2004/02/13(金)「ダウン」

 ナオミ・ワッツが「マルホランド・ドライブ」の前に出た作品。元はオランダ映画「悪魔の密室」で、これはアヴォリアッツ映画祭のグランプリを受賞したそうだ。

 高層ビルのエレベーターが人を襲うという話。ホラーとしてはまったく怖くないが、エレベーターが人を襲う理由もきちんとあって、まあ意外にまともに作ってある。というか期待度ゼロで見たので、そう感じたのかもしれない。クライマックスにはVFXの炸裂が欲しいところ。マイケル・アイアンサイドがいつものような役柄で出てくる。ワッツは魅力全開とはいかないが、ファンなので眺めているだけでも満足。監督はオリジナルと同じディック・マース。IMDBの評価は4.8。オリジナルの方は6.3。

2004/02/12(木)「人間蒸発」

 失踪した婚約者を捜す女性を描いた今村昌平のノンフィクション(1967年)。いや確かに前半は早川佳江という女性と俳優の露口茂が消えた婚約者の足跡を追うノンフィクションなのだが、映画は後半、次第にノンフィクションを離れていく。そしてめっぽう面白くなる。婚約者捜しよりも姉と婚約者の関係疑惑に焦点が置かれ、内容がどんどん先鋭的になっていくのだ。クライマックス、路上に集めた関係者を前に「これはフィクションなんだから、フィクションなんだから」と強調する今村昌平がおかしい。唖然呆然の傑作。

 婚約者を一緒に捜しているうちに早川佳江は露口茂を好きになり、カメラを意識して女優みたいになっていくという過程も面白いのだが、姉を追及するシーンが白眉。「2、3回一緒に歩いているのを見た」という目撃証言を元に早川佳江は(女優のような風情で)姉に事実を問いただす。「私は覚えがない。一緒に歩く理由がないじゃない」と涙を流す姉に対して、早川佳江は「それなら、(目撃した人と会って)話してみてよ」と答える。そこへ目撃者と今村監督が現れ、「確かに見た」「覚えがない」の水掛け論が始まる。さらに驚くのは「セット壊せ!」の号令とともに部屋の壁や襖が外されるシーン。どこかの部屋かと思っていたのは撮影所のセットだったのだ。

 虚実皮膜という言葉が容易に浮かぶ。今村昌平は実を元に虚を組み立て演出しているのだが、それによって実の部分にある人間性が浮き彫りにされていく。この姉妹、幼いころから仲が悪かったそうで、追及シーンで長年の確執が一挙に噴出してしまうのだ。人間を見つめる視点は他の今村作品と同じように鋭く粘着質である。

 元々は「24人の失踪者」というタイトルでテレビ番組を製作する企画だった。題材となる失踪事件のうち、警察官に「探している人が美人だから」と早川佳江を紹介されて、撮り始めたら撮影期間が長くなり(7カ月)、これ1本で終わってしまったという作品。ATGが出資した第1回作品でもある。DVDの特典映像には天願大介による今村昌平のインタビューが収録されている。

2004/02/12(木)「嗤う伊右衛門」

 「恨めしや、伊右衛門さま」。

 隠亡堀で再会した伊右衛門(唐沢寿明)に岩(小雪)がつぶやく。これほど「恨めしや」が逆説的に響く映画はないだろう。岩は愛する伊右衛門のために自ら身を退いて家を出た。伊右衛門は上司の与力・伊東喜兵衛(椎名桔平)の命令で伊東の愛人・梅(松尾玲央)を妻に迎えるが、形式的な夫婦である。しかし、子供だけは、自分の血を分けた子供ではないのに大切にしている。なぜか、というのが映画の中核をなすもので、自分は身を退いたのに未だに自分を愛して、民谷家を守るだけで幸せにはなっていない伊右衛門の姿が岩には「恨めしい」のである。従来の「四谷怪談」なら恐怖の絶頂となるこのシーンを究極の愛の姿に変えた演出は素晴らしい。それにも増して小雪の演技が素晴らしい。顔に大きなアザを持ちながら、心に澱んだところがなく、前向きにまっすぐに強く生きていく女性を演じて「ラスト・サムライ」以上の充実感がある。

 京極夏彦の原作は7年前、発売と同時に読んだ(直木賞の候補にもなった)。印象に残っているのは、澱んだドブ川のようなどす黒い心を持つ伊東の極悪人ぶりである。原作は「四谷怪談」を語り直したもので、岩のアザは伊右衛門に毒薬を飲まされたためではなく病気のためで、伊右衛門はもちろん宅悦(六平直政)や直助(池内博之)も悪人ではない。境野伊右衛門は切腹を命じられた父親の介錯をした後、浪人に身を落とした。御行の又市(香川照之)から民谷家への婿入り話を持ちかけられ、岩の顔を見ることなく、夫婦となる。最初はふとした感情の行き違いからののしり合うが、次第に伊右衛門は岩のまっすぐな心情を理解し、互いに愛し合うようになる。かつて岩を差し出すように岩の父親(井川比佐志)に命じていた伊東にはこれが面白くない。伊東は奸計を企て、岩と伊右衛門の仲を引き裂く。

 「魔性の夏」以来23年ぶりの「四谷怪談」の映画化となる監督の蜷川幸雄は筒井ともみの脚本を得て、原作にほぼ忠実な映画に仕上げた。御行の又市が宅悦と棺桶をかついで走るシーンの夕陽に染まった赤い画面や伊東の屋敷にある大きな壺に挿された紅葉など演劇的な要素も盛り込まれているのだが、それ以上に蜷川幸雄は3作目にして代表作と呼べる映画を監督したなという感じである。俳優たちの一人ひとりがくっきりと描き分けられ、緊張感を伴うドラマを展開していく。

 ただ、贅沢を言わせてもらえば、純愛の描写が少し足りないと思う。このためクローネンバーグ「ザ・フライ」のようにグロテスクでも純愛というほどテーマが昇華してはいない。描き方にもよるのだが、直助が自分の顔の皮を剥ぐシーンやクライマックスの殺伐とした復讐シーンはもう少しあっさりしていても良かったのではないか。

2004/02/11(水)「千年女優」

 「東京ゴッドファーザーズ」がキネ旬読者のベストテンで3位に入った今敏監督作品。引退した女優・藤原千代子が取材にきたスタッフに自分の人生を語り始める。回想は女優が主演した映画と重なり、時代を超えていき、事実と映画が入り混じる。恋した男を時代を超えて追い求める女、という感じのストーリーに仕上がっている。全然設定は異なるが、たぶんブラッドベリの短編で、聖人に会いたい男が追いかけているのに数分(数秒)の差で絶対に追いつけないという話を思い出した。

 主人公は原節子がモデルのよう。「あしたのジョー」とか、パロディ的シーンもちらほら。面白い構成で語り口のテンポもいい。もう少しSFにシフトしていると、ずっと好みの映画になったかもしれない。SFに突き抜けていかない踏ん切りの悪さが惜しい。

2004/02/08(日)「ロード・オブ・ザ・リング 王の帰還」

 滅びの山に指輪を捨てに行くフロドとサムから冥王サウロンの目をそらすため、アラゴルン率いる軍隊がモルドールの黒門に攻撃を仕掛ける。このクライマックスには胸が震えた。「我々は破滅するかもしれない。しかし、それは今日ではない」。アラゴルンのセリフが力強く響く。

 指輪を葬り去らなければ、この世界に未来はない。到底かなわない数のオークの軍にアラゴルンやガンダルフやレゴラスやギムリたちは死を覚悟して最後の戦いを仕掛けるのだ。滅びの山でのフロドとサムの大変な苦難を同時に描くこのクライマックスは映画の完成度がどうこういうレベルを超えてひたすら感動的である。それはこの奇跡的なトリロジーに全精力を傾けたピーター・ジャクソンの思いが伝わってくるからだろう。第1部からこの第3部まで9時間を超える長い映画のどの場面でもジャクソンは手を抜かなかった。物語のうねりとスケールの大きなVFXの見事な融合。トリロジーの完結編としてまったく期待を裏切らない。志の高い立派な作品と言うほかない。

 映画はちょっと遡ってスメアゴルが指輪を手にするエピソードで幕を開ける。川の底で指輪を拾った友人を殺してスメアゴルは指輪を横取りし、次第に指輪の魔力に取り憑かれ、容貌を醜くしていく。指輪の邪悪な力を端的に表現した場面で、これはクライマックスのフロドの姿と重なるものである。フロドとサムをモルドールへ案内するスメアゴルは前作「二つの塔」での善と悪の葛藤を経て指輪を取り返すことしか頭になくなっている。

 巧妙に嘘をついて2人を仲違いさせ、フロドを大蜘蛛シェロブのいる洞窟へ連れて行く。一方、アラゴルンたちはサルマンの砦アイゼンガルドでメリーとピピンに再会。サウロンの軍隊がゴンドールへの進撃を計画していることを知り、セオデンの軍隊とともにゴンドールへ向かう。しかし、サウロンの軍勢に立ち向かうには兵士の数が足りない。裂け谷のエルフ、エルロンドから祖先イシルドゥアの剣を受け取ったアラゴルンはさまよう死者たちを味方にするため、レゴラス、ギムリとともに死者の谷に赴く。ゴンドールの都市ミナス・ティリスでは既に戦いが始まっていた。サウロンの大軍勢にはトロルと空飛ぶ怪物に乗るナズグルたちも加わっており、ガンダルフ率いるゴンドールの軍は次第に追い詰められていく。

 ミナス・ティリスの戦いは前作「二つの塔」の角笛城の戦いのスケールを数倍に拡大したもので、見応え十分である。そうしたスペクタクルなシーンも完璧に描かれるけれども、この映画で重要なのはスペクタクル以上に物語を語ることに重点を置いていることだ。フロドとサムに加えて同じホビットのメリーとピピンも今回、大活躍する。“小さき者が世界を救う”というテーマを人の苦悩とともにジャクソンは徹底的に描き出す。VFXも俳優の演技もハワード・ショアの素晴らしすぎる音楽も美術も衣装もセットもすべて物語を語ることにのみ目的を置き、決して必要以上に出過ぎず、絶妙のバランスが取られている。ジャクソンのコントロールは完璧なのである。

 ピーター・ジャクソンはこの3部作の製作に7年の歳月をかけた。パンフレットの扉にこう書いている。

しかし、困難にぶつかればぶつかるほど、自分にこう問いかけたものです。

「この作品を作ることの他に、やることがあるのか?」と。

答えはいつも「NO」でした。

 長大な原作と格闘するジャクソンの姿はそのまま登場人物たちの困難と重なってくる。映画から受ける分厚い感動はジャクソンの苦闘があってこそのものなのである。

 アカデミー賞には11部門にノミネートされた。全部取ってもおかしくない。