれば、そのプロットの単純さはいかんともしがたい。CGの技術だけでなく、物語の技術に力を注いで欲しいものだ。

1989年、エンコム社のCEOとなったケヴィン・フリン(ジェフ・ブリッジス)が失踪する。20年後、息子のサム(ギャレット・ヘドランド)は父親の共同経営者だったアラン・ブラッドリー(ブルース・ボックスレイトナー)から連絡を受け、ケヴィンが所有していた古びたゲームセンターに足を踏み入れる。コンピューターを操作していたサムを閃光が包み、気がつくと、サムはコンピューターの中の世界にいた。そこはクルーという謎の人物が支配する世界。クルーは外の世界への進出を目論んでいた。父親と再会したサムはクルーの野望を砕くため、父親とISO(アイソー)と呼ばれる自由意思を備えたプログラムのクオラ(オリヴィア・ワイルド)とともに奔走する。 

ギャレット・ヘドランドはこの映画で若手の有望株に躍り出たらしい。相手役のオリヴィア・ワイルドも良い。映画がなんとか持ったのはブリッジスを含めた役者の魅力と映像のおかげだろう。監督はこれがデビュー作でCMディレクター出身のジョセフ・コジンスキー。CM出身だから映像の見せ方はうまいが、物語を語る技術の方はリズバーガーと同レベルのようだ。

2010/12/22(水)「白いリボン」

 キネ旬1月上旬号に翻訳家で評論家の芝山幹郎が書いているミヒャエル・ハネケ「白いリボン」の映画評が面白かった。この映画、今月初めの東京出張時に見たが、どう感想を書けば良いのか分からなかった。第一次大戦直前のドイツの寒村を舞台にした映画で、昨年のカンヌ映画祭パルムドール。この村では奇怪な事件がいくつか起きる。その犯人捜しの興味で見ていっても、すべての事件の犯人が分かるわけではない。映画の冒頭のナレーションが言う通り、戦争前の不穏な空気を村の事件に重ね合わせている、という解釈が一般的だ。僕もその程度の感想しか抱けなかった。

 芝山評が優れているのは以下のような部分。

 まあ、そういう解釈も不可能ではない。抑圧や不幸が凶事の種であることは周知の事実だし、窮境に置かれた人間が甘い餌に釣られやすいことも、また歪みようがないからだ。だが、『白いリボン』は教育映画ではない。教訓や寓意を読み取って能事了れりとする映画でもない。ハネケはむしろ、抑圧や不幸や窮境の形象化に力をそそぐ。こわばった人々を表に出し、快楽と不幸のよじれた関係をあぶりだそうとする。その力技はこの映画の磁力になっている。

 なぜ事件が起こったのか、誰が犯人なのかではなく、映画の主眼はそうした状況そのものにある。そこにどんな寓意を受け取っても、それは見る側の勝手という姿勢が感じられるのだ。描写そのものは明快で、白黒映画ながら映像も美しい。その先はどうなの、という感情がむくむくとわき上がってくるが、ハネケの興味はそんなところにはないのだ。医師が愛人の看護師に厳しい言葉を浴びせる場面とか、人間の醜さを描き出してすこぶる面白いのだけれど、なかなかやっかいな映画だ。

 芝山幹郎はハネケの映画が苦手だったと言い、この映画を認めながらも、最後にこう書く。「私はこの映画に感心したが、彼の体質と親しく付き合う方法をまだ発見していない」。この指摘が一般的な観客の正直な感想になるのではないか。

2010/12/16(木)「SR サイタマノラッパー」

 amazonのレビューでは評判が良いが、僕は普通の青春映画と思った。出てくる俳優にイケメンが1人もいないのが逆にリアルか。等身大の映画と言われるのはそういう部分があるからだろう。埼玉県でラップに燃えるニートやフリーターを描く。冴えない青春を描いた作品で、ラップで成功するのかと思えば、そんなにありきたりではない。主人公が「俺たちの第1ステージが終わったところ。これからセカンドステージさ」とバイト先の食堂で歌うクライマックスがしみじみしていて良い。

 監督の入江悠はこれが3作目。長回しが多く、これは元は演劇かと錯覚するほど。もっとカットを割った方がいいと思う。良かったのはAV出演経験がある店員を演じた実際の元AV女優みひろ。さっそうとしているのがとてもクールでカッコ良い。一般映画で十分通用する女優であることを認識した。ラスト近く、大きなスーツケースを抱えて駅の階段を上るシーンは「結婚しない女」のジル・クレイバーグがラストで大きな絵を抱えてフラフラ歩くシーンを思わせた。前途多難であることを匂わせつつ、それに負けないキャラクターであることを示したシーンだ。

2010/12/04(土)「キャピタリズム マネーは踊る」

WOWOWで昨日放映したのを録画して見た。とても面白かった。昨年末に公開された日本ではあまり評価が高くなかったような気がするが、IMDBの採点は7.4と高い。マイケル・ムーアは1%の富裕層が90%の富を握るアメリカ資本主義の現状を痛烈に批判し、非富裕層に立ち上がれと呼びかけている。かといってムーアが社会主義を信奉しているわけではない。もっとシンプルに富の再分配の仕組みを求めているのだ。それはキリスト教の精神に基づくものなのだろう。

サブプライムローンによって銀行から家を取り上げられる人の場面で始まるこの映画、ブッシュ政権までのアメリカ社会のおかしさを懇切丁寧に怒りをこめて説明し、立ち上がった労働者たちのとても幸福で感動的なクライマックスを迎える。同時にユーモアが随所にあり、ウォール街の企業のビルの周りに「犯罪発生現場」の黄色いテープを張り巡らすシーンなどはムーアらしい。

ドキュメンタリーというよりは自分の主義主張を、事実をもって語らしめている映画。ドキュメンタリーは公平じゃないと、というトンチンカンな批判はこの映画にはまったく通用しない。原題は「Capitalism: A Love Story」。富裕層の資本主義への愛を表すと同時に、ムーアのアメリカへの愛の物語でもあるのだろう。アメリカを愛するからこそ、ムーアはアメリカに変わってほしいと願っている。