2004/05/11(火)「フレディVSジェイソン」

 エルム街の人々に忘れ去られたために力を失ったフレディ・クルーガーが復活しようと、クリスタルレイクの殺人鬼ジェイソンをエルム街に連れてくる。だから最初はフレディwithジェイソンであり、現実でも夢の中でも人々は恐怖に陥る。恐怖はフレディを強くするのだ。

 しかし、ジェイソンが手当たり次第に殺し始めたため、これでは自分への恐怖が不十分と怒ったフレディがジェイソンを倒そうとして、フレディVSジェイソンになる、という話。例によって例のごとくの展開。結末も予想通り。

 殺人鬼が2人出てきても2倍の恐怖にはなりませんね。というか、もともとどちらの映画も怖くない。面白かったのはどちらも1作目だけという点でも共通している。

2004/05/10(月)「世界の中心で、愛をさけぶ」

 「ロボコン」で魅力を見せつけた長澤まさみの主演第2作。と、言い切ってしまっていいだろう。物語はサク(大沢たかお)の視点で語られるが、映画を背負っているのは長澤まさみである。その証拠に長澤まさみが画面から消えた後は途端に魅力がなくなってしまう。いや、もっと正確に言うと、長澤まさみ演じるアキが白血病で入院してからは、話自体が類型的なものになり、面白みに欠ける。

 白血病(ほかの難病でも同じ)を話の軸に使うというのは劇中、アキが非難するように本当の病気の人の身になって考えれば、ひどい話であり、映画としてみても手あかのつきまくった設定である(これは原作がそうなっているのだから仕方がない)。行定勲監督は映画化に当たって、原作にない大人のサクとその婚約者律子(柴咲コウ)のストーリーを付け加えた。片足の不自由な律子もまた、サクとアキの過去につながっていく女性であり、2人はそれぞれ故郷の高松に帰って、過去を振り返り、過去へのオトシマエを付けることになる(行定監督によると、律子が足を引きずるのと過去を引きずるのは同じことという。なるほど)。この脚色はうまいと思うのだが、極めて残念なのは現在のパートが高校時代のサクとアキのパートに負けてしまっていることだ。

 引っ越しの荷造りの最中、突然、家を出た婚約者の律子が高松にいることを知ったサク(大沢たかお)は通りを走る。その大沢たかおの足が港の防波堤を走る1986年のサク(森山未來)の足に重なって、過去の話となるジャンプショットは映画らしい手法である。台風が近づき、曇り空の現在に比べて高校時代の夏は光り輝いている。サクは校長先生の葬儀で弔辞を読んだアキに目を止める。アキは美人で頭が良くてスポーツ万能。劣等生のサクには手が届かない存在に思えたが、ふとしたことから2人には交流が生まれる。交換日記の代わりにカセットテープに声を吹き込んで交換したり、深夜放送でどちらの葉書が先に読まれるかを競ったり。2人は夏休みの思い出に無人島への一泊旅行をする。このあたりのゆっくりと愛が育まれる描写が心地よい。森山未來は少しもハンサムではないけれど、実直な感じに好感が持てる。2人の夢のような幸福は永遠に続くと思えたが、無人島から帰る日、アキは倒れてしまう。アキは白血病に冒されていたのだ。

 この過去のパートは恐らく、長澤まさみではない他の女優が演じていたら、どうしようもないお涙ちょうだいものにしかならなかったはずだ。ところが、長澤まさみが実に魅力的に演じきってしまい、もうここだけでいいと思えてしまう。あとの部分は付け足し。そんな感じである。もちろん、映画の中でも“後かたづけ”と表現されている。

 2時間18分が長い映画ではないけれど、気になるのはサクと律子がどうやって知り合ったのか、律子はあのテープをなぜ引っ越しの荷物の中から見つけるまでサクに聞かせなかったのか、ということ。まさか忘れていたわけでもないだろう。そのあたりは現在のパートに説得力を持たせるためにも必要な描写だった。といって、そのあたりを詳しく描くと、魅力的な過去のパートを削る必要が出てくる。難しいところだ。

 過去を包み込むようにして構成された脚本自体は悪くないし、出演者たちもそれぞれに好演している。しかし、出来上がった映画を傑作と呼ぶのにはためらいが残る。凡庸ではないけれど、特別に優れた映画でもない。たぶん、話の軸足を現在に置くか、過去に置くか、監督にも踏ん切りが付かなかったのではないか。

2004/05/09(日)「星に願いを。」

 香港映画の「星願 あなたにもういちど」を日本風にアレンジした作品(函館で全編ロケ)で、オリジナルに比べると、かなり落ちるらしい。

 交通事故で死んだ笙吾(吉沢悠)は流星の力で数日間だけ再び生きることを許される。ただし、自分の正体を知られた瞬間に消えるという条件付き。笙吾はかつて交通事故に遭って、視力と声を失い、自暴自棄になったが、看護婦の奏(竹内結子)に支えられて生きる意欲を取り戻した過去がある。その奏と愛が芽生え始めたのを自覚したところで、死んでしまうのだ。生き返った笙吾は自分の生命保険3000万円を思い出し、保険会社の社員を装い、アメリカに行きたがっていた奏を受取人にしようと画策する。しかし、絶望に沈む奏にとって、見ず知らずの男は迷惑なだけで、拒絶される。

 「天国から来たチャンピオン」のように笙吾は生前とは違う姿で生き返るが、どんな風貌なのか映画を見ている者には分からないのがつらいところ。良いところもあるのだけれど、隅々まで気を配っていない作りが惜しい。吉沢悠の目が見えないようには見えないとか、交通事故を3度も出すのはどういうわけだとか、いくらなんでもリハビリのシーンであの暴力はないだろうとか、所々に引っかかる部分がある。

 竹内結子は「黄泉がえり」とは立場を逆にした役柄。彼女はナチュラルな感じがいいのだから、過剰な演出は不要だろう。監督は冨樫森。もっと細やかな作りが欲しいところだ。

2004/05/08(土)「スクール・オブ・ロック」

 主に小学校高学年から高校生ぐらいまでをターゲットにした映画だろう。といっても70年代のロックが中心だから、大人でもまず楽しめる。

 ロックバンドを首にされた歌手のデューイ(ジャック・ブラック)は居候している友人ネッド(マイク・ホワイト)から滞納している家賃の支払いを迫られる。ネッドにかかってきた電話を受けたデューイは稼ぐためにネッドになりすまして名門私立小学校の代用教員になる。しかし、何の資格もないデューイに授業ができるわけがない。最初は休憩時間ばかりにしていたが、音楽の時間に生徒たちの音楽の才能を見たネッドは、ロックの演奏を教え、バンドを組んで、ロックコンテストに出ようとする。

 ジャック・ブラックは「愛しのローズマリー」よりも適役。元々ロックが得意だそうで、おかしな演技とともに本領発揮という感じである。生活能力はまるでないダメ人間だが、ロックに対してはだれにも負けない情熱を傾ける。笑いと本気に境目がないブラックの演技は面白い。小学校の厳しい女性校長を演じるのがジョーン・キューザック。もうそんな役をする年齢かとも思うが、やはりこの校長も元はロック好きという設定で、パブでジュークボックスのロックを聴いてノリノリになったりする。やはりいつものキューザックなのである。

 ロックがすべてを解決するというのは、ロックファンにとっては言うことないだろうが、楽天的にすぎる展開とも思う。クラスに音楽の才能がある生徒が多いのは不自然とか、3週間も授業せずにすませられるわけがないとか、マイク・ホワイトの脚本には穴も目立つ。それをあまり感じさせないのはブラックの好演に加えて、監督のリチャード・リンクレイターのテンポのよい演出があるからだろう。

 ニューズウィークは昨年のトップ10の1本に選んだそうだが、僕はそこまで評価はしない。もう少し大人向けに作って欲しかった。

2004/05/08(土)「死に花」

 「ジョゼと虎と魚たち」で大いに評価を上げた犬童一心監督の新作。老人ホームに暮らす4人の男たちが、死んだ仲間の残した計画を実行して銀行から現金を強奪する、というコメディで、主演は山崎努、青島幸男、谷啓、宇津井健。これに銀行近くの河川敷に住むホームレスの長門勇が加わる。青島幸男や谷啓が主役級で出る映画というのも久しぶりで、1960年代から70年代初めのコメディを思い起こさせるのだが、残念ながら、青島はともかく谷啓にはあまり目立った場面はない。

 死ぬ前にもう一花咲かせようという理由で話が進む中盤までは、「ジョゼ…」のような描写の素晴らしさは見あたらず、やや退屈だった。なぜ、銀行から現金を奪わなければならないのかという理由が宇津井健の銀行への個人的な恨みを交えて説明されても、説得力に乏しいのである。途中で温泉旅行に出かける山崎努と松原智恵子の描写など、もう少し本筋に絡める工夫が必要だと思う。なかなか本筋に移行しない前半の描写は(出演者やスタッフからの敬意が感じられる森重久弥の登場場面を除けば)緩いし、本筋に移ってからも、目新しいエピソードがないのはつらい。台風の中で現金強奪計画が進み、計画の真意が明らかになる終盤でちょっと盛り返した感じがする。前半は死を意識せざるを得ない登場人物たちの老いに焦点が当てられているのだが、恐らく1960年生まれの監督自身にも老いの実際は分かっていないだろう。「ジョゼ…」に比べて、あまり深みのない描写が多いのは仕方ないのかもしれない。

 太田蘭三の同名小説が原作(脚本は犬童一心と小林弘利)。東京郊外にあるぜいたくな老人ホームが舞台。夫婦仲の良かった源田(藤岡琢也)が急死し、妻の貞子(加藤治子)が後を追う。源田と仲の良かった元映画プロデューサーの菊島(山崎努)、穴池(青島幸男)、庄司(谷啓)、伊能(宇津井健)はショックを受ける。死を覚悟していた源田は「死に花」と名付けた計画を残していた。河川敷からサクランボ銀行支店まで20メートルの穴を掘り、現金を強奪する計画。死ぬ前にもう一花咲かせたいと思った4人は計画を実行することにする。河川敷に住むホームレスの先山(長門勇)も仲間に引き入れ、ホームのマドンナ的存在・鈴子(松原智恵子)の協力も得る。5人は老体にむち打って、穴を掘り続けるが、サクランボ銀行は近く合併し、支店は閉鎖されることになる。

 前半の描写を緩く感じるのは動機付けに乏しいからだ。ここはかつて銀行の不祥事の責任を負わされ、リストラされた宇津井健をもっと前面に持ってきて、動機付けをいったん観客を納得させた上で、ラストに計画の真意を明らかにするのが常套的だ。あるいは藤岡琢也に徹底的にみじめな死に方をさせ、老人への迫害を見返す展開にするとか。そうしたエモーショナルな動機付けを工夫すれば、劇場で目に付いた高齢者だけでなく、広い年齢層にアピールする映画になったのではないか。17億円強奪の計画にしては切実さが足りないのである。

 序盤と終盤に登場する森重久弥にセリフはないが(画面の外から声が聞こえるシーンがあるが、吹き替えではないか)、車いす姿が実生活と重なって、なんだか厳粛な気分になる。しかも、ただの顔見せ程度のゲスト出演に終わっていないのがいい。老人ホームの新人職員役の星野真里が老男女優の中で溌剌としたアクセントになっていてもうけ役だ。図書館の職員役で一場面だけ登場する戸田菜穂の使い方も含めて、犬童一心監督、女優の魅力を引き出すのは得意のようだ。