2002/08/01(木)「SPY_N」

 ただただ地上172メートルでの藤原紀香のアクションシーンを見るためだけの映画で、それ以外にはあまり見るべき部分もない。しかもそこまで延々と待たされる。ボンデージスーツに身を固めた藤原紀香のそこまでのアクションは、まあフツーの出来なのだが、美形とスタイルの良さから繰り出すアクションは魅力的で、「チャーリーズ・エンジェル」みたいな作品に出るといいと思う。撮り方が下手、演出が下手、脚本もデタラメな映画だが、藤原紀香からアクションを引き出したことだけは功績と言える。

 マーク・ダカスコスやアーロン・クオックらのアクションスターがそろい、アクション場面は満載なのだが、冒頭からキレが悪すぎる。ランボルギーニとF1のカーチェイスとか、面白くなりそうなのに、今ひとつ盛り上がりに欠けるのは、演出力のなさが原因だろう。いろいろなアクションがあるが、このカーチェイス以外に独自性のあるもの、目新しいものは見当たらない。

 監督のスタンリー・トンは「ポリス・ストーリー3」や「レッド・ブロンクス」でジャッキー・チェンと組んだ人。今回は見る影もない。これだけの俳優を集め、アクションを詰め込んで、これぐらいの出来にしかならないようでは監督としての才能はないのだろう。

 藤原紀香はアクション場面は及第点でも普通の演技に少し難がある。細かい修正をしてアクション映画に主演で出てほしいものだ。

2002/07/27(土)「海は見ていた」

 山本周五郎の「なんの花か薫る」と「つゆのひぬま」を黒沢明が脚本化。自分で撮るはずだったが、その願いをかなえられないまま黒沢は他界した。それを黒沢プロの依頼で熊井啓が映画化した。黒沢だったら、クライマックスの暴風雨と洪水のシーンはダイナミックな映像を見せてくれたはずだが、熊井啓はそういう部分があまり得意ではない。物語を収斂させていくこの部分が弱いので映画全体もなんだか締まりに欠け、焦点が定まらない印象になった。緩やかに増えていく水の描写はのんびりしており、画面に生きるか死ぬかの切実さが足りないのである。

 もっとも、それ以前の部分も決して出来がいいわけではない。前半は深川の岡場所を舞台に遊女・お新(遠野凪子)が刃傷事件を起こして勘当された侍・房之助(吉岡秀隆)に抱く純な思いを描く。「こんな商売をしていても、きっぱりやめれば汚れた身体もきれいになる」という言葉に心動かされたお新と仲間の遊女たちはお新の客を代わりに引き受け、お新と房之助の結婚を夢見るようになる。ところが、房之助はお新との結婚などまったく考えていなかった。本人にはまったく悪意はなく、単なる鈍感で善良な男なのだが、迷惑なやつであることに変わりはない。遊女たちの勘違いから端を発したことを考えれば、これは軽妙な話のはずなのに、遠野凪子の演技はシリアス。この設定でシリアスに来られると、戸惑わざるを得ない。熊井啓の演出も正直すぎると思う。

 後半は不幸な身の上の良介(永瀬正敏)を好きになるお新と、お新の姐さんに当たる菊乃(清水美砂)のエピソードが絡む。菊乃は武家の出身だが、ヒモの銀次(奥田瑛二)から離れられず、吉原から渡り歩いてきた。材木商の隠居・善兵衛(石橋蓮司)から身請け話が進むが、銀次から別の岡場所へ売られそうになる。そこへ暴風雨と洪水が押し寄せるわけである。永瀬正敏も清水美砂も石橋蓮司もうまいし、話自体も悪くない。この後半だけを膨らませても良かったのではないか。

 前半のエピソードからすぐに後半の別の話に移行するこの脚本、決してうまいとは言えないと思う。2つの短編をただつなぎあわせるのではなく、並行して描いた方が良かっただろう。「隠し砦の三悪人」や「七人の侍」など絶頂期の黒沢の映画が面白かったのは脚本をチームで書いていたからで、晩年、黒沢が単独で書いた脚本には感心する部分はあまりなかった。

 遠野凪子は昨年の「日本の黒い夏 冤罪」に続く熊井啓映画への出演となる。頑張ったあとはうかがえるが、まだまだだと思う。演技の引き出しが少なく、表現力も足りない。笑顔や泣き顔を見せるだけではダメである。微妙な感情表現の仕方をもう少し身につけてほしい。これはある程度、人生経験も伴わないと難しいだろう。

 ちなみにこの作品、カンヌ映画祭に出品しようとしたが、できなかった。カンヌの審査に通らなかったらしい。つまり予選落ち。もしかしたら、内容が外国人には分かりにくかったのではと思っていたが、これぐらいの出来であるなら、予選落ちも納得がいく。

2002/07/21(日)「タイムマシン」

 H・G・ウェルズの原作をひ孫のサイモン・ウェルズが監督。1959年のジョージ・パル監督作品に続いて(劇場公開作としては)2度目の映画化となる。ウェルズの小説は「失われた世界」「地球最後の日」「透明人間」「モロー博士の島」「宇宙戦争」など読んでいるが、この原作とは縁がなかった。前作(あまり評判は良くない)も見ていないが、今回はテーマと物語がうまくまとまって佳作となった。SFXを無駄に使ってちっともSFしていない「メン・イン・ブラック2」などよりは、よほどまともな映画である。

 1899年、冬のニューヨークで科学者のアレックス・ハーデゲン(ガイ・ピアース)は強盗に恋人エマ(シエナ・ギロリー)を殺される。なんとかしてエマを取り戻したいと、アレックスは研究に没頭し、4年後にタイムマシンを完成させる。さっそく過去に帰って、エマが強盗に出会わないようにするが、今度は別の事故でエマは命を失ってしまう。「1000回過去を変えたら、1000通りの死に方をしてしまうのか」「運命は変えられないのか」と絶望したアレックスはその答を探るため、未来へ向かう。2037年のニューヨークでは月面爆破の影響で地球は崩壊寸前。ここでの事故でアレックスは80万年後の世界に飛ばされてしまう。そこは原始化した人類がモーロックという凶悪な種族に脅えながら暮らす悪夢のような世界だった。

 この80万年後の世界の描写はまるで「猿の惑星」なのだが、昨年のティム・バートン版「猿の惑星」よりはるかに出来がよい。スタン・ウィンストンがデザインしたモーロックのデザインとダイナミックな動きは秀逸。展開としてはアフリカの未開のジャングルで外部からやってきた主人公が悪を倒すという、かつてエドガー・ライス・バロウズなどによってよく書かれた冒険物語の一種である。違うのは6億年後の未来を見て、そこもモーロックの支配する世界であることを知った主人公が未来を変えようと決意してモーロックと戦う点。「過去は変えられないが、未来は変えられる」という手塚治虫「バンダー・ブック」的テーマが浮かび上がり、物語の結末とうまく同化している。

 2030年のニューヨーク市立図書館で主人公が出会ったホログラム人格(「エボリューション」のオーランド・ジョーンズ)が80万年後の世界で子どもたちに物語を語るラストショットを見て旧「猿の惑星」シリーズの第5作を思い出した。ここからより平和な未来が築かれていくのだろう。

 サイモン・ウェルズは「ロジャー・ラビット」「アメリカ物語 ファイベル西へ行く」などを経て「バルト」で監督デビューしたというアニメの経歴が中心の監督。今回が実写映画デビューだが、破綻はない。欲を言えば、主人公がタイムマシンを作れるという裏付けの描写を序盤に少し加えると良かったか。

 モーロックの親玉を演じるのはジェレミー・アイアンズ。白塗りメイクアップでほとんど分からなかった。

2002/07/13(土)「メン・イン・ブラック2」

 脚本に「ギャラクシー・クエスト」のロバート・ゴードンが加わっている。というのは後で知ったことだが、それならば、もう少し面白くなっても良いのではと思える。「ギャラクエ」の場合は原案・脚本のデヴィッド・ハワードの功績だったのだろう。

 5年ぶりの続編だが、ほとんど新鮮さがない。バリー・ソネンフェルドの演出はいつものように平板だし、話の展開も平凡である。強力なエイリアンを演じるララ・フリン・ボイルの容色の衰えも気になる(まだ32歳なんだけど)。トミー・リー・ジョーンズ(記憶を消されて郵便局長になっている)とウィル・スミスのコンビはおかしくていいのだが、この程度の話では面白くなりようがない。

 ま、最初からA級の大作は狙わず、B級路線に開き直っているのだろう。テーマ的にも同じの昨年の「エボリューション」あたりとあまり変わらない印象。コメディのセンスというのはなかなか難しいもので、ソネンフェルドにはそれが欠けている。

2002/07/12(金)「父よ」

 ジョゼ・ジョヴァンニが自分の父親を描いた自伝的作品。ジョヴァンニの映画を劇場で見るのは個人的には「掘った奪った逃げた」(1979年)以来だからなんと23年ぶりである。ジョヴァンニにとっても劇場用映画としては13年ぶりの作品である。

 死刑判決を受けた息子を父親が助けようと奔走する。息子がいる刑務所の前にある店に通い詰め、看守から息子の様子を聞き、弁護士を頼み、被害者の家を訪ねて特赦の嘆願書を書いてもらう。父親は息子から嫌われていると思っているので、自分がしていることを隠している。息子は犯罪には加わったが、殺人は犯していなかった。若者の犯罪抑止のために見せしめの意味が反映されて通常より重い刑がくだされたことを映画は示唆する。父親の必死の努力で息子は終身刑に減刑され、11年後に釈放される。その後ジョヴァンニは罪を取り消されて完全な復権を果たすが、その時父親は既に亡くなっていたそうだ。

 ジョヴァンニは今年79歳。父親の行動を知ったのは33歳の時というから、映画化するのに40年以上の年月がかかったことになる。そのためか単純な泣かせる映画にはなっていない。父親の愛情を深く描いてはいるが、息子を助けようとする父親を(例えば「父の祈りを」のように)重点的にドラマティックに描くのではなく、父親の人間性を含めて描いてある。父親の努力だけではなく、父親そのものを描いた映画なのである(原題は「私の父」)。父親の賭博師としての生活など本筋とはあまり関係ない不要と思える部分もあるが、ジョヴァンニにとってそれはなくてはならない部分なのだろう。

 ジョヴァンニと父親はついに言葉ではお互いの愛情を表現しなかった。それをジョヴァンニは悔いて、この映画を作ったと最後にジョヴァンニ自身によるナレーションが流れる。だからこれは偉大なプライベートフィルムとも言える。それにもかかわらず、この映画が普遍性を持つのは父親と息子の関係が多かれ少なかれこの映画で描かれたようなものであるからだろう。

 父親を演じるブリュノ・クレメールが味わい深い演技を見せてうまい。久しぶりにフランス映画らしいフランス映画を見たという感じ。ジョヴァンニはノワールを書く作家だが、冒険小説ファンに支持が高い。この父親像もある意味、ハードボイルドだ。演出的にはやや緩む部分があるのだが、ジョヴァンニにはまだまだ映画を撮ってほしいと思う。