2005/07/17(日)「逆境ナイン」

 「逆境ナイン」公式戦で勝ったことがない弱小野球部が廃部を免れるために甲子園出場を目指す熱血コメディ。島本和彦原作のコミックを「海猿」の羽住英一郎が監督した。落ちこぼれ集団が奮起するという「少林サッカー」パターンの映画で、逆境に次ぐ逆境をはねのけていく主人公・不屈闘志の姿がおかしい。惜しいのは「少林サッカー」ほど笑いが弾けていかないこと。笑いのパターンがやや画一化していて、一発ギャグみたいな笑いが多いのだ。「自業自得」や「それはそれ これはこれ」などの巨大石板(モノリス)が登場する不条理なシーンのおかしさは最初はいいのだが、こうしたギャグのパターンはだんだん新鮮さがなくなる。VFXの方も今ひとつな出来である。ただ、主演の玉山鉄二(「天国の本屋 恋火」」)の熱血・勘違いキャラクターには大いに好感度があり、映画を憎めないものにしている。クライマックス、9回裏112対0からの逆転劇などにもう少しアイデアを詰め込み、ドラマティックな展開を入れ、主人公以外のキャラクターも描き込んでくれれば、もっと面白くなったと思う。

 全力学園の野球部キャプテン不屈闘志(玉山鉄二)は校長(藤岡弘、)から突然、廃部を言い渡される。全国レベルの力を持つサッカー部と違って野球部は連戦連敗。「全力でないものは死すべし!」という考えの校長はグラウンドをサッカー部に明け渡すよう命じる。不屈は春のセンバツ優勝校日の出商業に練習試合で勝つことを条件に廃部を免れるが、ナインには次々に逆境が訪れる。赤点を取って試合当日に追試があったり、チワワに噛まれて出場不能になったり、試合の日にバイトが入ったり。不屈自身も利き腕の右腕を骨折してしまう。幸いなことに試合当日が雨だったため、日の出商業は試合を中止して、全力学園の不戦勝となるが、校長はこれを認めない。不屈は甲子園出場を校長に約束。監督にセパタクロー以外知らない榊原剛(田中直樹)が就任し、甲子園への県予選を戦うことになる。

 こういう話は大好きなのだが、羽住英一郎、まだまだ甘いなと思う。こういうリアリティゼロの話にどう説得力を持たせるかが問題なのである。決勝戦にコールドゲームはないので112対0というシチュエーションも可能性ゼロではないが、そこからの逆転劇の在り方はありえない。この映画での人を食った展開には唖然とするが、ありえないシチュエーションなので主人公の頑張りが感動に高まっていかないのがもどかしい。原作がこの通りであるかどうかはそれはそれとして、映画ならではの逆転劇を考えても良かったのではないか。

 対戦校の名前が中々学園とか手抜学園とか聞くだけでおかしくなるけれど、その他の展開も含めてバカバカしさだけで1時間55分持たせるのはつらいものがある。バカバカしいギャグを入れつつ物語の骨格を一応まともなものにしていくと、こういう映画は最強になると思う。バカバカしさを愛してはいても、それだけでは映画としては物足りないものなのである。藤岡弘、の素のキャラクターのままの校長先生は悪くないが、この校長にももっとドラマの見せ所が欲しいところ。田中直樹の使い方とか、ナインの一員を演じる坂本真の使い方にしても「フライ,ダディ,フライ」と比べてみれば、おかしさがもっと弾けていいのではないかと思える。演出の善し悪しというのはそういう部分に出てくるものなのだろう。マネジャー役の堀北真希はかわいかった。

2005/07/15(金)電車男を支える人々は、なぜ、匿名性が希薄なのか

 このタイトルには「映画とテレビの」という形容詞が抜けている。映画とテレビの電車男には書き込む人々が実際に描写される。そうしなくてはドラマが成立しないからだろう。まあ、掲示板のやりとりをそのままドラマにできるわけはないのだから、題材にした上で面白い作品を作ってくれれば言うことはない。

 気になったのはこの文章の作者が性善説うんぬんと言っているところ。元の書き込みの良い部分だけを収録してあるものに対して性善説はないだろう。だから「性善説で展開できる匿名社会」という言葉に説得力がない。

 きのう、初めてテレビ版を見たが、これは半分、スラップスティックではないか。ギコネコが頻繁に登場するのに驚いた。そこまでやるなら2ちゃんねるの名前も出してはどうかと思う。

2005/07/14(木) クローネンバーグの新作

 “A History of Violence”アメリカでは9月公開だが、カンヌ映画祭で上映されたため、IMDBでは124人が投票して8.7点。グラフィックノベルが原作。食堂の主人(ヴィゴ・モーテンセン)が店に来た強盗を正当防衛で殺して一躍ヒーローになるが、さらなるバイオレンスに巻き込まれる、という話らしい。ウィリアム・ハート、エド・ハリス、マリア・ベロ共演。予告編はここ。原題は「暴力の前歴」と訳すようだ。

 脚本は浦沢直樹「MONSTER」のハリウッド版脚本を担当するジョシュ・オルソン。NEW LINE CINEMAが製作するというこの映画版も気になる。

2005/07/13(水)「フライ,ダディ,フライ」

 「フライ,ダディ,フライ」パンフレットさえない男がある事件をきっかけに闘争本能に火を付けるというのは冒険小説(ロバート・B・パーカー「銃撃の森」など)でたびたび描かれてきた設定である。この映画もそれを踏襲しているけれど、うまいのはあくまでも日常の範囲内で描いていることだ。普通のサラリーマンが家族を痛めつけた相手に血で血を洗うような復讐をする話にはせず、相手とは大勢が見守る中での対決になる。そして相手を倒すことよりもそれに至る訓練の場面がメインになっているところがいい。満員電車に揺られてマンネリ気味の会社勤めをしている男が、けんかの強い高校生の指導を受けて体を鍛えるうちに変わっていく。この変化を再生というのは大げさだが、出世を棒に振って長い休みを取り、ひたすら訓練に打ち込んだことが男のその後の人生に影響を及ぼさないわけはない。そして変化は周囲にも及ぶ。壊れかけた娘との関係を取り戻し、同じバスで帰るさえない中年男たちも主人公の懸命な姿を見て応援していく。もちろん、観客も主人公に共感を持つことになる。原作・脚本の金城一紀はよくある設定を借りて、独自のアイデアを盛り込み、細部のリアリティとキャラクターを大事にした話を作った。アップを多用した成島出監督の映画的な演出と堤真一、岡田准一の好演が加わって、映画はきっちりとまとまった情感豊かな佳作になった。大きな話にしなかったことが成功につながったのだと思う。見終わった後、思い切り体を動かしたい気分にさせる映画である。

 主人公の鈴木一(堤真一)はひとり娘の遙(星井七瀬)が病院に運ばれたと聞いて病院に駆けつける。遙はカラオケボックスでインターハイのボクシングチャンピオン石原(須藤元気)にボコボコに殴られたのだ。石原の父親は将来の総理になると見られている衆院議員。石原の通う高校の教頭(塩見三省)はことを穏便に済ませようと、金を渡す。少しも反省していない石原の態度に怒った鈴木は石原に詰め寄るが、そばにいた教師に倒される。娘を傷つけられた上に自尊心まで傷つけられた鈴木は翌日、包丁を持って石原の通う高校へ乗り込む。ところが、そこは石原の高校から200メートル離れた別の高校で、落ちこぼれ集団のゾンビーズの一員、朴舜臣(パク・シュンシン=岡田准一)から簡単に伸されてしまう。石原を倒し、娘の信頼を取り戻すために鈴木はけんかの強い舜臣の指導を受けて体を鍛えることになる。

 映画はモノクロームの画面で鈴木のさえない日常と事件を描いた後、校舎の屋上で両手を広げて舞う舜臣の登場シーンからカラーに変わる。手法として珍しくはないが、映画の内容にはぴったり合っている。クライマックスの対決シーンは強い風が吹いて砂ぼこりが舞う西部劇のような演出。タンブルウィードまで転がってくるのがおかしいが、これはそばにいた生徒が転がしている場面が映される。成島出の演出はオーソドックスな手法から、それを逆手に取ったシーンまでさまざまに変化を付けている。一直線と変化球が微妙に混ざったうまい演出だと思う。しかし何よりもキャラクターが素晴らしい。在日朝鮮人で母子家庭の舜臣は訓練をしていくうちに鈴木と心を通わせるようになる。木の上で自分の過去を話し、ふと弱さを漏らすシーンなどにキャラクターの奥行きを感じさせる。高校生が中年男を指導するというシチュエーションは他の脚本家でも思いつくアイデアだろうが、金城一紀の脚本はこうしたキャラクター作りがとてもうまい。設定だけでなく、細部にも独自のアイデアがあるのである。細部をないがしろにしていないからこそ、話に説得力が生まれるのだろう。

 岡田准一は1年かけて体を作ったそうで、その成果は両手の力だけでロープをささっと登るシーンなどに現れている。堤真一にはややオーバーアクトな部分があるが、それもユーモアに結びついているところなので気にならない。このほか、ゾンビーズの面々やさえない中年男たちの演技にユーモアとリアリティが同居しており、満足感の高い映画だと思う。

2005/07/12(火) 体重2.5キロ

 犬の体重。先週、計った時は1.2キロだったのに、1週間で1.3キロも増えるものだろうか。先週のが見間違いで、2.2キロだったのかな。そうだろうなあ。

フジテレビ、テレビ番組を有料配信する「フジテレビ On Demand」

 日テレも同じく有料配信を検討しているそうだ。テレビなら無料で見られるものをネットで、テレビよりも悪い画質で配信して見たいと思う人、多いのでしょうかね。いつでも見られるというのはメリットではありますけどね。