2004/06/22(火)「天国の本屋 恋火」
ベストセラーの「天国の本屋」とその第3作「恋火」を元にしたファンタジー。篠原哲雄監督作品としては同時期に公開となった「深呼吸の必要」よりは落ちるが、違和感のないファンタジー自体が邦画には珍しいことなので、まず合格点の出来といっていいのではないかと思う。
問題はラブストーリーのようでそうではなく、ファンタジーであること以上に話が発展していかないことか。恋火とは“恋する花火”のことで、それを一緒に見た男女は結ばれるといわれる。だから、ラストで恋火が打ち上げられる場面は、ようやく地上で出会った主人公2人の行く末を暗示していていい感じなのだが、この2人の話をもっと見たい気になってしまうのだ。本屋の店員で、自殺しようとしていたところを天国に連れてこられた由衣(香里奈)のエピソードは、これそのものは良いし、「天国の本屋」という話には必要であるにしても、「恋火」には不要に思える。こういうエピソードを描くのであれば、事故で花火を捨てた元花火師がもう一度、恋火を打ち上げるに至った心境の変化を詳しく描いた方が良かったと思う。話の訴求力に欠ける部分があるのは2つの原作を合わせた結果なのだろう。
主人公の町山健太(玉山鉄二)はピアニスト。オーケストラをリストラされ、居酒屋で飲んだくれていたが、目を覚ますと、天国に来ていた。ヤマキと名乗る男(原田芳雄)が天国の本屋にアルバイトとして連れてきたのだ。仕方なく本屋のバイトを始めた健太のところへある日、見覚えのある女性が来る。その女性、桧山翔子(竹内結子)は、健太が子どものころに演奏を聴いてピアニストを志すきっかけとなった女性だった。翔子は花火の暴発事故で左耳の聴力を失い、ピアニストをやめて失意のまま病死したのだった。一方、地上では翔子のめい長瀬香夏子(竹内結子)ら商店街の青年会メンバーが12年ぶりの花火大会を企画していた。“恋する花火”の伝説を聞いたは香夏子はその花火の製作者で、今は花火師をやめている瀧本(香川照之)の元を訪ねる。しかし、瀧本はすげなく断る。瀧本と翔子は恋人同士だったが、事故が原因で別れ、それ以来、瀧本は花火の仕事をやめた。
映画はピアノをやめた翔子が健太との交流で未完のピアノ曲「永遠」を完成させていく様子と、地上での花火大会実現へ取り組む香夏子の姿を交互に語っていく。クライマックス、地上に戻った健太と天国の翔子が弾く「永遠」の調べと恋火が夜空を焦がすシーンはなかなかよくまとまっている。こういう良いクライマックスにするのなら、やはり「恋火」の部分をもっと詳細に語った方が良かったと思う。
「黄泉がえり」「星に願いを。」に続いて竹内結子は健康的な魅力を見せ、二役を無難にこなしている。玉山鉄二も好青年ぶりがよろしい。このほか、香川京子や原田芳雄、桜井センリ、根岸季衣、大倉孝二らがそれぞれに好演している。
2004/06/18(金)松下竜一さん死去
17日午前4時25分、肺出血の出血性ショックのため死去した。67歳。
「ルイズ-父に貰いし名は」(1982年)で第4回講談社ノンフィクション賞受賞。市民運動家としても知られたが、僕にとっては「狼煙を見よ 東アジア反日武装戦線“狼”部隊」(1987年)の作家としての認識が強い。
この傑作ドキュメントは獄中で「豆腐屋の四季」(1969年)を読んでいるという死刑囚・大道寺将司との交流をきっかけに大道寺ら東アジア反日武装戦線の行動を綴ったもの。70年安保の時期に貧しく厳しい青春を送る青年を自伝的に描いた「豆腐屋の四季」が優等生的に評価されたことの反発もあって、松下竜一は大道寺の歩みを振り返る。
連続企業爆破テロを行った東アジア反日武装戦線は連合赤軍と一緒くたにされることが多いが、これを読むとその思想の一貫性がよく分かる。ただ、聖書のファンダメンタリストと同じように思想を徹底すると、現実とそぐわない部分が出てくるのかもしれない。
松下、大道寺の2人がその後、交流を断つのはそういう部分に起因しているような気がする。
2004/06/15(火)「深呼吸の必要」
「お医者さんなんでしょっ。助けてあげてっ」と、ひなみ(香里奈)に言われた池永(谷原章介)が意を決して、足に大けがをした田所(大森南朋)の治療に当たる場面でなんだか涙がにじんだ。池永はその後、ひなみに自分が小児外科医で死んでいく子供を見送ることが耐えられずに宮古島に来たことを打ち明ける。子供が好きで小児科医になったのに、それ以上に子供の死ぬ姿を見なくてはいけないつらさ。それがサトウキビ刈りのバイト(きび刈り隊)に参加した理由だった。
東京からきび刈り隊に参加した5人と全国の農家を渡り歩く田所と宮古島出身で帰郷した美鈴(久遠さやか)の7人の男女の物語。7人の男女はそれぞれ何かから逃げてきたらしい。池永と手首に傷のある無口な加奈子(長澤まさみ)とニヒルな大学生の西村(成宮寛貴)のエピソードがそれを物語るけれど、この映画で描かれるのは7人がただただキビを刈り、次第に交流を深めていく姿である。
35日間で7万本のキビを刈る。広大なサトウキビ畑を前にして到底無理と思えたことが、自発的に1時間早起きして遅くまで作業することで達成されていく。最初は自分のために参加した7人が、人の良いおじい(北村三郎)とおばあ(吉田妙子)のために期限内に刈り終えようと変わっていく姿には胸を打たれる。
映画はドラマティックなものをことさら強調せず、きび刈り隊に参加した男女の成長を描くとか、そういう部分も希薄である。7人の間にはロマンスさえ生まれない。なのに見ていてとても心地よく、感動的だ。メチャクチャ気持ちのよくなる映画である。
映画の元になったのは長田弘の詩集「深呼吸の必要」だが、物語はもちろんオリジナルである。篠原哲雄監督はこの映画の脚本について、こう語っている。
「脚本は、あの島にやってくる7人7様の物語を、最大限語るという方法からスタートし、そこから映画的にどのように削ぎ落とし、省略し、簡潔に語るかという方向性をずっと試行錯誤して決定稿に近づいて、というやり方でした」(キネマ旬報2004年6月上旬号)
きちんと背景を作った上で、それを削除していく作業。画面には直接描かれなくても、それは画面からにじみ出ることになる。そういう作業を経ているからこそ、この映画は洗練されているのだ。泥臭い感動の押し売りではなく、さわやかに人の心を動かすことはなかなか難しいことなのである。
「朝は来るんだなあ。…いっぱい働いて、たくさん食べて寝れば、必ず朝は来るんだなあ」。それまで何も話さなかった加奈子が終盤そう言うあたりに監督の主張はさりげなく込められているのだろう。
7人の俳優たちがいい。だれか一人だけいいというのではなく、全体としていい。6日目であまりの重労働に音を上げて、きび刈り隊を脱けようとする悦子(金子さやか)を含めて全員が素直な演技なので好感が持てた。
2004/06/08(火)「21グラム」
それぞれの場面をシャッフルした後に再構成したように時間軸を前後に動かして物語を語っている。アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督の前作「アモーレス・ペロス」を僕は未見だが、これも同じ構成という。この構成にどんな意味があるのかよく分からない。例えば、クリストファー・ノーラン「メメント」やクエンティン・タランティーノ「パルプ・フィクション」には時間軸を動かすこと自体に意味があったが、この映画の題材の場合、普通に語っても何ら構わないはずである。主演3人の演技を含めてかなりの力作であり、寂寥感漂う厳しさを備えた映画ではあると思うが、この構成は気になった。
交通事故で夫と娘2人を亡くしたクリスティーナ(ナオミ・ワッツ)と、その事故を起こしたジャック(ベニチオ・デル・トロ)と、クリスティーナの夫の心臓を移植されたポール(ショーン・ペン)の物語。クリスティーナは薬物中毒を乗り越えて幸せな生活をしていた矢先に家族を失う。ジャックは前科のある生活から足を洗い、真面目に信仰心篤く暮らしていた時に事故を起こす。ポールは余命1カ月と宣告されていた時に心臓移植を受けるが、その心臓も拒絶反応を起こしていたことが分かる。3人それぞれに不幸と孤独に苛まれている。クリスティーナは家族を亡くしたから孤独なのだが、あとの2人は妻がいても妻子がいても基本的に分かり合えないものがあって、孤独なのだ。「それでも、人生は続く」“Life is just going”というセリフを3人とも慰めの言葉としてかけられるけれど、そんな言葉ではどうしようもないほど3人の絶望は深い。
その3人が出会った時に何が起きるのか、というのが映画のクライマックスとなる。ただし、映画は最初の方で3人に何が起きたかをワンカットだけ見せる。それはミステリ的な興味を観客に持たせる意味合いはあるにしても、物語の悲劇性や観客のショックを薄める効果としても作用してしまう。題材と手法が合わない。本格の題材を変格で語っている。この手法に観客の目をくらませる以上の意味はない。端的に僕はそう思う。物語をどう語るかに腐心することは大事なことだけれど、それを余計に感じる題材というものもあるのだ。
孤独を共有しているからこそ、クリスティーナとポールは惹かれ合う。2人が惹かれ合うのは恋愛感情のためではなく、仲間意識みたいなものだろう。そしてこれとは対照的にクリスティーナが幸せを奪ったジャックに憎しみを抱くのは当然のことだ。「右のほほを打たれたら、左のほほを出せ」という聖書の教えを忠実に守るジャックはクライマックスでもその教えを守ることになる。ただ、僕はこのクライマックスも突然、21グラム云々のナレーションが流れるラストの処理にも物足りなさを感じた。イニャリトゥ監督は構成に凝るより、物語をもっと突き詰めることに時間を割いた方が良かったと思う。
ナオミ・ワッツが分かりやすい熱演なのに対して、デル・トロとペンの演技は奥が深く、見応えがある。観客が感動するのは題材よりも細部なので、この3人の繊細な演技が映画を支えているのだと思う。
2004/06/08(火)「デイ・アフター・トゥモロー」
SPFXという懐かしい表記もあったが、映画のクレジットに流れるビジュアル・エフェクトスタッフの数の多さに驚く。これだけのスタッフを動員して、リアルな竜巻や津波、吹雪、氷の世界を描き出したわけであり、ビジュアルだけが眼目としか思えないほどストーリーは恐ろしく簡単なものである。
地球温暖化の影響で極地の氷が溶け、海水に流入したことで、海流の流れが変わり、それが異常気象を引き起こして、結果的に氷河期が訪れる。ローランド・エメリッヒ監督はこのプロットに、事態を予見した古代気象学者の主人公(デニス・クエイド)がニューヨークの氷の世界に閉じこめられた息子(ジェイク・ギレンホール)を救出しようとする姿を加えて、映画を構成している。ちょうど昨年の今ごろ公開された「ザ・コア」では科学者たちが止まってしまった地球の核の流れを動かそうとする姿を描いて失笑するしかない内容に終わっていたが、さすがにエメリッヒはそんなバカではない。もう最初から最後までビジュアルに徹している。
水を使ったVFXが難しいと言われたのは昔の話のようで、この映画で描かれるニューヨークを襲う巨大な津波のシーンは見事なものである。氷の世界となったニューヨークの風景も面白い。しかし、そうしたビジュアル面に感心しながらも、やはりこんなにストーリーが簡単では、映画としての深みには欠けてくると思わざるを得ない。大統領が最後に取って付けたように温暖化問題啓発の演説をするけれども、京都議定書の批准さえしなかった国であるから説得力を著しく欠く。人に言う前にまず自分で実行しろ、と思えてくるのだ。
そう、本来ならば登場するはずの悪役がこの映画に一人も見あたらないのは温暖化問題の真の悪役がアメリカ政府であり、企業であるからにほかならないだろう。メジャーの映画であるため、最初から批判の姿勢は封じ込められており、なんとなく映画に勢いが感じられないのはそのためでもある。技術的には一流、話は三流なのである。
今年24歳のジェイク・ギレンホールが高校生の役を演じるには少し無理がある。そのガールフレンド役エミー・ロッサムにちょっと注目。