2004/06/30(水)「ジーパーズ・クリーパーズ」
フランシス・コッポラ製作、ヴィクター・サルヴァ監督作品。ネットで調べると、感想ムチャクチャですね。確かにこのラストは納得いかないけれど、テレビで見るだけなら、そんなにひどい映画ではない。続編ができたのはこのラストに怒った人が多かったからか、製作者の方でも消化不良と考えたからか。
映画は「激突」的な描写に始まって、サイコ殺人みたいな描写が続き、すぐにB級モンスター映画になる。モンスターの姿形は、はっきり見せるが、その正体はあいまい。姿形から想像してくれということか。こういうタイプのモンスターというのも久しぶりに見た。魔物という形容の方が似合いそうだ。
しかし、これはモンスターなど出さず、前半にあるようなアメリカの田舎の怖さを描いた映画にした方が良かったのではないかと思う。アメリカ南部の閉鎖的な田舎町には本当にサイコなやつらがウヨウヨいそうだ。正体不明の何かに追われる姉弟が入ったダイナーの人々の冷たい視線など、それを思い起こさせる。まずまずの出来の前半に比べて、後半が腰砕けなのは脚本にアイデアが足りないからだろう。モンスターの正体にもっと肉薄する描写がほしいところだ。モンスター映画はモンスターを子細に語ることが必要なのだ。
主演のジーナ・フィリップスは美人に思えたが、IMDBにある写真を見ると、ちょっとがっかり。
2004/06/29(火)「ブラザーフッド」
「俺はお前のために靴磨きになった。母さんはお前のために市場で働いて腰が曲がっても、少しも苦に思っていない。お前は家族の夢であり、希望なんだ」。兄弟2人一緒に無理矢理徴兵されたジンテ(チャン・ドンゴン)は高校生の弟ジンソク(ウォンビン)にそう話す。地獄のような戦場から弟を無事に帰すため、ジンテは地雷埋設の危険な任務に進んで参加し、奇襲作戦の提案もする。武勲を挙げ、勲章をもらえば、弟を除隊させることができるからだ。しかし、ジンテのあまりに非情な振る舞いにジンソクは次第に反発するようになる。
南北統一への悲痛な思いをスパイ戦に絡めて描いた傑作「シュリ」のカン・ジェギュ監督が朝鮮戦争を題材に取った戦争映画。韓国で史上最高の1,200万人以上の観客を動員したという。同じ民族同士で殺し合わねばならなかった朝鮮戦争の悲劇を詳細に描き、戦場の惨禍を徹底的に描き出す。これに兄弟の泣きのドラマを入れて、隙のない映画になるはずだった。残念ながら戦場シーンは「プライベート・ライアン」に及ばず、泣きの部分も作りがうまくない。細部の作り込みに荒さが残る。
冒頭、平和な時代(とはいっても第2次大戦終結から1950年までの5年間にすぎない)の兄弟の交流にはわざとらしさを感じるし、軍隊から列車に乗せられ、恋人ヨンシン(イ・ウンジュ)と母親に別れを告げるシーンの演出は大仰に思える。演出過剰の部分は「シュリ」にも見られたのだが、「シュリ」にはそれを超えて見る者を納得させる熱い思いがあった。もちろん、この映画にもその熱さは受け継がれているのだけれど、ジンテの終盤の行動は常軌を逸したものにしか見えてこない。
イデオロギーに立脚せずに戦争を描くことは、興行上の意味から見ても有利だし、広く大衆性に訴える利点がある。だからこの映画は韓国で大ヒットしたのだろう。ただし、ドラマの作りとしては、兄弟愛を中心に据えるのもいいが、バカな戦争を引き起こした者たちへの批判も必要に思う。この映画の終盤が極端な展開になったのはこの批判の視点が甘いからだと思う。共産主義勢力とアメリカの代理戦争的側面を描き出し、戦争によって苦しめられる民衆の怒りの矛先を明確にしないと、小さな兄弟愛の話だけで終わってしまうことになる。
2004/06/08(火)「21グラム」
それぞれの場面をシャッフルした後に再構成したように時間軸を前後に動かして物語を語っている。アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督の前作「アモーレス・ペロス」を僕は未見だが、これも同じ構成という。この構成にどんな意味があるのかよく分からない。例えば、クリストファー・ノーラン「メメント」やクエンティン・タランティーノ「パルプ・フィクション」には時間軸を動かすこと自体に意味があったが、この映画の題材の場合、普通に語っても何ら構わないはずである。主演3人の演技を含めてかなりの力作であり、寂寥感漂う厳しさを備えた映画ではあると思うが、この構成は気になった。
交通事故で夫と娘2人を亡くしたクリスティーナ(ナオミ・ワッツ)と、その事故を起こしたジャック(ベニチオ・デル・トロ)と、クリスティーナの夫の心臓を移植されたポール(ショーン・ペン)の物語。クリスティーナは薬物中毒を乗り越えて幸せな生活をしていた矢先に家族を失う。ジャックは前科のある生活から足を洗い、真面目に信仰心篤く暮らしていた時に事故を起こす。ポールは余命1カ月と宣告されていた時に心臓移植を受けるが、その心臓も拒絶反応を起こしていたことが分かる。3人それぞれに不幸と孤独に苛まれている。クリスティーナは家族を亡くしたから孤独なのだが、あとの2人は妻がいても妻子がいても基本的に分かり合えないものがあって、孤独なのだ。「それでも、人生は続く」“Life is just going”というセリフを3人とも慰めの言葉としてかけられるけれど、そんな言葉ではどうしようもないほど3人の絶望は深い。
その3人が出会った時に何が起きるのか、というのが映画のクライマックスとなる。ただし、映画は最初の方で3人に何が起きたかをワンカットだけ見せる。それはミステリ的な興味を観客に持たせる意味合いはあるにしても、物語の悲劇性や観客のショックを薄める効果としても作用してしまう。題材と手法が合わない。本格の題材を変格で語っている。この手法に観客の目をくらませる以上の意味はない。端的に僕はそう思う。物語をどう語るかに腐心することは大事なことだけれど、それを余計に感じる題材というものもあるのだ。
孤独を共有しているからこそ、クリスティーナとポールは惹かれ合う。2人が惹かれ合うのは恋愛感情のためではなく、仲間意識みたいなものだろう。そしてこれとは対照的にクリスティーナが幸せを奪ったジャックに憎しみを抱くのは当然のことだ。「右のほほを打たれたら、左のほほを出せ」という聖書の教えを忠実に守るジャックはクライマックスでもその教えを守ることになる。ただ、僕はこのクライマックスも突然、21グラム云々のナレーションが流れるラストの処理にも物足りなさを感じた。イニャリトゥ監督は構成に凝るより、物語をもっと突き詰めることに時間を割いた方が良かったと思う。
ナオミ・ワッツが分かりやすい熱演なのに対して、デル・トロとペンの演技は奥が深く、見応えがある。観客が感動するのは題材よりも細部なので、この3人の繊細な演技が映画を支えているのだと思う。
2004/06/08(火)「デイ・アフター・トゥモロー」
SPFXという懐かしい表記もあったが、映画のクレジットに流れるビジュアル・エフェクトスタッフの数の多さに驚く。これだけのスタッフを動員して、リアルな竜巻や津波、吹雪、氷の世界を描き出したわけであり、ビジュアルだけが眼目としか思えないほどストーリーは恐ろしく簡単なものである。
地球温暖化の影響で極地の氷が溶け、海水に流入したことで、海流の流れが変わり、それが異常気象を引き起こして、結果的に氷河期が訪れる。ローランド・エメリッヒ監督はこのプロットに、事態を予見した古代気象学者の主人公(デニス・クエイド)がニューヨークの氷の世界に閉じこめられた息子(ジェイク・ギレンホール)を救出しようとする姿を加えて、映画を構成している。ちょうど昨年の今ごろ公開された「ザ・コア」では科学者たちが止まってしまった地球の核の流れを動かそうとする姿を描いて失笑するしかない内容に終わっていたが、さすがにエメリッヒはそんなバカではない。もう最初から最後までビジュアルに徹している。
水を使ったVFXが難しいと言われたのは昔の話のようで、この映画で描かれるニューヨークを襲う巨大な津波のシーンは見事なものである。氷の世界となったニューヨークの風景も面白い。しかし、そうしたビジュアル面に感心しながらも、やはりこんなにストーリーが簡単では、映画としての深みには欠けてくると思わざるを得ない。大統領が最後に取って付けたように温暖化問題啓発の演説をするけれども、京都議定書の批准さえしなかった国であるから説得力を著しく欠く。人に言う前にまず自分で実行しろ、と思えてくるのだ。
そう、本来ならば登場するはずの悪役がこの映画に一人も見あたらないのは温暖化問題の真の悪役がアメリカ政府であり、企業であるからにほかならないだろう。メジャーの映画であるため、最初から批判の姿勢は封じ込められており、なんとなく映画に勢いが感じられないのはそのためでもある。技術的には一流、話は三流なのである。
今年24歳のジェイク・ギレンホールが高校生の役を演じるには少し無理がある。そのガールフレンド役エミー・ロッサムにちょっと注目。
2004/06/07(月)「星願 あなたにもういちど」
「星に願いを。」の元ネタとなった香港映画(1999年製作)。というか、ストーリーもそのまま。僕は評判ほど良いとは思わなかった。いや、もちろんセシリア・チャン(「少林サッカー」に出ていた)の初々しさには参りましたが、リッチー・レンの演技に問題あり。交通事故に遭う前のぴょんぴょん跳びはねる演技とか、何をやっておるのかと思う。
クライマックスの盛り上がり方などは「星に願いを。」より上だが、部分的に負けているところもある。監督はジングル・マ。やはり、こういうストーリーだと、傑作「天国から来たチャンピオン」と比較してしまいますね。