2004/04/29(木)「理由」

 宮部みゆきの原作を大林宣彦が映像化。2時間40分の大作で、出演者も過去の大林映画のキャスト総出演というぐらいの数が出てくる(107人だそうだ)。しかも全員ノーメイク。これは原作のルポルタージュ形式をリアルに見せるためだそうで、映画の語り口も原作そのままだ。

 前半は早口のセリフの洪水という感じ。後半、マンションで殺された4人とその関係者の家族の描写が進むにつれて映画はゆったりとしたペースになり、深みを増してくる。原作を読んだ際には宮部みゆきにしては人間の深みが足りないと思う部分もあったのだが、映画はそこをすくい上げて、しっかりと描写している。南田洋子とか勝野洋とか回想で出てくる片岡鶴太郎にうまさを感じる。

2004/04/28(水)「キル・ビル vol.2 ザ・ラブ・ストーリー」

 アイパッチを付けたエル・ドライバー(ダリル・ハンナ)は「柳生十兵衛がモデル」との町山智浩の指摘に納得する。町山智浩はパンフレットで、この映画の基本は「子連れ狼」だとしている。確かにそうなのだろうが、「子連れ狼」の主人公・拝一刀には復讐の動機が十分にあった。この映画の場合、そこが弱いと思う。いや、前作を見る限り、結婚式を襲われ、恋人とその親族と友人を惨殺され、自身も瀕死の重傷を負って、妊娠中の子供を失ったブライド(ユマ・サーマン)の気持ちはそれなりに分かったのだが、この映画で真相が明らかになってみると、弱いと思えてくるのだ。

 ビル(デヴィッド・キャラダイン)の元にたどり着いたブライドことベアトリス・キドー(この名前をなぜ隠すのかがよく分からない)はそこでビルの「ついかっとして」というセリフを思わず聞き返す。ビルはブライドの裏切りに「ついかっとして」惨殺を行ったわけで、見ているこちらもがっかりしてしまう。復讐の元になった事件はそんな単純なことだったのだ。前作のラストで分かったように当時妊娠中だったブライドの子供は生きていた。しかも子供の父親はビル。元はといえば、男女のささいなすれ違いが事件の発端だったわけだ。

 ブライドがビルと殺し屋稼業に決別した理由については映画を見て欲しいが、それが分かってもこの動機の弱さ、物語の基本的な設定の弱さの印象は変わらない。「ザ・ラブ・ストーリー」というサブタイトルはビルとブライドのそれを表しているようだ。しかし、エンドクレジットにまたも流れる「怨み節」とは裏腹に、誤解に基づくラブストーリーを見せられても困るのである。ビルを穏やかなものの分かったキャラクターなどにせず、単純に極悪非道の悪いヤツにしておけば、まだ何とかなったのではないか。クエンティン・タランティーノはなぜ、この部分だけ、東映映画をまねなかったのだろう。

 快調なのはバド(マイケル・マドセン)に返り討ちに遭い、棺桶に入れられ生き埋めにされたブライドを描く場面からエルとの死闘までだった。普通、生き埋めにされたら外から手助けがない限り、脱出は無理。タランティーノはそれを可能にするため、中国でのブライドの修行を見せる(ここで出てくる五点掌爆心拳は「北斗の拳」を参考にしたのだろう)。なんとか脱出してバドのトレーラーに行くと、エル・ドライバーがいる。ここから狭いトレーラーの中でブライドとエルの迫力たっぷりの死闘が描かれる。

 その後のブライドとビルとの描写はまったく生彩を欠いて、長い言い訳を聞かされているような気分になる。前作はハチャメチャなアクションと誤解に基づく日本趣味が魅力だったけれど、今回のようなドラマ重視の作りでは脚本の力が要求される。タランティーノにはそれが足りなかったようだ。この程度の話なら、2作合わせて2時間半もあれば良かったのではないか。4時間以上もかけて描く内容ではないのである。

2004/04/25(日)「デッドコースター ファイナル・デスティネーション2」

 サブタイトルはビデオ発売時に付けられたもの。劇場公開時にはなぜ付けなかったのだろう。前作の登場人物も出てくる歴とした続編。今回はハイウェイ事故で生き残った者たちに容赦なく死が襲いかかる。僕は前作より面白かった(DVDで見たせいもある)。死神が定めた死の筋書きをどう変えるかが焦点で、まとめ方は前作よりもうまい。もちろん、変える前にほとんどの者は死んでしまう。

 監督は「マトリックス リローデッド」でカーチェイスシーンを担当したデヴィッド・リチャード・エリス。冒頭にあるハイウェイ事故の場面はよくできているけれど、編集はやはり「リローデッド」の方がうまい。

2004/04/22(木)「ジョゼと虎と魚たち」

 2つのセリフが心に残る。

「壊れもんには壊れもんの分というもんがあるやろ」

「『帰れ』と言われてすぐに帰るようなやつは帰れ」

 前者はジョゼ(池脇千鶴)のおばあ(新屋英子)が言う言葉。後者はジョゼが恒夫(妻夫木聡)に言う言葉。この映画が素晴らしいのはきれい事でも何でもなく、人の本質を突いているセリフや行動が至る所にあるからにほかならない。ジョゼのおばあは歩けないジョゼのことを「壊れもん」と考えている。だから昼間は外に出さず、ジョゼが乳母車で散歩に出るのは早朝だけである。

 こういう人間に育てられたらたまらないと思う半面、おばあはジョゼのために必ず春には1年分の教科書をゴミ捨て場から持ってきてくれる。おばあの壊れもんという言葉よりも健常者の口から言われる「障害者のくせに」という言葉の方がよほど毒を持っている。おばあの「壊れもん」はそれ以上でも以下でもなく、単なる形容なのである。

 そのおばあが死んだと聞かされた恒夫はジョゼの家に行き、そこでジョゼから悲痛な話を聞かされる。隣のいやらしいおっちゃんに「乳さわらせたら、ゴミ捨てに行ったる」と言われて乳さわらせたら、毎朝ゴミを捨てに行ってくれるという話。「福祉の人に頼めばいいじゃん!」と言う恒夫に対して「福祉の人が来んのは昼や! 朝の回収には間にあわへんがな!」というジョゼの答えに恒夫は口ごもることになる。そして「帰れ」と言われて帰ろうとする。

 ジョゼはその恒夫の背中をたたきながら、上記のセリフを言い、泣き崩れてしまう。「帰らんとって。ここにおって…ずっと」。

 という風に書き始めたらきりがないけれど、この映画の描写やセリフの一つひとつは深い洞察力に満ちている。健常者と障害者のラブストーリーという泣かせどころ満載の話ながら、思わず背筋を伸ばして見ざるを得ないのは、そういうリアリティがあふれているからだろう。単純に泣かせる話にはなっていないし、そんな甘っちょろい話でもない。恒夫は立派な人間ではないし、恒夫とジョゼの関係もセックスを含めて十分に描写される。だから胸を打つのだ。

 ジョゼは恒夫との幸せな日々が永遠に続くことを信じてはいない。それが壊れた時の絶望感は想像に余りあるものがあるけれど、それでも映画は乳母車から電動車いすに変わったジョゼの姿を映して、希望を持たせる。

 池脇千鶴が素晴らしく良い。21歳(撮影時)で演技派というのは極めてまれなことだ。犬童一心監督の演出は細部の描写が際だっている。朝食のだし巻きとかアジの開きのおいしそうなこととか、そういう描写が大事なのだと思う。細部のリアリティに支えられた問答無用の傑作。

2004/04/18(日)「クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ!夕陽のカスカベボーイズ」

 しんのすけたちが鬼ごっこに興じているうちに入った路地の奥に映画館「カスカベ座」がそびえているのをジャーンと見せてオープニングの粘土アニメに入る呼吸が良く、おお今回は期待できるかと思った。その期待はほぼかなえられ、面白い映画に仕上がった。惜しいのは前半の西部劇映画世界の時間が止まった描写で、長すぎてやや退屈。映画の世界に取り込まれた人々がしんのすけたちの呼びかけで我に返り、脱出へ動き始めると同時に映画も動き始め、クライマックスのつるべ打ちのアクションの痛快さにはひたすら拍手拍手である。昨年の「栄光のヤキニクロード」は普通のギャグアニメすぎてがっかりしたけれど(この日記に感想さえ書いていない)、今回はとても面白かった。昨年から監督を務める水島努は十分に汚名を返上してお釣りが来る作品に仕上げている。

 しんのすけたち5人の「かすかべ防衛隊」が「カスカベ座」に入ると、西部劇らしい荒い粒子の映画が上映されている(これは一瞬「リング」かと思った)。トイレに行ったしんのすけが劇場に帰ると、4人の姿がない。先に帰ったのかと思ったしんのすけは家に帰るが、4人が帰宅していないことを知らされる。両親と妹のひまわりとともにカスカベ座に戻ったしんのすけたちは気が付くと、西部劇の世界にいた。そこには横暴な知事ジャスティスが支配している街があった。風間くんはなぜか保安官をしている。マサオくんとネネちゃんは夫婦になっている。ボーちゃんはインディアン。この世界、長くいると、だんだん元の世界の記憶をなくしてしまうらしい。しんのすけたちは何とかこの世界を抜け出してカスカベに帰ろうと、奮闘する。

 だんだん記憶をなくしてしまうという設定はまるで「千と千尋の神隠し」で、脚本も担当した水島努はそのあたりにインスパイアされたのかと思ったが、後半のアクションになると、もはや独壇場。「荒野の7人」の面々まで登場させ、息つく暇ないアクションを見せてくれる。しんのすけたちが赤いパンツをはいたことで超人的な力を得るあたり、「ゼブラーマン」と同じ快感がある。そして本当の力を得るには元の世界での「かすかべ防衛隊」の合言葉が必要なのだった。~

 いつものようにギャグを散りばめて進むストーリー。今回は予告編にあったしんのすけの必殺技がズバリと決まる場面をちゃんと見せている(いつもの「クレしん」はギャグで構成した予告編と実際の本編とはまるで関係ないのだ)。しんのすけのほのかな恋とか、風間クンが元の世界への不満をぽろりと漏らす本音とか、記憶を失ってしまうことの怖さとかを描きつつ、あくまでもしんのすけ一家を中心にして進む物語は、同じくそれを意図しながらも、原恵一監督の「オトナ帝国の逆襲」「アッパレ!戦国大合戦」に比べて失敗に終わった前作の捲土重来的な意味合いもあるのだと思う。