2002/02/26(火)「修羅雪姫」
釈由美子主演のハイパーSFアクション。ドニー・イェン(「ブレイド2」が近く公開される)が指導したアクションの評判は聞いていたので、驚かなかった。しかし、この70年代を彷彿させるヒロイン像にはしびれた。もちろんこの映画、小池一夫・原作、上村一夫・画による同名原作劇画の映画化で、藤田敏八が70年代(1973年と74年)に映画化した作品のリメイクでもあるわけだが、明治時代を舞台にしたそれらとは異なり、500年間鎖国が続いた某国を舞台にしている。それなのにヒロインの精神は原作を踏襲している。いや実は原作、旧作映画とも未見なので断定はできないのだが、このヒロイン像は「愛・飢男ボーイ」や「子連れ狼」など小池一夫原作に共通するものだ。
アクションだ何だという前にこれが一番重要である。修羅の道を歩くべく定められた宿命のヒロイン。一般的な幸せとはほど遠い道を歩まねばならないヒロインのラストの慟哭には胸を締め付けられる。硬質のヒロインを演じる釈由美子はアクションも演技にも硬さはあるけれど、屈指のヒロインを演じきった素質は注目に値する。
「流れよ、涙。」というコピーを見て、ディックを思い出さないSFファンはもぐりだが、このコピー通り、これはキリング・マシーンとして育てられ、感情を持たないヒロインが氷の心を溶かされていく物語である。ガメラシリーズを思わせる炎のタイトルに川井憲次の音楽がかぶさるオープニングで、反政府組織の鎮圧組織として政府に雇われ、やがて金さえ受け取れば誰でも殺す暗殺集団に変貌した建御雷(たけみかづち)家の由来が説明される。
ヒロインの雪(釈由美子)はその建御雷家の血を引く娘。父親も母親も幼い頃に殺され、刺客として育てられた。ある日、空暇(くうか)と名乗る老人(沼田曜一)から「母親を殺したのは建御雷家の首領・白雷(びゃくらい)だ」と告げられる。白雷(嶋田久作)を問いただした雪はそれが事実と知り、白雷に刀を向けるが、逆に傷を負い、仲間から追われる。通りかかったトラックの荷台に難を逃れ、運転していた青年・隆(伊藤英明)に傷の手当てを受ける。
空暇に会うため、鉱山跡に行った雪の所へ建御雷家の追っ手が現れ、空暇は雪をかばって惨殺。雪も瀕死の重傷を負うが、再び隆の家で手当てを受ける。隆は反政府組織の一員で、連邦政府の議会を爆破し、多くの一般人を巻き添えにしたことで心を痛めていた。初めは雪を強く警戒するが、やがて2人にはほのかな感情が芽生え始める。雪が生まれてから感じたことのない穏やかな日々。しかし、建御雷家は組織を抜けた者を許さなかった。
監督の佐藤信介は「LOVE SONG」(2001年)に続く2作目。舞台となる世界の設定に問題はないが、予算は少なかった(なんとたったの1億3500万円)ため、十分なセットは組めなかったようだ。アクション場面がほとんど森の中であるのはそのためだろう。特技監督の樋口真嗣は少ない予算の中で数ショット、いかにも日本とは別の国と思わせるSFXを見せている。空に向かって手を挙げる、恐らくこの国の指導者と思われる人物の巨大なモニュメントや高架を走る列車の描写などがそれだ。
10倍ぐらいの予算をかけて、こういう場面をもっと見たかった思いがする。異世界に説得力を持たせるにはそういう部分が重要なのである。すべてに決着がつくわけではないラストは2作目を意識したのだろう。十分な予算をかけて、ぜひ続編を作って欲しい。こういう映画に金を出さない日本映画界はダメだ。
2002/02/19(火)「ジェヴォーダンの獣」
18世紀のフランス・ジェヴォーダン地方に残る野獣の伝説を基にした自由な映画化。印象に残るのはアメリカ先住民のマニを演じるマーク・ダカスコスの素晴らしいアクションと相変わらず美しく、イザベル・アジャーニに似ているモニカ・ベルッチ。この2つに関しては大いに満足。映画自体もさまざまな要素を詰め込んで、クリストフ・ガンズの演出、サービスたっぷりである。
1765年のフランス。国王がジェヴォーダン地方で殺戮を繰り返す野獣の正体を突き止めるため、自然科学者のフロンサック(サミュエル・ル・ビアン)を派遣する。フロンサックには武力の達人で兄弟の誓いを立てているマニが同行。地元の若い貴族マルキ・トマ・ダプシェ(ジェレミー・レニエ)は2人に協力し、野獣を捕まえようとする。フロンサックは野獣の存在など信じていない合理的な考え方の持ち主。という設定はティム・バートン「スリーピー・ホロウ」を思わせる。この映画の場合、その合理的な考え方通りに野獣
の正体が明かされる。この正体と物語を回想するマルキのその後の運命が見事な対比となっているのがうまいところ。フロンサックが終盤、急に強くなるのが唐突であるなど、細かい傷は目に付くし、クリストフ・ガンズの演出はややシャープさには欠けるが、美しい自然と神秘的な雰囲気を漂わせた演出は及第点。野獣の見せ方もうまい。
しかし最大の収穫はマーク・ダカスコスで、最初の登場場面、一人で悪人たちをバタバタとやっつけるアクションは感心するほど鮮やか。カンフーアクションに似ているなと思ったら、香港のスタッフが参加していた。自然と交信し、不思議な力を持つダカスコスの存在は際だっており、ほとんど主役を食っている。
モニカ・ベルッチは娼婦で実は、という役柄。もう少し見せ場を作った方が良かった。実生活での夫であるヴァンサン・カッセルも共演している。
2002/02/19(火)「助太刀屋助六」
「EAST MEETS WEST」以来7年ぶりの岡本喜八監督作品。1969年にジェリー藤尾主演で作られたテレビ映画の監督自身によるリメイクという(テレビ版のストーリーはパンフレットに岡本監督自筆の漫画で掲載されている。今回はラストを変えてある)。真田広之の軽快な身のこなしが良く、村田雄弘、鈴木京香、仲代達矢ら他の出演者たちも達者。1時間28分があっという間の楽しい時代劇になっている。感じとしてはかつてのプログラム・ピクチャー。予算は少なかったようで、その分、スケールの小ささは少し気になるし、助六と父親の関係や7年前の事件の詳細をもっと描いて欲しかったところだが、77歳の岡本監督、健在ぶりを示した1作と言える。
仇討ちの助太刀が大好きな助六(真田広之)が助太刀の礼に15両もらい、故郷に帰ってくる。村ではちょうど仇討ちが始まるところ。助六はいつものように助太刀を買って出ようとするが、どうも勝手が違う。仇は7年前、同僚を斬った関八州の役人で、それを弟2人と助太刀の素浪人2人が討とうとしている。その仇とされる片倉梅太郎(仲代達矢)は村の棺桶屋にいた。風貌はちっとも悪人には見えず、仇らしくない。棺桶屋のじいさん(小林桂樹)は片倉を以前から知っているようだ。助六と片倉との間にほのかな交流が芽生えたところで、片倉は助六を気絶させて表に出る。多勢に無勢で片倉は倒される。目を覚ました助六はふとしたことで片倉の正体を知り、じいさんを問いつめる。事の真相を知った助六、片倉の仇を討とうと立ち
上がるが…。
助太刀は好きだが、人は殺めない助六の刀は赤くさびている。それを墓石で研ぐシーンには助六の気持ちがこもっている。岡本喜八は重い気分を軽く描き、軽妙洒脱な映画に仕上げた。ジェリー藤尾と真田広之ではキャラクターが違うし、主人公の役柄は20代の役者が演じたいところなのだが、真田広之、なかなか頑張っていると思う。助六の幼なじみで番太(役人)を演じる村田雄弘もコミカルな味わいでうまい。ラストを変えた脚本は正解。主人公が死んでしまっては軽快な映画に水を差すところだった。
音楽は「ジャズ大名」でも組んだ山下洋輔。アバンタイトル部分は真田広之が脚本も含めて任されたという。ここには竹中直人、伊佐山ひろ子、嶋田久作、佐藤允、天本英世などがカメオ出演しており、楽しい。
2002/02/12(火)「オーシャンズ11」
「オーシャンと11人の仲間」(1960年、ルイス・マイルストン監督)のリメイク。ラスベガスの豪華ホテルの金庫に眠る1億5000万ドルを刑務所から出所したばかりのダニエル・オーシャン(ジョージ・クルーニー)と11人の仲間が盗もうとする。スティーブン・ソダーバーグの前作「トラフィック」とは全く異なる軽い仕上がり。
ホテル王ベネディクト(アンディ・ガルシア)を騙すコンゲーム的要素があるので観客にも罠を仕掛けてくる。ただ、これも軽い仕掛け。盗みの作戦自体は「スパイ大作戦」を思わせる。ソダーバーグはソフィスティケートな映画を目指したという。盗みだけではドラマティックにならないので、オーシャンと別れた妻(ジュリア・ロバーツ)との関係を味付けにしているのがポイント。これがよく効いている。メンバーを紹介する序盤は単調だけれど、盗みの作戦が始まる中盤から面白く、長い描写を持たせる工夫を懲らしている。過不足なく楽しめる水準作というところか。
マット・デイモンやブラッド・ピットは相変わらずうまい。オーシャンたちに協力する元ホテル経営者役でエリオット・グールドが出演。老けましたねえ。一目ではだれか分からなかった。
2002/02/12(火)「蝶の舌」
「地獄はあの世にあるんじゃない。人の憎しみと残酷さが作るものだ」。小学校のドン・グレゴリオ先生(フェルナンド・フェルナン・ゴメス)が8歳の少年モンチョ(マヌエル・ロサノ)に話す。ラストを予告するようなセリフである。
映画は1936年、スペイン内戦が始まろうとする時代を背景に、モンチョの目から見た村の様子が描かれていく。現政権の共和派と国王派(軍部)の間で既に不穏な空気は流れているが、田舎の村の風情はのどかだ。モンチョは喘息持ちのため学校に入学するのが遅れ、学校の先生から叩かれるのを怖がっていた。そんな心配をよそにグレゴリオ先生はモンチョを優しく包み込む。自由と自然を愛するグレゴリオ先生がじっくりと描かれると同時に、中国娘に憧れ、バンドの旅先で口のきけない娘にほのかな恋心を抱くモンチョの兄や村人たちの日常が描かれていく。
平和な日常の描写が十分なので、それが一変するラストは強烈な印象となる。モンチョの父(ゴンサロ・ウリアルテ)が同志であるグレゴリオに向かって顔をくしゃくしゃにしながら「アカ、裏切り者、アテオ(不信心者)」と罵声を浴びせる描写には胸を打たれる。叫ばなければ、自分が殺されるのである。
ファシズムと民主主義(共産主義)の戦い。国民を引き裂く戦いやイデオロギーに支配される時代は不幸だ。監督はホセ・ルイス・クエルダ、音楽は「オープン・ユア・アイズ」のアレハンドロ・アメナバル。マヌエル・リバスの原作は97年のスペイン文学賞最優秀賞受賞という。キネ旬7位。