2005/02/11(金)「パッチギ!」

 「パッチギ!」チラシ「モーターサイクル・ダイアリーズ」のエルネスト・ゲバラと同じように、主人公の松山康介(塩谷瞬)は恋するキョンジャ(沢尻エリカ)のいる対岸に向かって鴨川を渡る。劇中に流れる「イムジン河」は朝鮮半島を南北に分断する川を歌ったものだが、この映画の中では日本人と在日コリアンの間にある深い川をも象徴しているのだろう。だから、康介が川を渡る姿は民族の対立を超えた姿にほかならない。川を渡るという行為のメタファーは実に分かりやすいのである。もちろん、康介にはそんな大層な意識はない。好きなキョンジャに近づきたく、親しくなりたいだけだった。そのために朝鮮語を勉強し、「イムジン河」の歌を練習する。

 井筒和幸監督が「ゲロッパ!」に続いて撮ったのは1968年の京都を舞台にした青春群像ドラマ。日本人と在日朝鮮人の高校生たちが恋とけんかに明け暮れる姿をエネルギッシュなタッチで描いている。フォーク・クルセダースの「イムジン河」「悲しくてやりきれない」「あの素晴らしい愛をもう一度」(実際は加藤和彦、北山修のデュエットだし、これは70年代の歌である。だから劇中ではなく、エンドクレジットに流れるのだろう)などが流れ、60年代のムードが横溢している(音楽はそのフォークルのメンバーでもあった加藤和彦)。高校の先生が毛沢東語録を紹介したり、全共闘の描写があったり、描かれる風俗は40代以上にはある種の郷愁を誘う内容であり、「アメリカン・グラフィティ」のように見ることもできる。失神者が続出して救急車が駆けつける冒頭のオックスのコンサートの場面から戯画化されていて、笑って笑って時に泣かせる展開を堪能した。若手俳優からわきを固めるベテランまで出演者の演技が総じて良く、群像劇を見事に成立させている。何よりも元気の出る映画になっているところがいい。

 府立東高の2年生、松山康介はある日、担任から朝鮮高校にサッカーの親善試合の申し込みに行くよう言われる。親友の紀男(小出恵介)と一緒に恐る恐る朝鮮高校に行った康介は音楽室でフルートを吹くキョンジャに一目惚れする。キョンジャの兄は朝鮮高校の番長アンソン(高岡蒼佑)だった。楽器店で坂崎(オダギリジョー)と知り合った康介はキョンジャが吹いていた曲が「イムジン河」という曲だったことを知り、ギターを練習するようになる。康介は坂崎からコンサートのチケットをもらい、キョンジャを誘うが、逆に円山公園で行うというキョンジャのコンサートに誘われる。円山公園ではコンサートではなく、帰国船で北朝鮮に行く決意をしたアンソンを祝う宴会が開かれていた。

 映画は康介とキョンジャの関係を軸にその周辺のさまざまな人間模様を活写していく。それがどれもこれも面白い。康介が在日のアボジ(笹野高史)から「お前ら日本人は何も知らん」と言われる重たい場面から、「悲しくてやりきれない」が流れる中、ギターをたたき壊す康介の場面、そしてラジオ局で康介が歌う「イムジン河」をバックにアンソンたち朝鮮高校と東高の生徒たちの集団乱闘シーンへと連なるクライマックスが秀逸である。日本人と在日コリアンの関係について特別な回答を用意しているわけではないけれど、監督はパンフレットで「殴り合え、でも殺し合うな」というメッセージを込めたと言っている。殴り合うこともまた交流の一歩なのであり、そうした複雑な関係を普通に描写しているところにとても好感が持てる。60年代を舞台にしていても、ただ懐かしがっているわけではなく、今に通用する映画になっているのは人物の描き方が生き生きしているからだろう。主演の塩谷瞬は透明な感じがいいし、ラジオ局で「イムジン河」を流すことに反対する上司を力づくでだまらせるディレクターを演じる大友康平、スケバンから看護婦に転身する真木よう子、アンソンの恋人役の楊原京子などの演技が印象に残る。

 ちょっと気になったのはカラーの画質で、妙にくすんでいる。60年代を意識したのか、デジタルビデオカメラでの撮影だったのか知らないが、もっとすきっと抜けるカラーにした方が良かったのではないか。

2005/01/05(水)「恋人はスナイパー劇場版」

 君塚良一脚本だが、ワンアイデアで1時間52分を持たせるのはつらい。どこかで聞いたアイデアだと思ったら、西村京太郎「華麗なる誘拐」が原作になっている。だいぶアレンジしてあるにしても、あと2つか3つのアイデアが必要だったと思う。監督はテレビ中心の六車俊治。

 水野美紀といかりや長介が出てくると、「踊る」の番外編かと思えてくる。水野美紀はアクション志向だけあって、クライマックスのアクションはなかなか。内村光良よりもよほど決まってる。もっと彼女の資質を発揮できるようなアクション映画は撮れないものか。

 かつての邦画なら、B級アクションが豊富にあったのだが、大作中心の今となっては難しいだろう。アクション女優(水野美紀はそうではないが)にとっては不遇の時代と言える。

2005/01/04(火)「ULTRAMAN」

 「ULTRAMAN」チラシほとんどスルーしようと思っていたのだが、2chや映画生活で評判が良かったので長男を連れて見に行った。映画館には息子連れの父親がたくさん。なるほど、これは子供向けというよりは子供を連れた父親向けの映画なのだった。

 「ウルトラマン」第1シリーズ第1話の丁寧な語り直しという感じである。ドラマをしっかり作っているし、クライマックスの空中戦も悪くない出来である。特に新宿副都心の高層ビルの間を飛び回るウルトラマンは素晴らしい。ただ、雲の上に上がってからの戦いは予算がなかったんじゃないかと思えるぐらいの出来。この程度で褒めるのはどうかと思う。出来としては普通の映画だろう。いや、確かに近年のウルトラマンコスモス3部作に比べれば、はるかにいいのだけれど、ドラマはもっと情感を盛り上げてほしいし、VFXにもセットにも金をかけたいところだ。「俺は、おまえを許さない」と叫ぶ主人公の心情にもっともっと迫ってほしかった。プラス、SF的設定の強化を図れば、企画があるらしい第2作はさらに面白くなるのではないかと思う。

 ウルトラマン第1話といっても、科学特捜隊は登場しない。主人公は航空自衛隊のパイロット真木舜一(別所哲也)。真木は血液の病気に冒された6歳の息子継夢(つぐむ)のために空自を辞める決意をする。息子は今度発病すれば助かる確率は20%と宣告されていた。最後のスクランブルで発進した真木は赤い発光体と激突。墜落してしまう。真木は奇跡的に助かるが、その後、防衛庁の特務機関BCST(対バイオテロ研究機関)が真木を監視し、強引に連れ去る。3カ月前、海底で青い発光体に遭遇した有働貴文(大澄賢也)が凶暴な生命体に変貌したためだ。この生命体はザ・ワンと呼ばれたが、研究所を逃走し、次々に人間を殺すようになる。BCSTの水原沙羅(遠山景織子)はザ・ワンの二の舞を防ぐため、真木をネクストと呼び、監禁する。そして真木を囮に使い、ザ・ワンを呼び寄せるが、ザ・ワンは想像以上に進化を遂げていた。危機が迫った水原を銀色の巨人に変身した真木が救う。

 「飛べる。俺は、この空を飛べる」。F15Jイーグルのパイロットを辞めた真木がクライマックス、ウルトラマンに変身したところで言うセリフがいい。ザ・ワンとの戦いで思わずジャンプしたウルトラマン=真木は自分が空を飛べることを発見する。幼いころ、太陽に翼をきらめかせた「銀色の流星」のようなジェット機を見て、パイロットを志した真木だからこそ似合うセリフなのである。主人公に妻と子供がいるという設定はウルトラマンのシリーズの中では初めてだろう。ウルトラマンの原点に返りつつ、しっかりとキャラクターを形成していくことを監督の小中和哉は意図したのではないかと思う。ただし、この映画に足りないものがあるとすれば、それは観客の心をつかんで離さないようなエモーションの強さだろう。エモーションを高めるには主人公とザ・ワンとの確執にもっと工夫が必要だった。「俺は、おまえを許さない」というセリフは両者の関係が間接的なものだから、あまり心に響かないのである。

 主人公の妻に裕木奈江、空自の同僚に永澤俊矢、主人公の再就職先の民間航空会社社長に草刈正雄、自衛隊幹部に隆大介が扮していい味を出している。