2008/07/16(水)「仕事ができる人はなぜ筋トレをするのか」

「仕事ができる人はなぜ筋トレをするのか」表紙 昨年11月ごろからスロートレーニングを始めて3カ月ほど続けた。体重が目標値まで落ちたので、その後はあまり熱心にやらなくなった。この本を読んで、またちょっと熱心にやろうかという気になった。著者はトレーナーとしてプロのアスリートや外資系エグゼクティブ、経営者などを指導した経歴を持つ。その体験から仕事のできる人は自分の体の管理もできていることを知ったという。

 「アメリカのエグゼクティブの間では、肥満は問題外、たんに痩せているだけでなく、トレーニングによって体を鍛えるのがもはや常識になっている」のだそうだ。

 体を鍛えるためには徐々に筋肉への負荷を強めていく必要がある。この当たり前のことを僕は実践してなくて、腕立て伏せやレッグレイズの回数を増やしていなかった。骨格筋率がなかなか上がらなかったのは負荷を強めなかったためだろう。体重は8キロ余り落ちて体は軽くなっているのだから、同じ回数やっていては始めた頃よりも負荷は弱まっていることになる。これでは筋肉が付くわけがない。

 タイトルが魅力的なためもあって、この本、売れているらしい。ただし、タイトルとは裏腹に筋トレをする人が必ずしも仕事ができるとはかぎらないのが悩ましいところではある。それにこの本を読んでもトレーニングの仕方は分からない。体を鍛えなくては、という動機付けにはなるだろう。

 筋トレの実践的な方法は石井直方さんの本(「体脂肪が落ちるトレーニング」とか)を読んだ方がいい。石井さんの本はトレーニングの実践法だけでなく、理論的にも優れていて、これまた大いに筋トレのモチベーションを高めてくれる。

2008/07/13(日)「山桜」

 藤沢周平の原作を篠原哲雄監督が映画化。予告編は随分前から流れていて、田中麗奈も篠原哲雄も好きなので少し期待していた。見終わった感想としてはほぼ水準作の映画で、それ以上でも以下でもない。藤沢周平原作の映画であるならば、どうしても山田洋次の3部作と比べられるのは仕方がない。そして比べてしまうと、元も子もなくなる映画である。

 富司純子が出てくる最後の場面で泣かせるし、ゆったりとした映画の展開も真っ当なのだけれど、話が古く感じる。いや、例えばここで描かれる悪徳武士であるとか、苦しめられる農民であるとか、正義感に燃える武士たちは何も悪くない。問題は描写の密度なのだろう。山田洋次作品で徹底的にリアリティーを与えられていた武士の家の古びた様子はここにはなく、なんだか小ぎれいなたたずまいだ。

 話も小ぎれいにまとまっていて、だからリアリティーを欠いてしまっている。こうしたありきたりの描写が話を古く感じさせる要因なのだろう。うまい描写で見せられれば、話の古さなどは感じないものなのである。だいたい、山田作品と同じく庄内のたぶん海坂藩なのにどうして方言(「がんす」)が出てこないのか。標準語でしゃべる登場人物たちが一番リアリティーを欠いている。

 主演の東山紀之と田中麗奈も悪くない。悪くないのだけれど、どちらもミスキャストではないかと思えてくる。田中麗奈は基本的にちゃきちゃきした現代っ子なのだ。それが寡黙さを演じるには少し無理がある。というか、魅力を消している。どうも小さな齟齬が積み重なって映画の出来を悪くしている感じがする。神はやっぱり細部に宿るのである。

2008/07/12(土)「Mayu ココロの星」

 期待値ゼロ、平山あやを見られればいいかという気分で見に行ったら、大変面白かった。乳がん患者の闘病記ではなく、乳がん患者を主人公にした悩む若者たちの「セント・エルモス・ファイヤー」みたいな青春映画に仕上がっている。主人公の友人たちと家族、乳がん患者たちの描写がいいのである。松浦雅子監督の脚本は細部のセリフや描写にいちいち説得力があり、嘘っぽくない。平山あやは予想以上の好演で、もっと映画に出るべきだと思った。見てみないと分からないものですね。

 「私をいくら攻めても無駄だから、私の一番大切なものを標的にしたんだわ」。

 娘のまゆが乳がんと分かった時に主人公の母親(浅田美代子)が言う。母親は12年前に卵巣がんが見つかり、余命わずかと言われながらも、がんと闘ってきた。病人に見られないように精いっぱいの努力をしてきたのだ。そんな母親も娘ががんと知らされれば、絶望的になる。原作にもあるのだろうが、こういう子供を思う親の気持ちが今はぐっと来る。

 あるいは恋人と別れるシーン。「もう会わない方がいいよ、私たち」という主人公は実は恋人からそれを否定してほしいのだが、恋人は「まゆが何カ月もかかって出した結論なんだろう」と言ってそれを受け入れる(最低の男だ)。主人公は恋人が去っていく後ろ姿を見て涙を流す。

 同じ乳がん患者を演じる京野ことみを見るのは個人的には「メッセンジャー」(1999年)以来。「メッセンジャー」でも感心したが、今回は別人かと思えるほどうまくなっている。

 上映後のトークでの松浦監督の話も面白かった。松浦監督はこの映画を引き受けたとき、妊娠後期だったが、それを伏せて引き受け、生まれたばかりの子供と40日間、離れて北海道で映画を撮影した。結婚していることも子供がいることも伏せてきたという(監督の代わりはいくらでもいるからだ)。いったん書き上げた脚本はプロデューサーから絶賛されたが、原作者の大原まゆから「私、こんなにいい子じゃないかも」と指摘され、主人公が泣いたりわめいたりするシーンを追加したそうだ。これが正解。これによって主人公の造型が深くなり、幅が生まれた。主人公はリストカットする友人から頼りにされているが、主人公自身の弱さも描いたところが良い。

 「だいじょうぶ、きっと私はがんばれる」という主題がストレートに伝わる佳作だと思う。

2008/07/11(金)「タロットカード殺人事件」

 「世の中ウソばかりじゃない。ほとんどウソだけど」。

 ウディ・アレンのセリフの9割近くはジョークだった。まあ、死んだ記者が死に神の船の中で特ダネを知り、それを伝えるために現世へ逃げ出し、記者志望の女子大生(スカーレット・ヨハンソン)に伝えるという設定からしてジョークに近い。というか、アレンはその小説を読んでも分かるようにこうしたSFチックな奇想の系譜に属する作品がある。短編小説では名手と言って良い腕前ですからね。映画では「カメレオンマン」とか「ニューヨーク・ストーリー」の中の1本とか「ウディ・アレンの誰でも知りたがっているくせにちょっと聞きにくいSEXのすべてについて教えましょう」とかが思い浮かぶ。

 もっともこの映画、出だしは奇想だが、その後の展開は殺人事件の容疑者に接近した女性が恋に落ちてしまうというよくあるもの。それを救っているのはアレンのジョークとヨハンソンのコケティッシュな魅力か。偽の親子に扮して容疑者の貴族(ヒュー・ジャックマン)に接近する2人のでこぼこコンビぶりが楽しい。「生まれた時はユダヤ教だったが、その後ナルシスト教に変わった」とかユダヤ関連のジョークも相変わらず多い。というわけで僕はまあまあ面白く見た。

2008/07/08(火)日本のクルマはスピンしやすい!? ~ボッシュの「ESC」記者説明会から

 ESC(エレクトリック・スタビリティ・コントロール)の普及度が日本はまだまだ低い。「コンパクトタイプ(トヨタ・カローラなど)だと25%、スモールタイプ(ホンダ・フィットなど)になると5%まで落ち込む」とのこと。ESCはいわゆる横滑り防止装置だが、名称がESPとかVDCとか各社でバラバラな状態。ABSのように統一しないと認知度は高まらないのではないか。

 元々、この装置、Aクラスがエルクテストで転倒しやすいとの結果が出た後、メルセデスが普及価格帯のAクラスにも搭載するようになったそうだ。普及価格帯のクルマに装備しないと意味が薄い。ワールド・カー・オブ・ザ・イヤーのデミオの日本仕様にはこれ、オプションでも付けられない。ユーザーの認知の低さを反映した結果なのだろう。安全装置付けるよりは安く売れ、というのが通用するのだ。