2005/09/22(木)「シンデレラマン」
同じくラッセル・クロウ主演の「ビューティフル・マインド」(2001年)を見た時に、ロン・ハワードはかつてのハリウッド映画の美点をとても大切にしていると感じたが、この映画でもその印象は変わらない。家族の生活のために再起するボクサーの姿を真摯に描き、伝統的なハリウッド映画のど真ん中に位置する作品だと思う。ミステリ的な仕掛けのあった「ビューティフル・マインド」よりも話がストレートなので、主人公への感情移入もしやすい。脚本と撮影と演出と俳優たちの演技のレベルが高く、どれにも文句を付けようがない。微妙にケチを付けるとすれば、作品が正直で優等生すぎるところだろうが、ハワードは元々そういう作品を目指しているのだから意味がないだろう。娯楽映画の王道と言える物語と手法で映画を作り、期待を裏切らない作品に仕上げたハワードの手腕には感心せざるを得ない。
主人公は1930年代に奇跡のカムバックを果たした実在のボクサー、ジェームズ・J・ブラドック。映画は1928年、絶頂期のブラドックの裕福な生活を描いた後、シーンをそのままオーバーラップして1933年、薄汚いアパートで貧困にあえぐブラドック一家の姿を映し出す。右手の甲を骨折したブラドックは試合でも勝てないが、けがを癒やす暇もなく、金を稼ぐために戦い続けねばならない。昼間は日雇いの過酷な仕事をするが、大恐慌の時代、仕事にありつけないこともしばしばだ。しかも、不甲斐ない試合を見たプロモーターの怒りを買い、ブラドックはライセンスを剥奪されてしまう。アパートの電気は止められ、子どもは病気になる。ブラドックは緊急救済局で金をもらうが、それでも足りず、ボクシング委員会へ行って、援助を求めることになる。そんなブラドックに大きな試合のチャンスが訪れる。かつてのマネージャー、ジョー(ポール・ジアマッティ)が世界ランク2位の選手との試合の話を持ってきたのだ。報酬は250ドル。ブラドックはマジソン・スクエア・ガーデンに別れを告げるつもりで試合に臨む。
記者に何のために戦うのかと聞かれてブラドックは「ミルク」と答える。大恐慌で財産をなくしたブラドックは妻のメイ(レニー・ゼルウィガー)と3人の子どものために、金を得るために戦う。何よりも主人公は全力で貧しさと闘っているのだ。前半の貧しさの描写は「たそがれ清兵衛」にはかなわないのだけれど、ミルクに水を入れて薄めたり、電気を止められて暖房のない部屋で子どもが病気になったり、肉屋のソーセージを盗んだ子どもに対して「絶対におまえをよそにはやらない」と約束するシーンなどにホロリとさせられてしまう。細部の描写が大変優れた映画で、それが全体のレベルを底上げしている。予告編を見れば、映画の大まかなストーリーは分かってしまうのだが、それでもなお、観客に感動を与える映画になっているのはそうした描写のうまさがあるからだろう。
ハワードには大恐慌の時代を描く狙いもあったようで、セントラルパークにフーバー・ヴィルと呼ばれる村ができ、暴動が起きる場面なども描かれる(「イン・アメリカ 三つの小さな願いごと」でやはり貧しさと闘ったパディ・コンシダインが労働組合の結成を目指す労働者の役で登場する)。時代の描き方は同じく大恐慌を背景にした昨年の「シービスケット」よりもうまい。時代と物語が密接な関係にあるのである。
ラッセル・クロウはボクサーらしい精悍な体を作って、理想的な父親役を好演している。ゼルウィガーも相変わらずいいが、もっと目を惹くのはポール・ジアマッティ。一見、裕福なマネージャーが実は、という場面などで奥行きの深いキャラクターを作っている。パンフレットによると、主要キャスト、スタッフの中でオスカーを手にしていないのはジアマッティだけだそうで、クロウはジアマッティの「オスカー受賞キャンペーンに集中したい」と語っている。助演男優賞へのノミネートは堅いのではないか。
2005/08/26(金)「マダガスカル」
ドリームワークスの3DCGアニメ。セントラルパークの動物園にいるシマウマ、ライオン、カバ、キリンの4頭がアフリカに送り返される途中、ひょんなことからマダガスカル島に流れ着き、大自然の魅力を知るという物語である。「シュレック」などとは違って明らかに子ども向けだが、「猿の惑星」や「アメリカン・ビューティー」「炎のランナー」など映画のパロディが所々にある。子どもにはたぶん分からないパロディだから、一緒に見に行った親を退屈させない工夫なのかもしれないが、どれもパロディにする必然性には乏しい。そういうことをするぐらいなら、もう少し話の密度を濃くしてはどうか。野生に帰って狩りに目覚めたライオンの扱いをどうするのかと見ていたら、極めて平凡な結論に落ち着かせている。こういうところを見ると、話を作る努力をほどほどにしてパロディに逃げているとしか思えないのである。とりあえず、きちんとまとまった映画だし、3DCGの技術も水準をクリアしているけれど、こういう製作姿勢で傑作を生むことは難しいだろう。
ニューヨーク、セントラルパークの動物園。シマウマのマーティはペンギンたちが動物園を脱走するのを見て、外の世界に興味を持つ。動物園の生活は安楽で悪くなかったが、人生の半分を動物園で過ごして外に出てみたくなったのだ。マーティはある夜、こっそり、動物園を抜け出してしまう。それに気づいた親友でライオンのアレックス、カバのグロリア、キリンのメルマはあとを追う。グランド・セントラル駅で4頭は人間に捕まるが、動物愛護団体の抗議によってアフリカに送り返されることになる。ところが、乗せられた船にはペンギンたちが潜んでいた。ペンギンは船を乗っ取り、南極に向かおうとする。4頭が詰められた木箱はこの騒動で海に放り出される。漂着したのはマダガスカル島。マーティは自然を満喫するが、残りの3頭は動物園に帰りたくてたまらない。しかし、出会ったキツネザルたちによって自然の魅力を教えられていく。同時にアレックスは肉食の本能、狩りの本能にも目覚め、マーティたちがえさに見えるようになってしまう。
動物園にいる時はピシッと整えられていたアレックスのたてがみが次第にボサボサになっていく。それは野生の本能を取り戻す過程を表してもいる。ディズニーの「ライオン・キング」ではライオンに虫を食べさせていた。この映画でも同じような趣向である。動物園の生活が動物にとって良いわけではないだろうが、かといって野生に完全に返ると、シマウマとの友情などは成立しなくなる。野生に返るというテーマを描くには、この設定に元々無理があるのである。ユーモアにくるめて楽しく見られる映画にすればいいというぐらいの考えなのだろう。だから内容の薄い映画にしかならないわけだ。動物が擬人化されすぎているのも気になった。
声の出演はライオンがベン・スティラー、シマウマがクリス・ロック、キリンがデヴィッド・シュウィンマー、カバがジェイダ・ピンケット・スミスというキャスティング。日本語吹き替え版ではそれぞれ玉木宏、柳沢慎吾、岡田義徳、高島礼子となっており、不自然な部分はなかった。
2005/08/25(木)「オープン・ウォーター」
スキューバ・ダイビングに来た男女が海の真ん中に取り残されるサスペンス。1998年、オーストラリアのグレート・バリア・リーフで起きた実際の事件を元にしている。取り残された男女は最初は助け合い、慰め合うが、そのうちにひどい状況に置かれたことに怒りを覚え、相手の責任とののしり合う。さらに周囲にはサメの群れが来て絶望的な状況に陥る。果たして2人は助かるのか。
設定は事実に基づいていても、内容はフィクション。どうやって助かるのか、生き残るためにどうするのかという興味で見ていくと、ラストで肩すかしを食う。インディペンデントの映画で、予算は50万ドル以下。デジタルビデオカメラで撮影し、上映時間79分。CGは使わず、撒き餌をして本物のサメを引き寄せて撮影したそうだ。まずメジャーでは許されない撮影方法だろう。サンダンス映画祭で評判を取り、全米公開された話題作だが、怖いシチュエーションのみ優れているという印象を持った。低予算映画でもまずまず面白い作品は作れるという好例ではあるが、話の展開にもう一工夫欲しかったと思う。シチュエーションを超えるアイデアがないのである。
パンフレットによると、実際の事件では2人がいなくなったことが分かったのは2日後という。捜索しても死体は発見されず、遺留品のみ見つかった。事件から半年後、「だれか助けて」と書かれたスレートが漁船によって発見された。映画はこの題材を元にしていても、スレートに文字を書く場面などはないし、設定だけを借りて自由に創作されている。監督のクリス・ケンティスの興味は極限状況に置かれた男女の心理を描くことにあったという。クラゲやバラクーダー、サメに襲われ、何時間も水中にいることで体は冷えてくる。脱水症状も起こる。想像したくもないシチュエーションの中で人はどうなるのか。映画はそういう描写については健闘している。ケンティスは「ジョーズ」の中でロバート・ショーが語った軍艦インディアナポリスの乗組員についてもリサーチして話を組み立てていったという。けれども、まだまだ物足りない。話の動かしようがないシチュエーションなのは分かるが、2人の背景を含めて描いていけば、もっと映画的にもっと面白くできたのではないか。どうせなら、事実に迫る姿勢が欲しかったと思う。事実の方が面白そうなのだ。設定を借りただけというのなら、明確にフィクションとして発展させていった方が良かっただろう。
それができなかったのは低予算のためもあったかもしれない。デジタルビデオカメラの映像は粒子が粗く、序盤では特に気になった。こういう映像ならば、素人でも撮れるなという感じなのである(監督も言っているが、デジタルビデオカメラならば、自宅のパソコンでも編集できる)。ただ、やはり本物の役者を使っているのは強みで、主演のブランチャード・ライアンとダニエル・トラヴィスはなかなか好演している。特にブランチャード、序盤にほとんど観客サービスだけが目的としか思えないヌードシーンがある。そういうシーンを入れているのを見ると、ケンティス監督、けっこう計算高い商業主義の監督ではないかと思えてくる。
2005/08/19(金)「宇宙戦争」
1953年製作版のDVDが届いた(DVDのジャケットには1952年とある。どちらが正しいのか)。楽天のショップで1,197円。字幕版だけで日本語吹き替え版は入っていない。小学生のころだったか、テレビの吹き替え版で見て以来の再見だが、上映時間が85分と短いとは知らなかった。当時はこれぐらいの長さで十分だったのだろう。
結末はスピルバーグ版と同じなのに納得できるのはその前に都市の徹底的な破壊シーンがあり、群衆が暴徒化するシーンがあるからか。原爆を使っても撃退できない相手では奇跡でも起きないと、どうしようもないという気分になるのだ。映像は当時としては画期的だっただろう。これと「禁断の惑星」(1956年)が50年代SF映画の白眉だと思う。もちろん、物語は「禁断…」の方がよりSFらしい。
原爆を使うシーンには例の翼だけの飛行機が登場する(全翼機と呼ぶそうだ)。Northrop YB-49という実在の飛行機。30年近く前、小野耕世がキネマ旬報で「宇宙戦争」に絡めてこの飛行機のことを紹介していて、興味深く読んだものである。この原爆シーンで主人公の科学者(ジーン・バリー)と軍の兵士たちは爆風をもろに浴びる。原爆実験に参加するアトミック・ソルジャーがいた時代だから、こういう描写も仕方ないかと思う。
もし、原爆で効果があったにしても、世界中に下りた宇宙船を破壊するには相当数の原爆攻撃が必要だろう。いずれにしても地球は破滅することになる。火星人は殲滅できたが、地球もまた終末の時を迎える。そういう風な映画もありかなと思う。
2005/07/26(火)「バタフライ・エフェクト」
冒頭に出る説明によれば、バタフライ・エフェクトとは一匹のチョウの羽ばたきが地球の反対側で台風を引き起こすかもしれないというカオス理論に基づく。レイ・ブラッドベリは太古のチョウを踏みつぶしたことで現代が異様に変化するという短編「雷のとどろくような声」(「雷のような音」、A Sound of Thunder)を書いたが、この映画もそういう趣向である。パンフレットでSF作家の梶尾真治は「時間SFの傑作として私は記憶にとどめようと思っている」と書いている。確かに時間テーマのSFではあるのだが、これは人生をやり直せたらというifの世界を描いた映画と言った方が近い。主人公の今の体が過去に帰るのではなく、過去の自分に戻るからだ。愛する女性の悲惨な状況を変えるために何度も過去にさかのぼる主人公は、やがて不幸の要因となった決定的な出来事を知る。その出来事がとても皮肉である。同時に主人公にとって苦しく切ないものであり、映画は深い余韻を残して終わる。
個人的な好みから言えば、最後の処理はもっと情感を高めてくれると良かったと思うが、よくできた物語だと思う。序盤にある少年時代のエピソードの描写がしっかりしており、その後の展開に無理がない。ラブストーリー一辺倒ではなく、スリラー、サスペンス風味も強いのが独特なところ。脚本・監督のエリック・ブレス、J・マッキー・グラバーのコンビは「デッドコースター」(「ファイナル・デスティネーション」の続編で、これは第1作よりも面白かった)の脚本も担当したそうで、なるほどと思う。
「この街で(私が)腐る前になぜ帰ってこなかったの」。主人公のエヴァン(アシュトン・カッチャー)は小学生時代、引っ越しの際に“I'll come back for you.”と書いた紙を幼なじみのケイリー(エイミー・スマート)に見せて街を出る。大学生になって街に帰った時にはケイリーは食堂のウエートレスになり、やつれた様子をしていた。ひどい父親(エリック・ストルツ)と粗暴な兄(ウィリアム・リー・スコット)が一緒では、その生活が荒んでいることは容易に想像がつく。ケイリーはこの言葉をエヴァンに投げつけて、自殺してしまう。エヴァンは子どものころから時折記憶をなくすことがあり、それが過去に帰れる能力と結びついていることを最近知った。精神を病み、入院させられた父親から受け継いだものらしい。エヴァンは過去に戻ってケイリーの不幸の原因を取り除くが、過去を変えたことで現在に別の重大な変化が訪れる。エヴァンは再び過去にさかのぼらざるを得なくなる。そしてそれもまた別の重大な変化を引き起こす。そうやってエヴァンは何度も過去にさかのぼることになる。
少年時代のエピソードが残酷だ。離婚したケイリーの父親にはロリコン趣味があり、ロビン・フッドの映画と撮るといって、地下室でケイリーとエヴァンを裸にする。これは幼児虐待を暗示した描写であり、ケイリーのトラウマになるのももっともだと思わされる。こういう父親に育てられたケイリーの兄は凶暴な性格になり、映画館で年上の男を痛めつけ、ダイナマイトを使った事故で近所の母子を犠牲にし、エヴァンの犬を焼き殺す。これがエヴァンの親友でぜんそくのレニー(エルデン・ヘンソン)を引きこもりの性格にしてしまう。こうした少年時代の悲痛なエピソードは映画のトーンに暗い影を落としている。過去を変えることで現在がころころ変わる描写は一歩間違えればコメディみたいになるところなのだが、この暗さが逆に幸いしていると思う。
この映画、続編の製作が発表されている。容易に続けることができる話ではあるが、ブレスとグラバーは脚本のみの担当らしい。