2004/02/15(日)「カンパニー・マン」
「CUBE」のヴィンチェンゾ・ナタリの5年ぶりの第2作。これを見ると、やはりナタリは独自のスタイルを持っているなと思う。物理的な迷宮から今回は記憶の迷宮。いや、主人公は終盤まで迷宮とは思っていないし、見ているこちらもそうは思わない。ただ、アイデンティティーの揺らぎはあり、ストーリーも二転三転する。サスペンスフルで緊密な作品に仕上がっている。
平凡な会社員のモーガン・サリバン(ジェレミー・ノーザム)が産業スパイとして雇われ、ジャック・サースビーという名前を与えられる。最初の任務は簡単に成功するが、次の任務の途中、謎の女リタ(ルーシー・リュー)から「あなたは洗脳され、企業に利用されている」と聞かされる。洗脳に抵抗する注射を打たれたモーガンは会議に出席した全員が洗脳される場面を見ることになる。
地味に進む話だが、洗脳に使われるヘッドギアとか、ハイテク企業の内部のセットなど視覚的に面白い。主人公が時折見る映像のフラッシュバックはダーレン・アロノフスキー「レクイエム・フォー・ドリーム」のような感じ。話もよく考えてあり(脚本はナタリの友人のブライアン・キング)、ディックの小説を思わせる展開である。
Company Manはワーキング・タイトル。アメリカではCypherというタイトルで公開された。
2004/02/14(土)「CUBE2」
前作「CUBE」とは関係なく、謎のキューブに閉じこめられた人々という設定だけを借りて作った第2作。監督もヴィンチェンゾ・ナタリからアンジェイ・セクラに代わっている。原題は“Hypercube: Cube 2”で、今回は4次元キューブからの男女8人の脱出劇を描く。あまり評判は良くないようだが、僕はそれなりに面白かった。1作目と同じアイデアではダメなので、キューブの作りをパワーアップしてある。1作目にあったような残酷なトラップはなく、脱出のヒントになるようなドアの数字もないが、時間と空間がねじれたキューブというのはなかなか良いアイデアと思う。
問題は解決部分の処理。こういうキューブ、人間に作れるはずはないから、宇宙人の仕業とでもしておけば良かったのではないか(前作は今の技術でも可能でしょう)。「ダークシティ」のように最後に宇宙空間でも出してくれると、ラストに広がりが出たかもしれない。
2004/02/13(金)「ダウン」
ナオミ・ワッツが「マルホランド・ドライブ」の前に出た作品。元はオランダ映画「悪魔の密室」で、これはアヴォリアッツ映画祭のグランプリを受賞したそうだ。
高層ビルのエレベーターが人を襲うという話。ホラーとしてはまったく怖くないが、エレベーターが人を襲う理由もきちんとあって、まあ意外にまともに作ってある。というか期待度ゼロで見たので、そう感じたのかもしれない。クライマックスにはVFXの炸裂が欲しいところ。マイケル・アイアンサイドがいつものような役柄で出てくる。ワッツは魅力全開とはいかないが、ファンなので眺めているだけでも満足。監督はオリジナルと同じディック・マース。IMDBの評価は4.8。オリジナルの方は6.3。
2004/02/08(日)「ロード・オブ・ザ・リング 王の帰還」
滅びの山に指輪を捨てに行くフロドとサムから冥王サウロンの目をそらすため、アラゴルン率いる軍隊がモルドールの黒門に攻撃を仕掛ける。このクライマックスには胸が震えた。「我々は破滅するかもしれない。しかし、それは今日ではない」。アラゴルンのセリフが力強く響く。
指輪を葬り去らなければ、この世界に未来はない。到底かなわない数のオークの軍にアラゴルンやガンダルフやレゴラスやギムリたちは死を覚悟して最後の戦いを仕掛けるのだ。滅びの山でのフロドとサムの大変な苦難を同時に描くこのクライマックスは映画の完成度がどうこういうレベルを超えてひたすら感動的である。それはこの奇跡的なトリロジーに全精力を傾けたピーター・ジャクソンの思いが伝わってくるからだろう。第1部からこの第3部まで9時間を超える長い映画のどの場面でもジャクソンは手を抜かなかった。物語のうねりとスケールの大きなVFXの見事な融合。トリロジーの完結編としてまったく期待を裏切らない。志の高い立派な作品と言うほかない。
映画はちょっと遡ってスメアゴルが指輪を手にするエピソードで幕を開ける。川の底で指輪を拾った友人を殺してスメアゴルは指輪を横取りし、次第に指輪の魔力に取り憑かれ、容貌を醜くしていく。指輪の邪悪な力を端的に表現した場面で、これはクライマックスのフロドの姿と重なるものである。フロドとサムをモルドールへ案内するスメアゴルは前作「二つの塔」での善と悪の葛藤を経て指輪を取り返すことしか頭になくなっている。
巧妙に嘘をついて2人を仲違いさせ、フロドを大蜘蛛シェロブのいる洞窟へ連れて行く。一方、アラゴルンたちはサルマンの砦アイゼンガルドでメリーとピピンに再会。サウロンの軍隊がゴンドールへの進撃を計画していることを知り、セオデンの軍隊とともにゴンドールへ向かう。しかし、サウロンの軍勢に立ち向かうには兵士の数が足りない。裂け谷のエルフ、エルロンドから祖先イシルドゥアの剣を受け取ったアラゴルンはさまよう死者たちを味方にするため、レゴラス、ギムリとともに死者の谷に赴く。ゴンドールの都市ミナス・ティリスでは既に戦いが始まっていた。サウロンの大軍勢にはトロルと空飛ぶ怪物に乗るナズグルたちも加わっており、ガンダルフ率いるゴンドールの軍は次第に追い詰められていく。
ミナス・ティリスの戦いは前作「二つの塔」の角笛城の戦いのスケールを数倍に拡大したもので、見応え十分である。そうしたスペクタクルなシーンも完璧に描かれるけれども、この映画で重要なのはスペクタクル以上に物語を語ることに重点を置いていることだ。フロドとサムに加えて同じホビットのメリーとピピンも今回、大活躍する。“小さき者が世界を救う”というテーマを人の苦悩とともにジャクソンは徹底的に描き出す。VFXも俳優の演技もハワード・ショアの素晴らしすぎる音楽も美術も衣装もセットもすべて物語を語ることにのみ目的を置き、決して必要以上に出過ぎず、絶妙のバランスが取られている。ジャクソンのコントロールは完璧なのである。
ピーター・ジャクソンはこの3部作の製作に7年の歳月をかけた。パンフレットの扉にこう書いている。
しかし、困難にぶつかればぶつかるほど、自分にこう問いかけたものです。
「この作品を作ることの他に、やることがあるのか?」と。
答えはいつも「NO」でした。
長大な原作と格闘するジャクソンの姿はそのまま登場人物たちの困難と重なってくる。映画から受ける分厚い感動はジャクソンの苦闘があってこそのものなのである。
アカデミー賞には11部門にノミネートされた。全部取ってもおかしくない。
2004/02/05(木)「女はみんな生きている」
監督のコリーヌ・セローは男と女の間にある深い断絶を娼婦ノエミの終盤のセリフに凝縮して見せる。男をみんな一緒くたにして語るこのセリフには異論もあるし、そうかそれなら君たちは男なしで今後やっていくんだなと思えてしまうが、それほどセローの意識は厳しいのだろう。後半のノエミの長い回想は技術的にはうまくないと思えるのだが、男をすべて敵視するようになる説得力はある。