2006/06/08(木)「情愛」
R18指定の韓国映画。確かにベッドシーンはそれなりだが、R18じゃなくてもいいような気がする。この映画、何がいいといってオム・ジョンファが良すぎる。“韓国のマドンナ”としてかなり有名らしいが、韓流にはうといので知らなかった。
オム・ジョンファは歌手で女優。今年35歳。「情愛」は2002年の映画だから30歳か31歳のころだろう。この映画、公式ファンサイトによると、原題は「結婚は、狂気の沙汰」というらしい。プレイボーイの男(カム・ウソン)がブラインドデートで美人の女(オム・ジョンファ)と出会う。2人は意気投合するが、男は結婚は考えていない。医師と結婚した女はそれでも男の元へ週末通ってくるようになる。
映画としてはまずまずの出来。カム・ウソンがプレイボーイに見えないところが誤算で、ここはもっとカッコイイ男優じゃないと説得力を欠く。しかし、オム・ジョンファに関して言えば、その魅力を堪能できる。清楚でセクシーというのがいいですね。
2006/06/06(火)「あおげば尊し」
重松清の原作を市川準監督が映画化。末期ガンの父親を看取る家族と、死体に興味を持つ少年の姿を描く。主人公は小学校の教師。死につつある父親も教師だった。死体に、というよりは死に興味を持つ少年に対して、主人公は死の床にある自分の父親の姿を見せる。父親もそれを受け入れ、少年に対して最後の授業をすることになる。
市川準の他の作品と同じように淡々としたタッチの映画。家庭内で展開される物語なので、見ていて僕はマイク・リーの映画を思い出した。マイク・リーが素人の役者を使うことが多いように、この映画も演技的には未知数のテリー伊藤が初めての主役を務めている。テリー伊藤、静かな演技が意外にうまい。マイク・リーの映画は終盤に劇的で激しい場面を用意することが多いが、この映画はラスト近くまで淡々と進む。もちろん、淡々とした中にキャラクターの造型はしっかり描き込まれていて、だから、ラスト、父親の葬儀の場面で教え子たちが歌う「仰げば尊し」の場面が効果的になる。抑え込まれていた感情が一気に爆発するような効果がここにはある。ドキュメンタリーのような描き方をしていた映画がここだけはっきりとフィクションになり、観客の感情を解放する役割を果たしているのである。それまでのタッチとは著しく異なるので、賛否あるだろうが、ここで泣いたという人も多く、とりあえず大衆性は得ているようだ。テリー伊藤も薬師丸ひろ子も加藤武、麻生美代子もリアルに徹し、ドラマ性を廃した好演をしている。
主人公・光一(テリー伊藤)の父親(加藤武)は末期ガンで余命3カ月と宣告される。「いい思い出を作ってあげてください」との医師の言葉で家族は父親を自宅に連れて帰り、在宅で死を迎えさせようとする。それと同時に描かれるのが光一のクラスの田上康弘(伊藤大翔=名前はひろと、と読む)。康弘はパソコンの授業中に死体のサイトを見ていた。そのこともあって光一はクラスの生徒に父親の姿を見せるが、興味を示したのは康弘だけだった。康宏は死んだ父親の葬儀を覚えていず、そのために死に興味を引き立てられているようだった。
在宅での死を描いているので「病院で死ぬということ」の対になる作品かと思うが、基本的には教師の父親と息子を描いた作品。いや、あるべき教師の姿を描いた作品と言うべきか。在宅での死の詳細は意外に描かれていない。それがテーマならば、もっと描写を多くしていたはずだ。「あおげば尊し」というタイトルからして、これが教師の映画であることは明白だろう。悪くない映画と思ったけれど、葬儀の場面をもっと効果的にする演出はあっただろうという思いもある。父親と教え子たちの間に何らかの伏線があっても良かったと思うのだ。唐突に始まる「仰げば尊し」の歌だけで父親の教師としての在り方を象徴するのには少し無理があるのではないか。在宅での死か教師の在り方か、どちらかにもっと焦点を絞った方が良かったのではないかと思う。マイク・リーの錐でもみ込むような強さがこの映画には欠けている。
2006/06/02(金)「いちご白書」
別に傑作ではないのだが、60年代の学生運動の雰囲気は伝わってくる(映画の公開は1970年)。ノンポリのボート部の学生サイモン(ブルース・デイヴィソン)が何となく学生運動にかかわる。きれいな女子学生リンダ(キム・ダービー)に惹かれたせいもあるが、そのうちに大学の姿勢に怒りを感じて、本気でかかわるようになる。クライマックス、大学を占拠した学生たちを州兵が催涙ガスをまきながら強制排除するシーンは有名。
監督のスチュアート・ハグマンは「スパイ大作戦」などテレビの作品が多い。ジョニ・ミッチェルが歌う主題歌「サークル・ゲーム」はラジオでよく流れていたので懐かしかった。。
2006/06/01(木)「ナイロビの蜂」
レイチェル・ワイズとレイフ・ファインズがしみじみと良い。ファインズがイギリスに帰り、妻のいない寒々とした自宅で泣き崩れるシーンなどは胸が詰まる。最愛の者を亡くした男の喪失感がよく出ていた。
だが、あのとんでもない傑作「シティ・オブ・ゴッド」のフェルナンド・メイレレス監督作品としては物足りない。「シティ・オブ・ゴッド」は編集とカット割りに驚嘆させられたが、今回は技術的におっと思わせるシーンはなかった。オーソドックスな演出なのである。好みから言えば、主人公には復讐の鬼と化して欲しかったところ。それがそうならないのはジョン・ル・カレ原作だからだろう。
2006/05/28(日)「クラッシュ」
交通事故で始まり交通事故で終わる映画だが、タイトルの「クラッシュ」は人と人との衝突を意味しているようだ。毎日毎日、苛立ちながら暮らしている白人、黒人、ペルシャ人、中国人、メキシコ人たちのエピソードをポール・ハギス監督はロサンゼルスの縮図として描き、わずかな前進と希望を感動的に提示して映画を終える。これがロサンゼルスの映画人に支持されないはずはなく、アカデミー作品賞も納得できる。
ハギスはパンフレットで「この映画のテーマは人種や階級についてではなく、見知らぬ人間への恐怖についてである」と語っている。見知らぬ他人への恐怖が銃犯罪を生む。「ボウリング・フォー・コロンバイン」(2002年)でマイケル・ムーアが示した結論をフィクションとして描いた作品と言えるだろう。人種差別、社会的偏見を含めた相互無理解が悲劇を生んでいく。だから悲劇から一転して幸福感にあふれる透明マントの奇跡のようなエピソードは天使のいない街に天使が舞い降りた瞬間を描いたものとして胸を打つ。厳しさに足りない面はあるし、人間関係が接近しすぎていくところなどいくつかの弱点も見受けられるが、ハギスの脚本は優れたものだと思う。何より希望を捨てていないところがいい。ラスト、ロサンゼルスに降る雪は街の浄化を意味しているのだろうか。
映画には多数の人物が登場する。麻薬中毒の母親を持つ黒人刑事グラハム(ドン・チードル)と同僚の女性刑事リア(ジェニファー・エスポジット)、若い黒人の2人組アンソニー(リュダクリス)とピーター(ラレンツ・テイト)、検事のリック(ブレンダン・フレイザー)とジーン(サンドラ・ロック)夫婦、その家の鍵の修理に来たダニエル(マイケル・ペニャ)、ペルシャ人の雑貨店経営者ファハド(バハース・スーメク)、白人警官ライアン(マット・ディロン)とハンセン(ライアン・フィリップ)、テレビディレクターのキャメロン(テレンス・ハワード)とクリスティン(サンディ・ニュートン)の夫婦。序盤はこうしたキャラクターのエピソードがばらばらに描かれていき、ちょっと飽きたかなと思い始めたところで多重衝突事故が起こる。事故現場に駆けつけたライアンの行動がまず最初のエモーショナルな場面。それまでの描写で黒人差別主義者のように思われたライアンは転倒した車の中から黒人女性を必死に助けようとする。このライアンに限らず、ハギスの脚本は単純に人間を善悪に色分けしていない。だから話が真実味を帯びてくる。
俳優のビリングのトップはサンドラ・ロックだが、このいつも苛立ち、差別的発言を公言する女性のキャラクターは終盤にある出来事で変化するという場面が用意されていながらも、決して主人公ではない。貧困や差別や家庭の事情で登場人物たちにはそれぞれに苦悩があるが、中でもドン・チードルの役柄は他人の理解どころか、母親にさえ理解されていない点で悲痛である。しかも弟を助けようとした行為が少しも報われない。この弟が実は、という部分が終盤に明らかになる。そうした人間関係の接近は先に書いたように弱点ではあるのだけれど、ハギスはそれを承知の上でフィクションを構築したのだろう。伝統的なハリウッド映画というのはそういうものである。観客に現実の厳しさだけを見せるよりはいい気分で映画館を出させる。ハギスはハリウッド映画の範疇にとどまりながら、良心的な作品を作った。志の高さがこの映画の美点なのだと思う。