2007/01/13(土)「モンスター・ハウス」

 「モンスター・ハウス」パンフレット昨年夏にアメリカで公開され、大ヒットした3DCGアニメ。大ヒットの理由は公開劇場の数が多かったためもあるだろうが、映画自体も良くできていて最近のCGアニメの中では最も面白かった。製作はロバート・ゼメキスとスティーブン・スピルバーグで、ゼメキスの「ポーラー・エクスプレス」(2004年)同様にモーション・キャプチャーを使用しているため、キャラクターの動きがとても滑らかだ。

 アメリカのアニメの常でキャラクターはかわいくはないのだが、実写をコンピュータでトレースするモーション・キャプチャーはそれなりの効果を上げている。この手法、ラルフ・バクシの「指輪物語」(1978年)でメジャーになったロトスコープという技術に端を発するもので、ここまでリアルならば、実写で撮っても良いのではないかという疑念が見ているうちにわき起こってくる。この映画自体、当初は実写の計画もあったそうだ。ただ、クライマックスのモンスター・ハウスの動きなどはどうせCGを使わなければ、表現できないだろうから、フルCGでの映画化も理解できないわけではない。

 物語はハロウィンの前日から始まる。そろそろ声変わりを迎えつつある12才の少年DJは向かいの家に住む不気味で頑固な老人ネバークラッカーを日頃から望遠鏡で観察している。両親が休暇で出かけ、1人家に残ったDJのところへベビーシッターのジーがやってくるが、ジーは自分の家のように振る舞い、恋人のミュージシャン、ボーンズを引き入れる始末。その日、DJの親友のチャウダーが買ったばかりのバスケットボールをネバークラッカーの家の敷地に転がしてしまう。ネバークラッカーは他人が芝生に入ると猛烈に怒り出す。チャウダーの代わりにボールを取りに行ったDJはネバークラッカーに見つかってしまうが、突然、ネバークラッカーは苦しみだし、救急車で運ばれてしまう。ここから不思議な出来事が起こる。チャウダーが誰もいないはずの家の呼び鈴を押すと、突然、玄関が口のような形になり、絨毯が襲いかかってきた。この家はモンスター・ハウスだった。翌朝、ハロウィンのお菓子を売りに来たジェニーとともにDJとチャウダーは家の秘密を調べ始める。

 上映時間は90分で子供向けにはぴったり。映画も過不足なく描写を重ね、これが監督第1作のギル・ケナンは無難に仕事をこなしたと言うべきだろう。ダン・ハーモン、ロブ・シュラブ、パメラ・ペトラーの脚本も悪くない出来だ。難点はネバークラッカーの家がモンスター化した理由で、これはもう少しスーパーナチュラルな要素が欲しかったところだ。ネバークラッカーの役割は予想がつくのだけれど、定跡を踏んでいるオーソドックスな映画化と理解しておくべきか。クライマックスにはビジュアルなシーンが用意されていて、スピルバーグ&ゼメキス製作らしい映画だなと思う。子供を連れて行った大人も退屈しない仕上がりで、他の子供向け映画もこれぐらいのレベルを維持してほしいものだ。

 僕が見たのは日本語吹き替え版。DJ役は「名探偵コナン」の高山みなみが声を担当している。他のキャストも含めて違和感はなかったが、久しぶりのキャスリーン・ターナーが登場する原版も見てみたいところだ。

2007/01/12(金) ちょいテレの使用感

 使い始めて1週間余り。もともとテレビをそれほど見ないし、録画もしないので、パソコンで視聴するにはこれで十分か。ただ、電波状況が良くないためか、時々映らないテレビ局がある。携帯(W44S)では入るのにちょいテレは延長コードを付けて外部アンテナを伸ばしているにもかかわらず映らない。アンテナは窓際に置いているのだが、どういうことか。あと、データ放送に対応していないのが惜しい。これ、ソフトウェアのアップグレードで何とかならないのかな。

 データ放送は見なければ見なくてもいいのだが、見られるに越したことはないだろう。これまた携帯は対応しているのだから。画面のきれいさも携帯の方が上(これはディスプレイの表示能力と画面の大きさも関係しているだろう)。全画面表示は19インチのディスプレイでは見られたものではない。あと、パソコンの休止状態から復帰する時にUSBを認識しないことがたびたびある。挿し直せば認識する。

 ワンセグは電波状況によって、きれいに映るか、まったく映らないかのどちらかになる。カーナビには向かないような気がするなあ。

2007/01/03(水)正月休みに見たDVD

 30日に「雪に願うこと」「花よりもなほ」「アサルト13 要塞警察」の3本を借りた。どれも見ないでベストテンを選ぶのをためらわさせる作品で、それぞれに面白かった。「雪に願うこと」は東京で事業に失敗した男(伊勢谷友介)が故郷の北海道でばんえい競馬の調教をやっている兄(佐藤浩市)の元へ帰ってくる話。兄弟の確執を描きつつ、弟と女性騎手(吹石一恵)のシンプルな再生の話になっているところがいい。

 「アサルト13 要塞警察」はジョン・カーペンター「要塞警察」のリメイク。暗黒街のボス(ローレンス・フィッシュバーン)が逮捕されたことから警察署が襲撃される。ストレートでスピーディーなアクションの快作。ベストテンに入れるほどではないが、ジャン=フランソワ・リシェ監督の名前は記憶に値する。今後の作品に注目したい。

 「花よりもなほ」は「誰も知らない」の是枝裕和監督作品。父親を殺された男(岡田准一)が汚い長屋に住みながら、仇を討とうとするが、次第に心境の変化を迎えることになる。「憎しみの連鎖を断て」という主張はもちろん現在の世相を反映したものであり、是枝裕和は現実に近いところで映画を撮っている監督だなという思いを強くした。映画の技術では山田洋次「武士の一分」の方が上だろうが、内容的にはこちらの方が好ましい。

2006/12/16(土) FMトランスミッター

 車のFMラジオに電波を飛ばして聞ける。携帯とiPodの両方で使えるのがあったので買う。両方で使えるといっても携帯に挿すプラグが付属しているので、どちらでも使えるという程度の意味しかない。さっそく携帯をつないで聴いてみると、音がこもったような感じ。イヤホンで聴いている分には気にならないが、スピーカーに通すと、音の悪さがはっきりする。64kbpsだから仕方がない。時々、雑音が入ることもある。車の電子機器が干渉しているのか。

 iPodはもう少しビットレートが高いのでましなのかな。ま、こういう音でも長く聴いていると、気にならなくなるものだ。

 で、家内の携帯に入っている着うたフルを聴いてみたら、こちらはずっと音質が良く、こもった感じはなかった。意外。着うたフルは1.5MB以内のサイズなんですがね。僕のは携帯動画変換君で変換して3MBほどあるのに。携帯の機種が古いことも関係あるのか?

2006/12/12(火)「硫黄島からの手紙」

 「硫黄島からの手紙」パンフレット中盤、捕虜にした米兵の母親からの手紙をバロン西(伊原剛志)が読むシーンがある。母親の息子への思いを綴ったその手紙があまりに自分たちと同じであることを日本兵たちは痛感することになる。これがこの映画の端的なテーマであるように思う。憲兵からパンをたかられ続けて最後にはパン焼き器まで供出させられ、店を閉めざるを得なくなった上に徴兵されたパン屋の西郷(二宮和也)や犬を殺せなかったばかりに憲兵失格となり、硫黄島に送られた清水(加瀬亮)のようにそれぞれの兵士にはそれぞれの境遇がある。故郷に残してきた家族への思いをそれぞれに持つ日本兵たちは米兵も同じ思いを持つことを知るのだ。

 これを突き詰めていけば、上が始めた戦争によって庶民が犠牲になっていくという側面が強調されただろう。しかし「父親たちの星条旗」同様にイーストウッドはそうした視点を突き詰めることはない。だから同じように不満を感じてもいいはずなのだが、この映画で気分がいいのは西郷のキャラクターがあるからにほかならない。一見すれば、この映画、硫黄島の日本軍を指揮した栗林忠道(渡辺謙)が主人公のように思えるのだけれど、実質上はこの西郷という下級兵士が主人公。西郷という男の在り方は、最初はアレック・ギネスと早川雪舟が主人公のように思えていたのに脇にいて戦争に批判的なことを口走り、その存在がどんどんどんどん大きくなっていった「戦場に架ける橋」のウィリアム・ホールデンのようなリベラルな在り方なのである。西郷は妻とまだ顔も見ていない子供のために生きて帰りたいと思っているのだが、かといって積極的に生き残ることに心を砕いているわけではない。生き残ったのは単に運が良かったからだろう。同時に西郷とはまるで正反対のタイプで、自爆攻撃をかけようとして戦車を待って待って待っていたのに戦車が来ないで生き残ってしまった伊藤中尉(中村獅童)もまた運が良かったに過ぎない。出征前の回想で西郷は妻のお腹の子に向かって「誰にも言うなよ。お父さんは生きて帰ってくる」と語りかける。サミュエル・フラーが「最前線物語」で描いた「戦場では生き残ることが正義」ということを声高に言うほどイーストウッドは単純ではないのだ。

 重要なのはこの生き残った2人の組織との距離感だ。西郷は最初から「こんな島、アメリカにくれてやればいいのに」と公言している。摺鉢山の洞窟の中で他の日本兵たちと一緒に手榴弾で自爆しなかったのは無駄に死ぬことよりも栗林の最後まで戦えという言葉の方に真実を感じたからだろう(このシーンは「父親たちの星条旗」の自爆した日本兵たちを発見するシーンと呼応している)。伊藤中尉は死体に紛れて戦車を待っているうちに青空をながめ、次第に死ぬことがバカらしくなっていったのだろう。組織に殉ずる者は死に、そこから離れた者は生き残る。そんな構図が見えてくる。ただし、イーストウッドが単純でないのは投降して助かったと思った日本兵が足手まといという理由で米兵に銃殺されるシーンを入れていることだ。

 セリフ回しがおかしな日本人が数人出てくるのを除けば、立派に日本映画として通用する作品であり、日本語だらけのセリフなのにイーストウッドの演出は少しも揺るがない。そこに大変感心した。同時にこれはハリウッド映画の精神で作られた戦争映画だなという思いも強くした。日本映画なのに西郷のキャラクターは先に書いたようにハリウッドのリベラルな主人公と共通しているのである。それが成功の要因でもあり、これならば、アメリカ人が見ても理解しやすいだろう。アイリス・ヤマシタとポール・ハギスの書いた物語はアメリカ映画という枠組みの中に日本映画を取りこんだものである。しかもキャラクター描写に具体性があり、だからこの映画は硫黄島の戦いというだけではなく、普遍性を持ち得ている。日本映画だったら、悲壮感のかたまりになるはずが、そうならずにドライな感じがあるのはアメリカ映画のなせるわざなのだろう。

 延々と長い戦闘シーンにはあまり感心しなかったし、実際の硫黄島の激戦を再現してもいないと思う。逃げる日本兵を背後から撃つ上官や持ち場を離れた兵士に刀を向ける上官の姿など、いつかどこかでみたような描写もある。イーストウッドは硫黄島の日本軍の戦略を描くことに興味はなかったのだろう。描きたかったのは日本兵たちもまたアメリカ兵と同じだったということであり、それに関しては十分成功している。