2002/10/22(火)「ノー・マンズ・ランド」
ボスニア・ヘルツェゴビナの戦争を描いて、今年のアカデミー外国語映画賞を受賞した。中間地帯(ノー・マンズ・ランド)の塹壕にボスニア人とセルビア人の3人が取り残される。1人の体の下には地雷が埋められて、身動きできない状態。互いにいがみ合うが、そのうち共通点が見つかるものの、やっぱりふとしたことで対立する。国連軍が駆けつけて救出を図り、マスコミも押し寄せて塹壕の中が報道される。不条理なシチュエーションで描く風刺劇である。
「殺戮に傍観者はあり得ない。傍観は殺戮に加担することだ」というメッセージは分かるし、国連軍がただの一人も助けることが出来ない存在であることへの風刺や皮肉もよく分かるのだが、「OUT」のようなストレートな映画の後に見ると、分が悪い。傑作なのは認めますが、今ひとつ心に響かなかった。
2002/10/22(火)「OUT」
桐野夏生のベストセラーを「愛を乞うひと」の平山秀幸監督、鄭義信(チョン・ウィシン)脚本のコンビが映画化。原作は未読だが、脚本は重苦しい原作の雰囲気を払拭するよう努力したそうだ。その成果で、これは生活に疲れた中年女性が日常からOUTしていく様子を描いて見応えのある映画に仕上がった。原田美枝子と倍賞美津子が日常をどんどん踏み外していく様子はブラックなユーモアを交えて描かれ、だからといってリアルさも失わず、「テルマ&ルイーズ」を思わせる。優れた映画化だと思う。
中盤、ヨシエ(倍賞美津子)が「知床のオーロラが見たい」と夢を語る場面がある。毎日10円ずつ貯金すれば、1年で3650円、10年で3万6500円になる。それぐらいあれば、ちょっとした旅行ぐらい行ける。しかし義母の介護を続けながら弁当工場で働くヨシエには暇も金もなく、それは単なる夢よ、と雅子(原田美枝子)に笑って話すのだ。ここは2人の女優の演技がバチバチと火花を散らす名場面。そして、雅子は終盤、その夢を引き継ぐようにオーロラを目指して北海道へ向かうのだ。
もともとは夫から暴力を受け続けている弥生(西田尚美)が発作的に寝ている夫を殺してしまったことが発端。この場面、この映画にとってはそんなに重要じゃないよ、という感じでてきぱきと進む(DVなんかがテーマではないのだ)。弥生から泣きつかれた雅子は死体を預かり、捨てるために解体する羽目になる。1人での解体はとても無理で、“師匠”のヨシエに協力を頼む。この解体シーンは映画のポイントなので、描写もしっかりしているうえにおかしい。雅子は死体の首に包丁を押し込んだ瞬間、絶望的な日常から足を踏み外したのだ。死体の解体にはたまたま雅子に金を借りに来た邦子(室井滋)も巻き込み、こうしてそれぞれに不幸な女4人は共犯関係になってしまう。
4人の女優それぞれにいいが、やはり原田美枝子と倍賞美津子が出色。特に原田美枝子はこれが代表作になるのではと思える。消費者金融の十文字(香川照之、相変わらずうまい)から口説かれて、まんざらでもない様子をうかがわせる場面(家に帰ってペティキュアを塗る)もいいが、十文字が福岡へ向かうバスの中からかけた別れの電話に「キスぐらいしておけばよかったわね」と答える場面とか、中年女性の貫禄という感じである。
惜しいのはブラックユーモアが先走りしすぎた場面があることで、原作ではどうなっているのか知らないが、死体解体の腕を見込まれてビジネスにするあたりがちょっと浮き足立ってしまった(「年寄りは脂肪が少ないから楽ね」という倍賞美津子のセリフがおかしい)。しかし、平山秀幸の演出は夢に向かって進む原田美枝子に十分な説得力を持たせており、口をきかない息子とリストラされた夫を持つ中年主婦の息苦しさから解放されていく様子が映画の気持ちよさにつながっている。主人公の行く末は決して安楽なものではないのだが、希望を持たせたまま終わるラストはだから当然の処理といっていい。平山秀幸は「9デイズ」のジョエル・シュマッカーよりもユーモアとリアルの案配をよくわきまえていると思う。ユーモアは人柄からにじみ出るもので、必然的に人間を深く描く必要があるのだ。
北海道からアラスカへと、オーロラへの夢を膨らませる雅子は、オーロラを見ても何も変わらないことを知っている。しかし何か目的を持つことが明日への力になること、退屈な日常から飛翔する手段になることを雅子は同時に知っているのである。その姿は「明日に向って撃て」のポール・ニューマンとロバート・レッドフォードを思い起こさせ、平山秀幸の世代を考えれば、これはきっとアメリカン・ニューシネマあたりをも意識しているのではないかと思えてくる。生活に疲れた中年女性は必見でしょう。
2002/10/21(月)「9デイズ」
予告編ではテロリストの手に渡った核爆弾を9日間の期限内に取り戻すシリアスな話のように描かれていたが、本編はまったく違う。殺されたエージェントの身代わりを務めるため、その双子の弟が9日間で訓練を受ける(双子の弟がいるとは実に都合の良い設定だ)。テロリストとの交渉はそこから始まるわけで、なんで「9デイズ」というタイトルなのさ、という感じである(原題は“Bad Company”)。
主人公を演じるのはスタンダップ・コメディアン出身で、「サタデー・ナイト・ライブ」で人気を得たクリス・ロック。もともとの設定がコメディにしかならないような類のものなので、コメディタッチで作れば良かったものを、ジョエル・シュマッカー監督の演出はほとんどシリアス(この監督は「セント・エルモス・ファイアー」とかシリアスな映画の方がいい)。主人公を代えるか、監督を代えるかしなければ、成立しない映画である。
だいたい、クリス・ロックとアンソニー・ホプキンス(CIAで作戦の現場指揮を務める)という組み合わせがまずダメである。ホプキンスをキャスティングしたのは映画興行の保険みたいなものだろうが、ホプキンスはシリアス、クリス・ロックはコメディ路線を勝手に進むだけだから、バランスが悪いことこの上ない。クリス・ロック自身、映画の主演を張るほどの風格はないし、字幕がセリフの面白さを伝えていないことを差し引いてもほとんど退屈である。
冒頭のエピソードから描き方の手際が悪いが、話がその後ちっとも面白くならないので、後半に連続するアクションは見ていて虚しいだけ。ジョエル・シュマッカーという人はつくづくB級から抜け出せない人だな、と思う。
パンフレットにあるホプキンスのインタビューを読むと、ホプキンス自身、まったくこの映画に愛着を持っていないことがよく分かる。エージェントから勧められたので出たのだそうだ。そう、金のためだけに出たんですよ、きっと。
2002/10/11(金)「宣戦布告」
グッドタイミングというか、バッドタイミングというか。映画会社にとっては社会的な話題が加わってヒットにつながるのなら、グッドタイミングだろう。明らかに北朝鮮がモデルの北東人民共和国の潜水艦が福井の海岸に座礁して乗組員11人が山中に逃げ込むというのが発端。乗組員は特殊工作員らしく警察の武器では歯が立たない。自衛隊の出動になるが、そこまでの法的手続きクリアに大きな困難が伴う。自衛隊が出動すれば、北は“宣戦布告”と見なす、と政府首脳の間では侃々諤々の論議となる。加えて射撃にも許可、手榴弾使用にも許可、ヘリのバルカン砲使用にも許可が必要で、許可を待っている間に警察官や自衛隊員はバタバタと敵の銃弾に倒れる。ただ、許可が必要なのは当たり前のこと。勝手に銃撃戦を始められたら、シビリアンコントロールの意味がなくなる。
映画はクライマックスにアメリカ、中国、韓国、台湾など周辺国が次々に戦闘態勢に入り、一気に緊張が高まる様子を描く。宣戦布告もなく戦争が始まろうとしているのだ。しかし、この緊張感は長く続かず、そこからの描写がやや腰砕けになってしまう。前半から描写は荒っぽいし、全体としては「トータル・フィアーズ」の縮小版のような感じである。
主人公は古谷一行演じる諸橋首相。これは政府の立場から有事の際の日本の弱さを描いた映画で、有事法制推進映画と受け取られてしまいかねない。(そんな主張もあるのかもしれない)。北の目的は最後まで分からない。仮想敵国としてだけ描くのでは「トータル・フィアーズ」よりも後退した作りである。周辺事態のシミュレーションならば、もっと緻密な組み立てが必要だっただろう。
麻生幾の原作を石侍露堂(せじ・ろどう)監督が映画化。昨年のうちに完成していたという。監督はパンフレットに、(完成して間もなく起きた米同時テロによって)「時代遅れの映画が一夜にして『現代の映画』になったのです」と書いているが、それを言うなら、昨年暮れの不審船事件の方だろう。内閣調査室が北のスパイを追う過程を見せる(白島靖代の金で雇われた女スパイがよろしい)サブプロットは悪くない。エンタテインメント志向も買う。しかし、これぐらいのレベルで誉めてはいけないと思う。
2002/10/07(月)「ロード・トゥ・パーディション」
マフィアのボスの息子と父親の殺人の場面を見たために、マフィアに追われることになる父と息子の物語。妻と次男は殺され、父親は復讐を誓い、長男とともに逃亡生活をしながら反撃に出る…。「アメリカン・ビューティ」のサム・メンデス監督は実にオーソドックスな物語をオーソドックスかつ映画的技法を駆使して、立派な作品に仕上げた。言うまでもなく、「アメリカン・ビューティ」より完成度は上であり、話の行く末は分かっていながらも、深い感銘がある。
特に感心したのは映画的な技術を過不足なく使っていることで、例えば、殺し屋のジュード・ロウが登場する場面の逆ズーム(トラックバックしながらのズームアップ)とか、ここぞという場面のアクセントとして実によく決まっている。あるいはジュード・ロウとダイナーで対峙するトム・ハンクスのこめかみをゆっくりと流れる一筋の汗、長い逃亡生活を反映したワイシャツのえりの汚れなど、映画でなければ表現し得ない見せ方をメンデスは各所に駆使している。メンデスは演劇出身だが、映画的な技法を十分に身につけており、今やこういうオーソドックスな監督の方が少なくなってしまったからとてもとても貴重な存在である。
話としてはありふれてはいるのだが、アメリカの田舎の農家の夫婦を出してきて、古き良きアメリカを感じさせたり(この老夫婦が再び顔を出すラストは絶対そうなると分かっていながらも涙、涙である)、父親と息子の誤解と愛情の深さをクライマックスの前に十分に描き出したりとか、メンデスの演出は緩急自在かつ間然とするところがない。
これに加えて、トム・ハンクス、ポール・ニューマン、ジュード・ロウの演技の凄さ。二枚目のジュード・ロウはよくぞここまでという感じの怪演で、儲けどころの役柄をきっちりと演じきっている。息子役のタイラー・ホークリンも繊細な感じがよく、トーマス・ニューマンの音楽も素晴らしく、美術、撮影、衣装に至るまで充実しまくりの映画。父親と息子の関係を核にもってきたことで、大衆性までも備えており、これはもうロード・トゥ・オスカーは間違いないのではないかと思える。「アメリカン・ビューティ」でのアカデミー受賞はフロックではなかった。メンデスはこの映画で本当に一流監督の仲間入りをしたと思う。