2004/11/10(水)「笑の大学」
傑作舞台劇の映画化。昭和15年を舞台に、浅草の軽演劇一座「笑の大学」の座付き作家椿一(稲垣吾郎)と警視庁保安課の検閲官向坂睦男(役所広司)の7日間の攻防を描く。原作・脚本の三谷幸喜によると、映画版は「コメディを題材にしたシリアスなドラマ」という。といっても今川焼を巡る爆笑のやりとりをはじめ言葉のギャグは満載で、笑って笑って最後に感動させてという構成はいかにも日本的なコメディである。個人的には最後のほろりとさせるエピソードなど不要に感じたし、もっと別のラストは考えられなかったのかと思うが、これはモデルがエノケン一座の座付き作家で戦死した菊谷栄だから仕方ない面もあるだろう。ちょっとオーバーアクト気味な稲垣吾郎の演技はバラエティ番組の演技としか思えない(これは演出に関わることだが、警視庁の前に来るたびに圧倒されて倒れそうになるなんてありえないだろう)けれど、必死さは伝わってきて悪くない。それを受け止める役所広司の演技が素晴らしく、この映画のほとんどの笑いは役所広司のキャラクターと演技からきている。舞台を映画にして何の意味があるのかという根源的疑問はつきまとうし、ちっとも映画らしくない映画なのは気になるにせよ、見て損のないドラマには仕上がっている。
サイレント映画のようなタッチで映画は始まる。第2次大戦直前のきな臭い時期なので、演劇は当局の検閲を受けなければならない。「ジュリオとロミエット」というパロディを提出した椿一は検閲官の向坂から「毛唐を題材にするなんて」と一喝され、上演不許可の判子を押されそうになる。「チャーチルが握った寿司を食べたいと思うか」というたとえがおかしい。椿は日本を舞台にして翌日までに書き直すと約束し、危うく不許可を免れる。しかし、翌日も向坂は接吻シーンが良くないとして、書き直しを要求する。椿は書き直しを命じられた部分をまた笑いにしてしまう性分。そこが向坂の気に障るところでもあるのだが、「この非常時に喜劇の上演なんて」と考えていた向坂は次第に椿の台本に魅せられ、最高のコメディを椿と一緒に作り上げていくことになる。
書き換えていく過程でどうすればおかしくなるかというコメディの本質を突いたセリフも出てくるので、「シリアスなドラマ」なのだろう。同時に映画は検閲制度に対する批判も込めている。惜しいのはそれと現代とのつながりが見えにくいこと。体制の中から出ず、制限された範囲内で喜劇を作ろうという椿の姿勢には物足りない部分が残るのだ。それが映画としての批判の甘さにつながっているのかもしれない。
監督は「古畑任三郎」などテレビのディレクターで、これが映画デビューの星護。演出は手堅かったが、もっと動きのある題材でないと、本当の力は分からない。2作目を期待したい。
2004/11/09(火)「隠し剣 鬼の爪」
主人公の片桐宗蔵(永瀬正敏)が下働きのきえ(松たか子)に実家に帰るよう命じる中盤のシーンがどうしても引っかかる。ここで宗蔵は「お前はまだ若く、気だてのいい女なのだから、いつまでも私のところにいてはいけない」と理由を説明するのだが、この前のシーンで義兄の島田左門(吉岡秀隆)から「商家の嫁を奪い取って、妾同様に囲っているという噂が立っている」との忠告を受けたことがこのセリフの直接的な要因となる。もちろん、宗蔵ときえはそんな関係にはないが、きえとの暮らしに満足していた宗蔵がそんな話を急に切り出す真意がつかめない。きえに言った通りの理由であるならば、義兄が忠告する場面は不要だった。そして別の(宗蔵のセリフ通りの理由に説得力を持たせる)エピソードを入れた方が良かっただろう。きえは涙を流しながらも宗蔵に命じられた通り、実家に帰ることになる。ここで2つの原作のうち、「雪明かり」のパートが終わり、より時代劇らしい「隠し剣鬼ノ爪」のパートが始まる。ここも良い出来なのだが、2つの短編のつなぎ方に無理があったために、この中盤のシーンが浮いてしまったのではないかという気がする。その意味で3つの短編をうまく融合させた前作「たそがれ清兵衛」よりも脚本の技術としては落ちる。微妙なけちの付け方とは思うけれど、この映画が「清兵衛」に及ばなかった原因の一つはそこにある。
宗蔵の家で3年間働いたきえは商家に嫁ぎ、ひどい姑(光本幸子)によって、朝から晩まで休む間もなく働かされたため、ついには病気になってしまう。宗蔵はきえと3年ぶりに再会して、そのやつれた姿に驚くが、やがて病に倒れたことを知り、商家に乗り込んで、無理矢理きえを連れて帰る。この「雪明かり」のパートは松たか子の好演によって紅涙を絞る展開である。いつものように山田洋次監督の技術の高さにうならされてしまう。山田洋次、こういう貧しい人たちが苦難に耐えるシーンを描かせたら絶妙である。前述の中盤のシーンを挟んで、後半の「隠し剣鬼ノ爪」。宗蔵とかつて一緒に剣を学んだ狭間弥市郎(小澤征悦)が謀反を起こしたとして捕らえられる。といってもこのシーンは前半に織り込み済みである。狭間は江戸から故郷に連れて帰られ、切腹することも許されぬまま牢に入れられるが、見張りを倒して脱獄し、農家に立てこもる。宗蔵はその狭間を討つように命じられる。宗蔵はかつて御前試合で狭間に勝ったことがあり、師範の戸田寛斎(田中泯)から隠し剣を伝授されていた。家老(緒形拳)はそこを見込み、大目付の甲田(小林稔侍)とともに宗蔵にかつての仲間を討てと命じるのだ。逆らえば謀反の仲間とみなされる。宗蔵は藩命に逆らえず、農家に向かうことになる。ここで描かれるのは悪徳家老に怒りを感じる主人公の姿である。欲を言えば、過去の御前試合のシーンを少しでも入れておいた方が良かっただろうが、このパートも決して悪い出来ではない。
困るのは一つ一つのシーンには感心しながらも、映画全体としてはそれほど響いてこないことだ。つまらないわけではないのに、「清兵衛」の完成度にはほど遠いと言わねばならない。下級武士のつましい暮らしを詳細に描き、自分の身分を受け入れて不平不満を言わない姿が世のサラリーマンの支持を集めた「たそがれ清兵衛」に比べると、今回の映画のベクトルは違う方向にある。至極単純にまとめてしまえば、今回は嫌な上司のいる組織に見切りを付ける男の話。つまり脱サラする男の話なのである。そこと「雪明かり」のパートをどう結びつけるかが脚本の腕の見せ所なのだが、それほどうまくいっていないのである。
ついでに言えば、今回の主人公は三十石。清兵衛は五十石の身分だったが、同じ東北・海坂藩の藩士なのに、清兵衛ほど貧乏暮らしには見えない。つまり、今回は描こうとしたことが「清兵衛」とは違うからだろう。そして、後半が一般的な時代劇にシフトした分、「清兵衛」のオリジナリティには及ばなかったわけである。
2004/11/08(月)「オールド・ボーイ」
15年間監禁された男の復讐を熱っぽく描く韓国映画。土屋ガロン・作、嶺岸信明・画のコミックを「JSA」のパク・チャヌクが監督し、今年のカンヌ映画祭でパルム・ドールの「華氏911」に次ぐグランプリを受賞した。誰が監禁したのか、なぜ監禁したのかという謎を巡ってストーリーが展開する。「誰が」という部分を映画は早々に明らかにするが、それは「なぜ」の部分が映画の中心であるからだ。犯人が分かってもその真意はなかなか分からない。原作にはない犯人の主人公への残酷な仕打ちを付け加えたことで、映画は異様な傑作となった。ただし、映画の評価というのは相対的なものだから、これを見た後に「いま、会いにゆきます」を見たら、脚本の出来では完全に評価が下回ってしまった。
この映画の真相部分に驚き、だから15年なのかと納得し、確かにオリジナルなアイデアだと感心しながらも、あまり手放しで絶賛できないのはそれがタブーに関わるからで、「目には目を歯には歯を」を実践して相当ショッキングではあるけれど、うーん、どうかと思えてしまう。映画のテクニックとしても、うまさを感じるほどではない。しかし、「シュリ」で北朝鮮の兵士役を演じて「お前らに飢えて自分の子どもを食らう親の気持ちが分かるか」と叫んだチェ・ミンシクは今回も凄すぎる演技を見せる。15年間の監禁生活で復讐のモンスターと化し、相手に突進していく異様な迫力。アクション場面の撮り方はそれほどうまいとは言えないが、主人公の怒りが伝わって熱気がこもっている。これと主人公を助ける女を演じる新人カン・ヘジョンを見るだけでも価値はある。そしてカンヌでクエンティン・タランティーノが絶賛した意味もよく分かる。同じ復讐ものでも、主人公の復讐の念が段違いに強く切実な点と、復讐が交錯している点で、これはタランティーノ「キル・ビル」より、はるかに面白い。
「俺はけものに劣る存在だけど、それでも生きる権利はあるでしょう」。前半に出てくるこのセリフが終盤に生きてくる。主人公のオ・デス(チェ・ミンシク)は酔っぱらって警察に保護され、家に帰ろうとしたところで何者かに拉致される。気が付くと、ベッドとテレビがある部屋の中。窓はない。定期的にガスが流れ、眠らされる。食事はちゃんと出てくるが、監禁される理由に思い当たりはない。やがて妻は惨殺され、その容疑は自分にかかる。絶望して自殺も試みるが、そのたびに助けられる。オ・デスは自分を監禁した犯人への復讐の念を積み重ね、脱出を計画。しかし、15年たって、突然解放される。オ・デスは寿司屋で出会ったミド(カン・ヘジョン)の家に転がりこみ、自分を監禁した犯人を捜し求める。
監禁された場所を探り当てたオ・デスが十数人のチンピラを相手に立ち回りを演じるのがアクション場面の白眉。このほか、街を必死に走る姿や何事にも突進していく姿などチェ・ミンシクの体を張った演技は絶賛に値する。よくよく凄い俳優だと思う。
パク・チャヌクにこの原作の映画化を勧めたのは「殺人の追憶」のポン・ジュノ監督だったという。完成した映画は「殺人の追憶」には及ばないが、パク・チャヌクのヒット作「JSA」より充実している。今年はたくさんの韓国映画が公開されたが、残るのはこの2本ではないかと思う。
2004/11/08(月)「いま、会いにゆきます」
「雨の季節に戻ってくる」。そう言い残して妻の澪が病死して1年。父親の秋穂(あいお)巧と息子の祐司は不器用ながらも仲良く暮らしている。父親は神経を病み、人混みに出かけられない。息子を連れて行った夏祭りでは倒れてしまう。そして、雨の季節がやってきて、本当に澪が帰ってくる…。
市川拓司の原作を岡田恵和(よしかず)が脚本化し、「オレンジデイズ」などテレビのベテラン演出家・土井裕泰(のぶひろ)が映画デビュー作としてメガホンを取った。夫婦愛、親子愛に彩られた幸福感あふれる映画である。ファンタジーなので妻が戻ってきたことに理由がなくてもいいのだが、映画は終盤に物語を別の視点で語り直してその謎を明らかにする。そして途中で感じた疑問点がすべて氷解する。これは脚本か演出の不備だろうと思えた部分が実はそうではなく、すべて計算されていたものであることが分かるのだ。同時に映画の中の物語がいっそうの深みを増して迫ってくる。ラストでようやく意味が分かる「いま、会いにゆきます」というタイトルはヒロインの覚悟と愛情の深さを示して感動的である。あざとくて安っぽくて志の低いお涙ちょうだいものではさらさらなく、洗練されたプロの仕事を見せつけられた感じ。この脚本の完成度は相当高い。
「黄泉がえり」「星に願いを。」「天国の本屋 恋火」とファンタジーで絶好調の竹内結子と中村獅童の好演が相まって、日本のラブファンタジーとしては希有な作品に仕上がった。見終わって思い浮かべたのは「ある日どこかで」(1980年、ジャノー・シュワーク監督唯一の傑作)だが、ある意味、あの名作を越えた充実感がある。なんという幸福な映画であることか。そしてなんと心を揺さぶられる映画であることか。秀作の多い今年の日本映画の中でも上位に入る傑作。もちろん、必見。
正直に言えば、巧(中村獅童)と祐司(武井証)が2人で暮らす序盤の描写は朝食の目玉焼きや夕食のカレーライスに失敗したり、家の中が散らかっていたり、夏なのに冬のスーツを着ていたりする場面を丁寧に描いてはいても、どこかぎこちない部分が残る。やはりテレビの演出家だからなあ、と思っていたのだが、澪(竹内結子)が戻ってきた場面で一気に感心させられる。死んだはずの人間が帰ってきて、迎える人間はどういうリアクションを起こすのか。それ以上に戻ってきた人間はどう描かれるのか。そこを映画は澪がすべての記憶を失っていたという設定にしてうまくかわしてみせる。2人と一緒に暮らすことになった澪は徐々に2人に愛情を感じるようになり、巧から2人の出会いと現在までの経緯を聞くことになる。
それは観客にとっても澪にとっても実に魅力的なラブストーリーである。2人の出会いは高校時代。2年間、同じクラスで隣の席に座っていた。巧は澪に片思いしていたが、打ち明けられないまま、ろくに話もせずに卒業することになる。陸上に打ち込む巧は地元の大学に、澪は東京の大学に行く。ただ、卒業時に澪のノートに言葉を書いた際、ボールペンを一緒にノートに挟んでいた。それを返してもらうことを口実に巧は澪に電話する。初めてのデートで堰を切ったように話し、2人の仲は順調にいくかと思われたが、巧は陸上に打ち込みすぎて体を壊し、陸上も大学もやめる。澪にこんな体の自分に付き合わせるわけにはいかないと思い、別れを切り出してしまう。
この恋愛初期のおずおずといった感じの描写が微笑ましくて良い。竹内結子も美しく魅力的であり、これまでの出演作のベストだろう。澪が一緒にいられるのは雨の季節が終わるまで。いずれ澪が再び消えてしまい、親子2人の生活に戻ることは見えている。そして実際にそうなる。これで終わってしまえば、まずまずの佳作どまりだが、そこから映画は先に書いたような終盤を用意している。
テレビドラマに疎い僕は脚本の岡田恵和については知らなかった。キネマ旬報11月下旬号によると、土井監督の最高のパートナーとも思える存在という。キネ旬のインタビューで岡田恵和は「いわゆる亡くなった奥さんが戻ってきて、そしてまた去っていくという、ただそれだけの話にはしたくなかった」と言っている。その思いがあったからこそ、この終盤の素晴らしさが生まれたのだろう。土井監督は再び、テレビの世界に戻るそうだが、ぜひ2人のコンビで第2作を作ってほしいと思う。
2004/11/03(水)「テキサス・チェーンソー」
トビー・フーパーのカルト的な傑作「悪魔のいけにえ」のリメイク。リメイクとしては良くできている方で、なかなか怖い。フーパー版ではラスト、ヒロインがようやく逃げてトラックの荷台でヒステリックに笑い続けた。あれは極限の恐怖から解放されたために起きた笑いで、そのあたりがリアルだった。今回は、ヒロインが反撃に転じる場面から怖さがなくなる。よくある殺人鬼との対決になってしまうのだ。冒頭のヒッチハイクの場面はフーパー版では異常者一家の男だったが、今回は女。という風に細部が少しずつ違う。
監督はMTV出身のマーカス・ニスペル。そのためかビジュアル面では申し分なく、荒野にポツンと立つ一軒家など冷たい感触の色合いは異常なホラーに良く合っている。最後に「物語は実際の事件に基づいているが、登場人物や地名はフィクション」と出る。実際の事件とは言うまでもなく、エド・ゲインの事件。しかし、ゲインはチェーンソーは使わなかっただろう。ヒロイン役のジェシカ・ビールは「ブレイド3」に出演するそうだ。