2004/11/02(火)「父と暮せば」
黒木和雄監督が井上ひさしの戯曲を映画化した作品。原爆投下3年後の広島を舞台に描く父と娘の物語で「TOMORROW 明日」「美しい夏キリシマ」と合わせて“戦争レクイエム3部作”としている。父親を演じるのが原田芳雄、娘が宮沢りえ。この2人と宮沢りえに思いを寄せる浅野忠信の3人が主要キャストにしてオールキャスト。もとが舞台劇だけに家の中のシーンがほとんどだが、黒木監督はしっかりとした演出で反核の願いを込めた物語を展開していく。黒木作品には珍しくCGを使った原爆投下とその後の広島の街の様子が描かれる。場面は少ないが、細かい部分まで描いてCGとしては良い出来の方である。しかし何よりも、「うち、人を好いたりしちゃいけんのです」と死者に対して気兼ねする宮沢りえが素晴らしく良い。
パンフレットによると、この「自分だけが生き残って申し訳ない」という意識は作者の井上ひさしが多数の被爆者の手記を読んだ結果得たものであり、それは黒木和雄の戦時体験にもつながるものだという。黒木監督の前作「美しい夏キリシマ」に空襲で死んだ友人を見捨てて逃げた監督の悔恨の思いが込められていたように、この映画の主人公にも被曝した父親を助けようとして助けられなかった悔恨がある。それがどう癒やされていくか、どう復活のきっかけをつかむかを映画は丹念に綴っている。俳優2人の対話によって進む物語は密度の濃い空間を生んでおり、「美しい夏キリシマ」より充実していると思う。マイケル・ムーアは大きな対象を批判するのに個人の体験や言葉を多数引用したが、黒木和雄は戦争を描くのに個人の体験と意識に絞り、温かみがありながらも鋭い作品を作った。個人の体験を重視する方法論がここでは十分に成功している。
主人公は図書館に勤める福吉美津江(宮沢りえ)。激しい雷におびえて家に帰ってきた美津江は押し入れの中入っている父親(原田芳雄)を見つける。雷が「ピカ」を連想させて、父親も怯えていたのだ。2人の会話から、やがてこの父親は原爆投下時に死に、今は幽霊となって現れたことが分かる。原爆の資料を集めるために図書館に来た木下(浅野忠信)への美津江の恋心から父親は生まれたという。美津江は木下に惹かれながらも、自分だけが幸せになってはいけないと思いこみ、木下への思いを断ち切ろうとしている。なぜか。美津江は原爆投下後、死んだ友人の母親から言葉を投げつけられる。「なひてあんたが生きとる」「なひてうちの子じゃのうて、あんたが生きとるんはなんでですか!」。加えて、美津江には被曝した父親を見捨てて火災から逃げねばならなかった過去がある。我が子を亡くした母親の理不尽な思いから出た言葉と父親を助けられなかった悔恨がその後の美津江を縛っていた。
美津江が原爆の呪縛から解き放たれることになる父親の言葉は、普通の人間の当たり前の願いである。なぜ、自分は生きているのか、死者に報いるには何をすればいいのか、映画は何も難しいことを要求しない。普通に生きていくこと、死者の分まで生き続けることを訴えるだけである。そこがいい。広島弁で語られる会話は温かさを生み、日常の細かな描写がリアリティを生んでいる。
2004/11/01(月)「ウォルター少年と、夏の休日」
「ウォルター少年と、夏の休日」は物語の展開から見て、原作ものかと思ったら、「アイアン・ジャイアント」の脚本家ティム・マッキャンリーズが自作の脚本を監督したのだそうだ。
2人の伯父に預けられた少年の話。伯父を演じるのはマイケル・ケインとロバート・デュバル、少年はハーレイ・ジョエル・オスメント。ケインとデュバルさすがの演技を見せるけれど、少年役はもっと幼い感じの俳優が良かったような気がする。オスメントも声変わりして随分大きくなった。チャラチャラしたしょうがない母親が出てくるあたり、物語の雰囲気は「アトランティスの心」に通じるものがあり、超常現象は出てこないが、スティーブン・キングの小説を思わせる。原題のSecondhand Lions(中古のライオン)の通り、動物園から払い下げられたメスのライオンも登場する。しかし、この原題はかつて世界を旅して冒険した2人の伯父を指しており、少年が伯父の影響を受けてたくましくなっていくのがメイン・プロットである。ウェルメイドな佳作と思うが、それ以上のものではない。
1960年代のテキサスが舞台。父親のいない少年ウォルターは母親(キーラ・セジウィック)から2人の伯父ハブ(ロバート・デュバル)とガース(マイケル・ケイン)の元に預けられる。「たぶん2、3週間。長くても1、2カ月」の予定。母親が速記学校に通うためとの名目だったが、実際はどうだか分からない。伯父2人の家は古ぼけており、テレビも電気もないが、2人は大金持ちとの噂だった。母親は金のありかを探すようウォルターに言い含めて去る。伯父2人はセールスマンが来ると、ショットガンをぶっ放す変わった性格。おまけにハブは夢遊病らしい。なかなかなじめないウォルターは部屋の中から若い女性の写真を見つけ、ハブから2人の若い頃の話を聞く。ハブとガースは外人部隊に所属し、北アフリカにいたことがある。その頃、ハブはジャスミン(エマニュエル・ヴォージュア)という女と情熱的な恋をする。今でも腕っ節の強いハブは若者4人を簡単に倒して説教したりする。ウォルターは徐々に2人に好感を持つようになる。
スティーブン・キングと書いたけれど、考えてみれば、少年と巨大なロボットとの交流を描く「アイアン・ジャイアント」にも通じるものがある。普段はおとなしいが、実は強力な力を持っているロボットと未だに衰えない力を持つ伯父。「アイアン…」も時代は現代ではなく、1950年代だった。マッキャンリーズ、そういう古い時代のアメリカに執着した部分があるのかもしれない。この脚本はMOVIELINE誌の「スクリーンで見たい良質な脚本ナンバーワン」に選ばれたそうだが、展開自体にそれほど新鮮な部分があるわけではなく、要するに出来上がりと同様、ウェルメイドなセンを狙ったのだろう。
2004/11/01(月)「華氏911」
ようやく見た。見ている間中、怒りがフツフツとわき上がってくる映画である。ジョージ・W・ブッシュという知性のかけらもない男を大統領にしてしまったためにアメリカはアフガニスタン、イラクと続けて戦争をする羽目になった。「富める者とさらに富める者」の味方であり、自身もその上流クラスにいるブッシュはその層のためだけに政策を展開し、彼らが始めた戦争に貧しい者たちがかり出されて死んでいくことになる。もちろん、これがブッシュ批判を展開した映画であることは承知の上だけれど、それでも怒りは収まらない。
「俺たちより貧しい人たちをなんで殺さなくちゃいけないんだ」という米兵の叫びは真実だろうし、失業率が公称17%、実際は50%のフロリダ州フリントの若者たちには戦争にいくしか生きる道がないのも本当だろう。息子をイラクで戦死させた母親の悲しみも、空爆によって親族の葬式を5回も出さなければならなかったイラク人女性の「アメリカの家が破壊されればいいんだわ。もう神しか頼るものがない」との嘆きも本物だろう。フリントに住む若者は言う。「イラクの破壊された町並みは廃屋の多い俺たちの町と同じだ」。マイケル・ムーアはブッシュがいかにひどい大統領であるか、そのせいでアメリカがどんなことになっているのかを次々に例証していく。内容に偏りがあるという批判は分かるが、主義主張を込めないドキュメンタリーには意味がない。それ以上にリアルタイムな題材を選んでドキュメンタリーを作るムーアの姿勢は尊敬すべきものだ。しかし、映画はこれで完成したとは言えない。2日の大統領選でブッシュが落選して初めてこの映画は本当に完結することになるのだ。
「俺たちは偽の選挙で偽の大統領を持ってしまった」。アカデミー賞授賞式でムーアが指摘したフロリダ州の大統領選で映画は始まる。テレビ局の多くはゴア勝利を報道するが、フォックステレビのブッシュ勝利の報道によって次々に報道が変わっていく。アフリカ系アメリカ人を選挙人から意図的に外したなど選挙に不正があったとする異議申し立ては上院議員が誰一人署名しなかったために無効となる。ブッシュは就任後、休暇の多い大統領として有名になり、その能力の低さと合わせて支持率は下がっていく。そんな時に9.11の同時テロが起こる。そこからビンラディン一族を逃がしたとか、独立調査委員会の設置を妨げたとか、事前にアルカイダによる航空機テロの報告書が出されていたのにブッシュは読まなかったとか、事件を知って7分間も視察先の教室の中にいたとか、ビンラディン一族とブッシュとの親密な関係とか、サウジアラビアの富豪たちとブッシュの結びつきとかが語られていく。ただし、映画の根本的な主張はそんなところにはない。ブッシュという男が自分の利益を守り、上流階級の利益を守ることしか眼中にないことが徐々に分かってくるのだ。テロとは関係なく、大量破壊兵器さえ持っていなかったイラクとの戦争によって、多くの若者たちが死んでいく。米兵の死者は1,100人を越えたが、イラク人の死者は10万人を越えているという。その戦争の裏に石油利権があるのをアメリカの一般市民でさえ、知るようになった。
ムーアが怒るのはこういう部分だ。前作「ボウリング・フォー・コロンバイン」でも描かれたアメリカ人の恐怖心を政府はテロの恐怖を意図的に煽ることで、増幅させていく。騒動にまぎれて個人情報を政府が入手できる愛国者法というとんでもない法律も成立してしまった。日本以上にアメリカの自由は制限されるヒドイ状態になっている。それでもアメリカの起こす戦争は民主主義と自由を守るというのが大義名分だ。こうした矛盾に対してムーアは怒っている。その怒りはこちらに伝染してくる。敵はイラクなんかではない。富を掌握して離さない一部の富裕層にあるということを映画ははっきりと伝えている。
2004/10/30(土)「シークレット・ウィンドウ」
昨日、見た。「自分の小説を盗作した」と見知らぬ男から脅迫を受けた作家を巡るサイコなサスペンス。スティーブン・キングの原作「秘密の窓、秘密の庭」は8年ほど前に読んだが、内容をほとんど忘れていた。覚えていたのは「ダーク・ハーフ」のように作家を主人公にした小説だったなということぐらいである。脚本家としても知られるデヴィッド・コープ(「ジュラシック・パーク」「スパイダーマン」)の監督2作目で、コープは原作とは結末を変えて脚本化している。その姿勢は歓迎すべきことではあるが、それならば、原作以上に面白い結末を用意する必要がある。残念なことに、映画の結末はありふれている。途中で予想できるラストで、それ以上のものがないので、なんだか物足りない気分になってしまう。家の中に異常な男が潜んでいるかもしれないという恐怖などサスペンスの醸成はうまいし、事件のきっかけとなった出来事と物語を関連づけた構成もいいのに、結末がこれでは映画の印象は強いものにはならない。物語のツイストが足りなかった。原作より面白くならないなら、改悪と言われても仕方がないだろう。
車の中で逡巡している主人公モート(ジョニー・デップ)の場面で幕を開ける。意を決したモートはモーテルに車を乗り付け、妻のエイミー(マリア・ベロ)とテッド(ティモシー・ハットン)の浮気現場に踏み込む。6カ月後、モートは別居状態で湖畔の家に1人で住んでいる。作家だが、仕事ははかどらず、寝てばかり。そこにジョン・シューター(ジョン・タトゥーロ)と名乗る男が訪れ、「俺の小説を盗んだ」と言いがかりを付ける。シューターが持っていた小説はモートが以前発表したものと一字一句同じだった。シューターは7年前にその小説を書いたと言う。モートが小説を発表したのはその2年前。当時の掲載紙「エラリー・クイーンズ・ミステリー・マガジン」を見せれば、簡単に解決する話だったが、その雑誌はエイミーの住む家に置いてある。その夜、モートの愛犬が殺された。シューターにはどこか異常な部分があった。70歳の保安官に頼んでもラチがあかないので、モートは私立探偵のケン・カーシュ(チャールズ・S・ダットン)に調査を依頼する。翌朝、エイミーの家が放火されて全焼し、盗作疑惑を晴らす証拠は消えてしまう。そして、モートの周辺で殺人事件が起きる。
物語は離婚間近のモートの現状と盗作疑惑とが絡まり合って進行する。徐々に精神的に追いつめられていくモートをジョニー・デップはいつものように巧みに演じ、ジョン・タトゥーロも異常者を実にピッタリと演じている。不気味な映画の雰囲気も悪くない。これであとふたひねりぐらいあれば、言うことはなかった。原作のラストはキングらしく、ちょっと超自然的な部分が顔をのぞかせる。映画はその部分をばっさり省略し、その前のエピソードも変えている。パンフレットは結末を書いているため、封印されているが、詳しく説明されなければ分からないような難しい話では全然ない。もう実に単純で、過去にいくつも例があり、今さらこのストーリーで映画化することに何か意味があるとは思えない。
2004/10/17(日)「インファナル・アフェア 無間序曲」
昨年公開された「インファナル・アフェア」の続編。といっても、第1作より前の時代、1991年から97年の香港返還当日までを描く。潜入捜査官のヤンと警察に潜入した香港マフィアのラウを演じるのは前作の序盤でトニー・レオンとアンディ・ラウの若いころを演じたショーン・ユーとエディソン・チャン。この2人も好演しているが、映画を支えるのは警部役のアンソニー・ウォン、フー・ジュン、マフィアのボス役のフランシス・ン、エリック・ツァン、そして情婦役のカリーナ・ラウのベテラン俳優たちである。複雑な人間関係であるにもかかわらず、脚本が巧みなので話がすっきりしている。ラスト、ヤンがエリック・ツァンの配下に入るのは物語の流れから言っておかしいとかの傷はあるが、全体的に見てこの脚本はご都合主義が目についた前作より密度が濃い。敵と味方が入り乱れる構図はキネマ旬報で指摘されていたように「仁義なき戦い」を思わせる。違うのは「仁義なき戦い」が重喜劇的側面を持っていたのに対して、あくまでシリアスなこと。エリック・ツァンはそのキャラクターから、山守のおやっさん(金子信雄)のような役回りになれるはずだが、喜劇的演技は抑えている。笠原和夫脚本に比べてそのあたりが惜しいところ。しかし、時代背景を取り入れた作劇はうまく、十分に面白い仕上がりだ。第3作「終極無間」は来年GWに公開という。
尖沙咀(チムサアチョイ)に君臨する香港マフィアのボス、クワンが殺された。殺したのは配下のボス、サム(エリック・ツァン)の手下ラウ(エディソン・チャン)。ラウはサムの情婦マリー(カリーナ・ラウ)に命じられて暗殺を実行したのだった。大ボスが殺されたことで配下のサムを含む5人のボスたちは反逆しようとするが、クワンの跡を継いだ次男のハウ(フランシス・ン)は逆にボスたちの弱みを楯に地位を固める。クワンの私生児でハウと異母兄弟のヤン(ショーン・ユー)は警察学校に入校していたが、その血筋が発覚し、退校処分となる。それを救ったのは警部ウォン(アンソニー・ウォン)。ウォンはヤンにマフィアに潜入するよう命じる。一方、ラウはサムの命令で警察官となる。ここから裏切りに次ぐ裏切りのドラマが展開し、隠された人間関係が徐々に明らかになっていく。ハウは5人のボスを葬ろうと画策、4人は殺される。コカインの密輸を進めるためハウに命じられてタイに行ったサムも銃弾に倒れる。マフィア内部の抗争は警察をも巻き込み、ウォンの同僚で警視に昇進したルク(フー・ジュン)はウォンの身代わりに犠牲になる。一度は絶望的になったウォンはハウを逮捕するため反撃の機会をうかがう。
ショーン・ユーとエディソン・チャンの若手2人では弱いと思えたためか、監督・脚本のアラン・マック、アンドリュー・ラウはフランシス・ンとアンソニー・ウォンの対立軸を中心に物語を進める。フランシス・ンは知的で非情なマフィアでありながら、家族を大事にする男でその描写は「ゴッドファーザー」を参考にしたようだ。アンソニー・ウォンはマフィアへの憎しみを持つ警部で渋い男の魅力を見せる。この2人の存在が大きいため、本来なら敵対組織に潜入してアイデンティティーを失う若い2人の無間地獄の苦しみを描いた映画になるはずが、ギャング映画、ヤクザ映画として単純に面白い作品になった。そしてカリーナ・ラウ。どちらかと言えば、ダメ男のサムを愛し、ラウが自分に思いを寄せていることを利用してサムのために尽くす。思いを打ち明けたラウをきっぱりと拒絶する場面など、ヤクザ映画の姐さん的役回りをこれまた見事に演じている。第1作、第2作に比較すると、3作目はあまり評価は高くないらしいが、とりあえず結末を見たい気にさせる。