2000/05/10(水)「イグジステンズ(eXistenZ)」

 デビッド・クローネンバーグの新作。前作「クラッシュ」を見ていないし、その前の「Mバタフライ」もビデオに録画したまま見ていないので、個人的には実に「裸のランチ」(91年)以来のクローネンバーグ映画となる。近年は文学的な題材を選んでいたクローネンバーグが原点回帰したと言われる作品で、その通り「ラビッド」や「ブルード 怒りのメタファー」などを思わせるB級SFチックな出来である。

 ゲームの世界と現実との区別がつかなくなるという結末からすれば、まあ小粒な映画といっていいだろう。しかし、そのゲーム機が有機体(突然変異生物)でできているというのがクローネンバーグらしいところ。人は背中にあけたバイオポートにプラグを差し込んでゲームをプレイするのだ。予告編でさえ、気持ち悪い部分があったので心配したが、映画は全体としてみれば、傑作ではないにしても面白い仕上がりと思う。主演の2人、ジュード・ロウとジェニファー・ジェイソン・リーがなかなか良く、楽しめた。

2000/04/26(水)「バイ・センテニアルマン」

 邦題「アンドリューNDR114」という訳の分からないタイトルが付いたこの映画の原題、どこかで聞いたと思ったら、アイザック・アシモフ原作のロボットシリーズの一編だった。SFマガジンに分載されたのをリアルタイムで読んでいる。ざっと20年前だ。大学の図書館の地下にSFマガジンのバックナンバーが10年分あり、それを読むのが学生時代の暇つぶしの一つだった。ここにはキネマ旬報のバックナンバーもあり、「日本映画縦断」(竹中労が書いたルポルタージュ。もう忘れられているかもしれないが、今の映画ジャーナリズムとは比べものにならない傑作)もここで読んだのだった。

 僕は当時、アシモフに特別な思い入れはなかった。クラークが好きだったし、アシモフのタッチは好みに合わなかった。「はだかの太陽」を読むまでは…。アシモフのロボットシリーズは「鋼鉄都市」「はだかの太陽」「夜明けのロボット」と続く。これが後に「銀河帝国の興亡」のファウンデーションシリーズと融合する。ファウンデーションの続編は昨年だったか、別の著者(グレゴリー・ベンフォード?)が引き継いで書いたのが出版された。ロボットシリーズはSFミステリとも言われ、設定はSFでもストーリー展開はミステリだった。アシモフが「黒後家蜘蛛の会」シリーズなどでミステリにも造詣が深いのは有名な話だが、僕はそんなミステリに色目を使うアシモフをSF作家の風上にも置けないと思ったのだった。

 しかし、「はだかの太陽」でその認識は一変する。この小説のラスト1行にこめられた思いはアシモフが紛れもなくSFの人であることを強烈に印象づけた。なぜ人は宇宙を目指すのか、その回答がここにある。これに感動した僕はその後、アシモフの著書を読みあさることになった。クラークよりもアシモフの著書の方をたくさん読んでいるのはこのためだ。なにしろハヤカワ文庫の科学エッセイシリーズまで読みましたから。

 「バイ・センテニアルマン」(邦題は「2世紀の男」か「200年生きた男」か、そんな感じだった)はアシモフの著書の中で際だって傑作ではないが、なぜロボットが人間を目指すのか、「はだかの太陽」と同じ意味合いからアシモフの考え方がよく分かる中編である。

2000/04/19(水)「スリー・キングス」

 湾岸戦争終結直後のイラクを舞台にした戦争アクション。ちょっと変わっている。表面的には脳天気な装いなのに細部がやけにリアル。アメリカのアクション映画でよくある、クライマックスに破壊の限りを尽くすパターンともきっぱり決別している。戦争が終わって、クウェートは解放されたが、イラク国内にはサダム・フセインに苦しめられている人々がいる。フセインがクェートから奪った金塊を横取りしようとした4人のアメリカ兵が難民の苦況を見るに見かねて助けようとする話なのである。

 ボストン批評家協会賞の最優秀作品賞と最優秀監督賞をダブル受賞したほか、タイム誌が昨年のベストテンに選出したそうだ。確かにオリジナリティーという点でデヴィッド・O・ラッセルの脚本と演出は抜きん出ている。固すぎる社会派にもならず、単純なアクション映画にもならず、さじ加減が絶妙。演出に一部荒さは残るが、注目していい監督の一人と思う。