2009/07/08(水)「ディア・ドクター」
小説版のアナザー・ストーリー「きのうの神さま」を読んでいたので、これは僻地医療に関する映画だろうという先入観があった。その観点から見れば、困ったことに主人公の設定がマイナスにしか作用しない。西川美和は「赤ひげ」風になるのを避けてこういう設定にしたのだろうが、これでは医療の問題は深く言及しようがないのだ。なぜこんな設定にしたのか。キネ旬7月下旬号の桂千穂の批評を読んで、その疑問は氷解した。
西川美和は前作「ゆれる」で高く評価された。「すると、誰もが映画監督としての技術や識見の持ち主と信じて疑わなくなった」そうだ。それに対する疑問の提示がこの映画なのだ。「私自身がそうであるように、何かに“なりすまして”生きている感覚は誰しもあるだろう。それで世の中が辛うじて成り立っている部分もあるはずだ。贋物という言葉が孕むそんな曖昧さを物語として面白く見せられないかなというのが企画の出発点になった」。そう言われれば、よく分かる。しかし、それならば、僻地医療を舞台にする意味があるのか。せっかく僻地医療の現状を取材したのにそういう話にしてしまっては意味が薄いように思う。
西川美和に社会派を期待する方が間違いなのかもしれない。その問題は小説に結実させたのだから、映画はこれで良いのかもしれない。気胸患者を治療する場面の緊迫感をはじめ映画の描写には文句の付けようがないし、笑福亭鶴瓶、余貴美子らの演技にも納得させられた。井川遥も良かった。しかし、やっぱり、せっかく取材したのにもったいないという思いが残る。主人公の若い頃を描いてまったく隙がない小説版「ディア・ドクター」の域には到底達していないのは残念。本物偽物の話なら小説版の描写を取り入れた方が奥行きは出たと思う。看護師役の余貴美子にしても小説版の背景が描かれていれば、なぜ離婚したのか、なぜあんなに有能なのかの説得力も増しただろう。
2009/06/06(土)「スター・トレック」(2009年)
ロミュランの宇宙船からバルカン星に伸びるパルス兵器を破壊するため、シャトルから飛び降りるカーク、スールーら3人の場面からバルカン星のブラックホールによる崩壊、惑星デルタ・ヴェガのモンスターとのチェイス、そしてレナード・ニモイの登場へと至る中盤が圧倒的に素晴らしい。たたみかけるような演出とはこういうシークエンスの連続を言うのだ。
それよりも何よりもニモイのシワが刻まれた顔は「スター・トレック」の長い歴史の象徴であり、見ているこちらも感慨を覚えてしまう。僕はテレビシリーズ「宇宙大作戦」は熱心に見ていたが、劇場版はそんなに追いかけていず、ネクスト・ジェネレーションの話はほとんど知らないし、興味もない。それでもニモイを登場させたことによって、この映画がシリーズを再起動させる成功につながったことは疑いようがないと思う。原典への敬意を忘れない作りが好ましい。テレビシリーズで毎回流れたナレーションと音楽が再現されたラストはトレッキーたちを狂喜させるに違いない。「スター・ウォーズ エピソード3 シスの復讐」と同様に第1作につながる作りなのである。
急いで付け加えておくと、この映画は「スター・トレック」の始まりの物語であり、これまでのシリーズを見ていなくても十分に楽しめる。単なる前日談に終わっていないところがまた素晴らしく、新たなスタッフ、キャストによる元のシリーズとは違う世界(パラレルワールド)のスター・トレックになっているのだ。だから「スター・ウォーズ」のように円環は閉じてはいない。
劇場版第1作の「スタートレック」(1979年、Star Trek : The Motion Picture)は本格SF風のアイデアが基本にあり、コアなSFファンをも楽しませた。しかし、ロバート・ワイズ監督によるこの超大作はキャストがテレビ版と同じであっても本来スペースオペラであるシリーズとは微妙に味わいが異なっていた。第2作以降は本来のスケールに戻ったが、面白さもそこそこという感じだった。キャストの高齢化も一般受けしない原因であったように思う。今回の映画も話のスケールとしては決して大きくはないが、そのスケールの中でめいっぱいのアイデアと巧みな演出が駆使されて、シリーズの中では破格の面白さとなっている。
話は西暦2233年、連邦の宇宙船USSケルヴィンが巨大な宇宙船から攻撃を受ける場面で始まる。死亡した船長に代わってジョージ・カーク(クリス・ヘンズワース)が指揮を務め、乗組員800人を脱出させた後、ジョージは生まれたばかりの息子にジェームズと名前を付けて船と運命をともにする。船長を務めたのはわずか12分間だった。25年後、ジェームズ・タイベリアス・カーク(クリス・パイン)は宇宙船USSエンタープライズに乗り組むことになる。バルカン星域にワープしたエンタープライズはそこで巨大な宇宙船と遭遇する。宇宙船はブラックホールによるタイムスリップで未来から来たもので、ロミュラン人船長のネロ(エリック・バナ)は連邦への復讐を図っていたのだ。
カークがエンタープライズに乗り組んだ後、ドクター・マッコイやスコット、スールーらおなじみの面々が次々に登場してきてファンならうれしくなるだろう。さらに中盤から映画は面白さを加速していく。カークとスポック(ザッカリー・クイント)の確執を軸に笑いを織り交ぜて進行する語り口は見事と言って良い。監督のJ・J・エイブラムスはトレッキーではないそうなので、シリーズを知らない一般観客へのサービスをてんこ盛りにしているのだ。エイブラムス、「M:i:III」でもスピーディーな演出に冴えを見せていたが、今回もその演出に誤りはなかった。クリス・パインも若くて元気の良いカークを好演しており、映画の出来が良かったこともあって、既に第2作の製作が決まっているそうだ。唯一、気になったのは死者をむち打つようなロミュランへの仕打ちだが、目をつぶっておく。
スポックの母親役の女優が美人だなと思ったら、久しぶりのウィノナ・ライダーだった。残念なことにライダーの写真はパンフレットにはなかった。
2008/12/21(日)「ジャンパー」
テレポーテーション能力を持つジャンパーたちとそれを抹殺しようとするパラディンという組織との戦いを描く。評判メタメタの作品だったが、DVDで見る分には腹は立たない。1時間28分という短さで、アクションだけでつないだ感じ。話に奥行きがないのが致命的だ。
パラディンとジャンパーたちの戦いは何千年も続いているというよくある設定(「ナイト・ウォッチ」とか「アンダーワールド」とか)。しかし、それをうまく生かしていない。ジャンパーたちが銀行から金を盗むので、パラディンの方が善玉に見える。主人公が盗む金を悪の組織のものにするとかの工夫があれば、もっとましなものになっていたかもしれない。
スティーブン・グールドの原作はジュブナイルとのこと。これを「バットマン・ビギンズ」のデヴィッド・S・ゴイヤーらが脚本化、「ボーン・アイデンティティー」のダグ・リーマンが監督した。原作とは随分変わっているらしいが、アクションしか知らないリーマンの才能のなさがこの程度の出来に終わった原因か。テレポートする際のVFXは良いのに惜しい。
主演はヘイデン・クリステンセン。「リトル・ダンサー」のジェイミー・ベルもジャンパー役で出ている。このほか、主人公の母親役でダイアン・レイン、パラディンの凄腕の殺し屋にサミュエル・L・ジャクソン。
2008/12/20(土)「恐怖の足跡 ビギニング」
ミステリマガジンで「怪作中の怪作」と紹介されてあって、興味を持ったのでamazonで買った。発売元は低価格DVDを大量に出しているWHDジャパン。1955年の作品でナレーションはあるが、セリフは一切ない。サイレント映画を見ているような気分になる。
55分の短編なのですぐに見終わる。なんというか、なんだこれ、という感じで始まって、それなりに意味が分かるとまあまあと思えてくるが、結局、別に見なくてもいいような作品と言うほかない。狂った女の一夜の精神世界を描いた映画で、デヴィッド・リンチのテイストを100倍ぐらい薄めた感じ。DVDに表示された原題は「Daughter of Horror」。IMDBには「Dementia」(痴呆)で登録されている。評価は6.7だが、294人しか投票していない。
当時としては前衛的な作品だったのかもしれない。監督のジョン・パーカーはこれ1作しか監督していないとのこと。まあ怪作には違いないな。
2008/11/23(日)「言えない秘密」
アイデアがあってもそれを作品にできる筆力がなければダメというのは小説の場合によく言われることだが、映画でもそれは同じこと。この作品にもそれがすっぽり当てはまる。SF的なアイデアを生かせていない。前半の青春ラブストーリーの部分が下手すぎるので、クライマックスに秘密が明らかになっても盛り上がらないのだ。これをSFとは言いたくない気分。ファンタジーなら許せるか。
映画生活のレビューでは全員が星4つ以上で87点の高評価。それなら期待してしまうが、期待値を大きく下回る出来だった。Yahooのレビューを見ると、毀誉褒貶が激しく、こちらの方がバランス的には納得できた。
淡江音楽学校に転校してきたシャンルン(ジェイ・チョウ)は、旧校舎の古いピアノで美しい旋律を奏でるシャオユー(グイ・ルンメイ)と出会う。2人は学校の帰り道に自転車で2人乗りをしながらお互いのことを語り合い、きずなを深めていく。しかしシャオユーは持病のぜんそくのせいで学校も休みがちになり……。というのが前半のストーリー。
このだらだらした前半を見ながら、秘密の予想はつき、こういうことなのだろうと思ったら、それを否定するような描写がある。あれ、そうではなかったのかと思ったら、やっぱりそういう話だったという、ふざけるのもいいかげんにしろ的展開なのである。秘密を伏せるための都合の良い描写が目に付きすぎる。要するに物語を語る技術が足りないのだ。もう決定的に足りない。これがハリウッド映画ならば、同じアイデアであっても、もう少しましなものになっただろう。
アイデアも目新しくはない。過去に何本も類似作品がある。しかもアイデア自体に破綻があって、なんでそういうことになるわけと思ってしまう。論理性を欠くのでSFと言いたくないのだ。となると、映画で評価できるのはヒロインのグイ・ルンメイだけということになるが、もう少し、魅力を引き出してほしいところ。次のルンメイ作品に期待したい。
監督・主演のジェイ・チョウは台湾のカリスマ・ミュージシャンでこれが初監督作品。第44回金馬奨で最優秀台湾映画、主題歌、視覚効果賞を受賞したそうだ。台湾映画のレベルを示すというか、賞自体の本質を示す結果としか言いようがない。この程度の出来の映画に賞をやっては本人のためにもよくないだろう。