2001/01/17(水)「レッド プラネット」

 カール・セーガンの火星地球化計画をベースにしたSF映画。地球が汚染され尽くしたため、人類は火星に藻類を送り、酸素を作り出そうとする。その調査に出かけた宇宙船の乗組員が次々に危機にさらされる。昨年の「ミッション・トゥ・マーズ」に続いて火星を舞台にしている。いつものことながら、リアルな宇宙の描写は好ましいのだけれど、SF的アイデアの発展はこれまたいつものことながらない。

 火星軌道上で太陽風の直撃を受けて宇宙船が機能停止、船長(キャリー・アン・モス)を除く乗組員が火星に脱出する。しかし、火星にあるはずの基地は破壊されていた。酸素がなくなる、連れてきたロボットが異常を起こして襲ってくるという危機をどう乗り越えるかが描かれる。あっと驚くような展開をアメリカのSF映画に期待するのはもう無理なのか。リアルの延長で話が地味だ。脚本にアイデアが足りない。

 監督のアントニー・ホフマンはCMディレクター出身。いちおうの絵づくりはできるけれど、それだけのこと。こういう監督を起用するのはちょっと考えものだ。場面自体は良くても演出にメリハリがない。「スペース カウボーイ」のイーストウッド演出を少しは見習ってほしい。

 キャリー・アン・モスは相変わらず美しくて良い。ただし、宇宙船にいたままなので、あまり活躍の場がないのは残念。

2001/01/09(火)「ダンサー・イン・ザ・ダーク」

 ヒロインが空想するミュージカルの場面のみ色鮮やかで、現実はざらざらした(銀残しのような)感触の色合い。過酷な現実を描く部分にまったく共感できない。救いのないストーリーが許せない。ラース・フォン・トリアーはミュージカルを本当に好きなのだろうか。「気持ちが高ぶって歌になり、歌が極まって踊りになる」というミュージカル映画の基本を表していたのは、わずかにビョークが「I've Seen It All」を歌う場面のみだった。

 映画の中で「ミュージカルって、なぜ突然歌ったり、踊り出したりするんだ」と登場人物の1人が話す場面があるけれど、この映画の終幕、裁判所や刑務所でビョークが歌い出す場面はこれに当たる。なぜここで歌い出すのか、失笑するしかないのである。

 この映画で初めてミュージカルに接する人がいたなら、それはとても不幸なことである。最初に経験すべきミュージカルはMGMでアーサー・フリードが制作したものでしょう。

 小林信彦は「ミュージカル映画はなぜつまらなくなったか」という一文でこう書いている。「ミュージカルというのは、社会性もヘタクレもない、歌や踊りを武器にして、現実と別の次元へ飛翔する人間の魂の自由の喜びの表現なのだから、そのような喜びのないミュージカルは、むしろ気の抜けたオペラというべきで、1930年代よりはるかに後退していると言わざるを得ない」。

 ラース・フォン・トリアーはミュージカルを分かっていない。その前に音楽も分かっていないし、映画的な技術も足りないのではないかと思う。でなければ、こんな物語をミュージカル的に作るわけがない。

2000/12/25(月)「バトル・ロワイアル」

 見る前に思っていたのは「中学生同士で殺し合ってどうする。そんなエネルギーがあるなら、そういう状況に追い込んだ大人に刃向かえ」ということ。これは映画を見終わった今もそう思う。本来であれば、“子どもたちの復讐”的意味合いがなければならないと思う。この映画は現在の状況を映しているわけでもないし、単なる殺し合いの映画でもない。アクション映画でさえないが、面白くてしょうがなかった。エネルギッシュで息を抜ける場面がなく、見終わると、頭がクラクラした。これは傑作の証拠である。

 端的に言って深作欣二の映画としては「仁義なき戦い」に匹敵する出来と思う。深作欣二はこの映画に関して、空襲で仲間がバタバタ死んだという自分の15歳のころの原風景を語っているが、その通り、極限状況を描いた映画として戦争映画に近いものがある。クラスメートを殺さなければ、自分も死んでしまう。そんな状況に置かれた人間はどういう行動を取るのか。そういう側面を描きつつ、主人公2人には決して人を殺させず、ヒューマンに描いている。この2人と行動を共にする転校生の川田(山本太郎)が一つのキーポイントで、このキャラクターに先ほど書いた復讐の意味合いをもっと持たせた方が良かったかもしれない。

 黒沢明やチャップリンのヒューマニズムが僕は嫌いだが、深作ヒューマニズムは納得できた。さまざまな欠点があるのは承知しているけれど、今年見た映画のベストと思う。

2000/12/20(水)「シックス・デイ」

 SF的なアイデアはクローンのみで、そこから少しも発展しない。つまりこういう映画はSF的設定映画であって、SFそのものではないのね。監督がロジャー・スポティスウッドなので、それなりに凝った映像(ワイプがいいです)で見せてくれるが、ストーリーの先が読めるため途中で飽きた。昨年の「エンド・オブ・デイズ」よりはまし、といったレベル。

 ハリウッドの娯楽映画には一種の方式があり、それを踏襲している。すなわち、簡単なプロットをアクションでつなぐという方式。シュワルツェネッガーを僕は嫌いではないけれど、いい加減、別のパターンの映画に出た方がいいのではないか。

 「ゴジラ×メガギラス」と比べてうらやましいのは、SF的な小道具がしっかりしていること。ホログラフィーの女性やかっこいいヘリ(これホントにあるのかな)、クローン人間の製造工場(?)とか、良くできている。基本的に日本映画とは金のかけ方が違うんですね。

2000/12/19(火)「オーロラの彼方へ」

 この映画にはタイムトラベルは登場しないが、過去を操作したことによる現在への影響が描かれ、時間テーマSFの一種と言える。ニューヨークにオーロラが現れた日、主人公は30年前の父親と無線通信を果たす。父は翌日、消火活動の途中で死ぬところだったが、息子の忠告によって死を免れる。ところが父を救った代わりに母親が連続殺人犯の犠牲になってしまう。それ助けるため、現代の息子と30年前の父親が無線通信で協力し、犯人を捕まえようとする。後半はこの犯人探しのサスペンスになってしまうのが、SFファンとしてはちょっと残念。

 前半の息子と父親の交流が泣かせる。大林宣彦「異人たちとの夏」を思わせる描写なのである。ここをもっとふくらませていたら、文句なしに傑作の太鼓判を押すところだ。

 過去を変えると、当然のことながら主人公の現在の環境も変わる。本当であれば、記憶もすっかり変わってしまうはずだが、両方の記憶を保持したままというのがポイント。これをご都合主義と言ってしまってはこの映画は成立しない。監督は「真実の行方」「悪魔を憐れむ歌」のグレゴリー・ホブリット。

 過去への通信を扱ったSFとしてはグレゴリー・ベンフォード「タイムスケープ」が有名。これは超高速微粒子タキオンを使って未来から現在へ通信を行い、未来の危機を回避する話だった。「オーロラの彼方へ」は通信の設定をオーロラの影響とだけ説明している。このアイデアだけでストーリーにSF的な発展はない。あまりマニアックにすると、一般受けはしないかもしれない。