2005/11/28(月)「親切なクムジャさん」

 「親切なクムジャさん」パンフレットパク・チャヌク監督の復讐3部作の最終作。第1作「復讐者に憐れみを」は見ていないが、第2作「オールド・ボーイ」よりもさらにブラックな笑いの要素が増えて、コメディに近くなっている。今回は初めて女優(イ・ヨンエ)が主役を務める。誘拐殺人の無実の罪を着せられ、刑務所に13年間服役した女が罪を着せた男(「オールド・ボーイ」のチェ・ミンシク)に復讐する話。主人公はけがを負わされたわけでも肉親を殺されたわけでもないので、復讐の念としては強さに欠けるし、復讐相手のスケールが小さいなと思っていたら、終盤にもっとひどい男であることが分かる。それを受けたクライマックスのシーンはアガサ・クリスティの某作品を思わせるシチュエーション(パンフレットで滝本誠も指摘していた)であり、クリスティが描かなかったことを詳細に描くとこういうブラックな味わいにもなるのだろう。イ・ヨンエの生真面目な演技と美しいメロディの音楽に騙されそうになるが、あまり深刻に受け取らず、クスクス笑いながら見るのが正しいのだと思う。だいたい、イ・ヨンエの演技のさせ方自体にミスマッチを狙ったフシがある。刑務所の中でヒロインが「先輩もご飯をたくさん食べて、薬もたくさん飲んで…早く死んでね」と言うシーンやクライマックスの斧のシーン、時折挟まれるナレーションなどにブラック・ユーモアが弾けている。逆に言えば、こうした笑いを取るためにヒロインの境遇を不幸のどん底にはしなかったのではないか。そこまで考えて作ったブラックな映画なのだと思う。

 映画は主人公のクムジャ(イ・ヨンエ)が刑務所を出所する場面から始まる。刑務所の中でクムジャは北朝鮮の年老いた女スパイの世話をしたり、いじめられた囚人仲間のためにいじめた相手に仕返しをしてやったりして、いつも笑顔の“親切なクムジャさん”と呼ばれていた。しかし、それは自分を刑務所に入れた男への復讐のためだった。囚人仲間に親切にすることで多くの協力者を作ったクムジャは出所するとすぐに復讐の準備に取りかかる。クムジャは13年前、ウォンモという少年を誘拐して殺した罪で捕まった。それは高校時代に妊娠したクムジャが助けを求めた英語講師のペク(チェ・ミンシク)の仕業だった。ペクはクムジャの生まれたばかりの子供を誘拐し、誘拐殺人の罪をかぶらなければ子供を殺すと脅迫したのだ。クムジャは復讐計画の一環で、刑務所仲間をペクの妻にしていた。ついにペクを捕らえたクムジャは山奥の廃校に連れて行く。そこでペクの他の悪行が明らかになる。

 クムジャの行動の根底には誘拐されたウォンモ少年を助けられなかった自責の念があり、贖罪の意識も働いている。だから刑務所を出所後、ウォンモの両親の家へ行き、自分の指を切断する。ここも笑えるシーンになっており、「10本すべて切断しようとしたが、ウォンモの両親に止められた」とナレーションが入る上に、ウォンモの母親はクムジャの行動に真っ青になって気を失い、一緒に救急車で病院へ運ばれることになるのだ。オーストラリアに養女に出されていた自分の娘を迎えに行くシーンでの相手夫婦の描き方なども素直におかしい。血みどろのグロいシーンと笑いを織り交ぜたパク・チャヌクの演出は確信犯だなと思う。

 ところが、パンフレットのインタビューを読んでみたら、主人公の復讐の動機が弱い点について、パク・チャヌクは「あえて弱い動機にしたわけですが、それは復讐を私的な恨みではなく、論理的にしたかったからです」と語っている。私的な復讐ではなく、社会の復讐。凶悪犯人を警察に渡すべきか、自分の手で裁きを下すか。それがこの映画の重要なテーマなのだという。私的な復讐はテロに通じるというパク・チャヌクの言葉はしかし、この映画では十分にテーマとして昇華していないように思う。これは後付けの理由ではないのか。もしそうしたテーマの映画にしたいのならば、クムジャ自身を強い復讐の念を持つ立場に置いた方が良かっただろう。主人公をクライマックスで傍観者的立場に置くことは、そうしたテーマを描く上では間違いである。

 思えば、出世作となった「JSA」でも、パク・チャヌクは南北分断のテーマよりも細部の描写に才能を見せていた。本質的にテーマ主義の監督ではなく、エンタテインメントの監督なのである。パク・チャヌク、もしかして自分でそれに気づいていないのか。

2005/11/27(日)「サマリア」

 「サマリア」DVD表紙ベルリン映画祭銀熊賞を受賞した「サマリア」。話題になった映画だったので落ち穂拾いをするためにビデオ店で借りようと思ったらなかった。仕方がないので、DVDを注文した(ついでに「スター・ウォーズ エピソード3 シスの復讐」も注文した)。届いたのでさっそく見る。

 「バスビルダ」「サマリア」「ソナタ」の3章から成る。DVDに収録されている監督インタビューによれば、タイトルのサマリアは真ん中の章から取っただけで深い意味はないとか。女子高生の援助交際をきっかけにした物語で、後半は女子高生よりも父親の方に焦点が当てられるが、個人的にはピンと来なかった。悪くはないけど、そんなに絶賛するものかね、という感じ。ラスト近く、父親が娘に車の運転を教える場面などメタファーが明らかすぎて興ざめである。娘が死んだ親友のために、親友が援助交際で得たお金を客の男たちに返していくところなども、説得力をあまり感じない。

 ただ、映像にはセンスを感じたので、念のために以前録画しておいた「悪い男」を見てみた。いやあ、これは傑作だと思う。こちらの方が僕にはよく分かる。ヤクザが女子大生に一方的に思いを寄せる話で、その思いの寄せ方は変わっているのだが、純愛といっていいと思う。2人の関係を強調するためにクライマックス以降にファンタスティックな要素がある。主人公にほとんどしゃべらせない設定(主人公はのどに傷を負っているために甲高い声しか出せない)は珍しく、それでも映画が成立してしまうところに感心した。何よりも映像に力がある。暴力描写だけでなく、どの場面にも力がこもっている。女子大生を無理矢理、娼婦にしてしまうというストーリーは(その描写も含めて)女性には反感を買うかもしれないが、これはファンタジーなのだと思っていただきたい。鋭い目つきをした主演のチョ・ジェヒョンの演技にはひたすら感心。女子大生から娼婦にさせられる役を演じるソ・ウォンも悪くない。

 翻って、「サマリア」を見れば、至る所に「悪い男」の要素があるのが分かる。父親が娘と寝た男にふるう暴力などにその片鱗が引き継がれているし、「悪い男」の主人公がしゃべらなかったように「サマリア」は全体が寡黙な映画である。キム・ギドクはかつて怒りが爆発するような映画を撮っていたが、前作の「春夏秋冬そして春」から、「今は社会と和解し、世の中をもっと美しく見よう」と思って作風が変わったのだそうだ。激しさから静かさへの変化。それは描写が洗練へ向かうことを意味するのだろうが、僕は「悪い男」のような映画の方が好きだ。

2005/11/26(土)「ハリー・ポッターと炎のゴブレット」

 「ハリー・ポッターと炎のゴブレット」パンフレットハリー・ポッターシリーズの第4作。今回は「フォー・ウェディング」のマイク・ニューウェルが監督を務めた。毎度のことながら、2時間37分の上映時間は長すぎると思う(エンドクレジットが10分ほどあるのにもまいった)。毎回2時間を大幅に超える映画になるのはプロデューサーに「長くなければ大作ではない」という意識でもあるのだろう。この4作目も内容からすれば、2時間程度にまとめられる話である。ニューウェルの演出はとりあえず、字面を映像化してみました、といったレベル。VFXは水準的だし、演技力云々を別にすれば、主役の3人も僕は好きなのだが、映画にはエモーションが欠落している。ハリーの初恋もハリーとロンの仲違いも、ハーマイオニーとの関係もただたださらりと何の思い入れもなく描いただけ。心がこもっていない。ニューウェル、こういうファンタジーが本気で好きではないのに違いない。監督の人選を間違ったのが今回の敗因なのだと思う。

 メインの話、というよりも、長い時間をかけて描かれるのは三大魔法学校対抗試合(トライウィザード・トーナメント)。危険を伴うために100年以上も禁止されていた試合が開催されることになり、17歳以上が出場するという条件にもかかわらず、炎のゴブレットに選ばれて14歳のハリー・ポッター(ダニエル・ラドクリフ)もホグワーツ魔法魔術学校を代表して出場することになる。ホグワーツのほか、対抗試合に出るのはボーバトン魔法アカデミーとダームストラング学院の代表。試合はドラゴン、水魔、迷路での戦いの3つである(どうでもいいが、日本語吹き替え版では水魔がスイマーに聞こえた)。出場者は魔法の杖と実力を頼りに勝ち抜いていかなければならない。

 これに合わせて1作目から続く悪の権化ヴォルデモートとの確執が描かれる。シリーズ全体を眺めれば、ハリーの両親を殺したヴォルデモートとの対決が話の軸になっていくのはよく分かる。この映画の冒頭にヴォルデモートは登場し、クライマックスもヴォルデモートの復活になっており、この部分に関しては大変面白かった。ただし、こういう構成ではそれまでの対抗試合の話が結局のところ、刺身のツマみたいになってしまうのだ。映画を見終わってみれば、対抗試合がどのような結果になろうと、大した問題じゃなくなる。困るのは、このツマがメインの刺身よりも大きいこと。本筋に導くための脇筋なのに、これでは本末転倒としか思えない。

 これは脚本が悪いのだろうと思って、脚本家の名前を見たら、なんと「恋のゆくえ ファビュラス・ベイカー・ボーイズ」(1989年)のスティーブ・クローブスではないか。というか、クローブス、1作目からずっとこのシリーズの脚本を書いている。知らなかった(ではなく、忘れていた。1作目の映画評を読み返してみたら、言及していた)。個人的には大好きなあの佳作を撮った監督がなぜ、この程度の脚本しか書けないのか。オリジナルではない脚色の難しさというのは確かにあるのだろうが、あまりと言えばあまりな出来である。対抗試合はあっさりすませてハリーとヴォルデモートの対決をあくまでもメインに置いて書くべきだった。

 ヴォルデモートを演じるのはレイフ・ファインズ。鼻のつぶれたメイクでハンサムなファインズにはとても見えない。次作以降、出番も多くなるのだろうからこその演技派のキャスティングなのだろう。その次作「不死鳥の騎士団」を成功させたいなら、まず脚本をじっくり書かせたうえで、ファンタジーに理解のある監督を選んで欲しいものだ。上映時間も2時間以内に収めることを切に望む。その方が絶対に引き締まった印象になる。そうしないと、このシリーズは所詮子供向けの大味なシリーズということになってしまうだろう。

2005/11/23(水)「キングダム・オブ・ヘブン」

 「キングダム・オブ・ヘブン」チラシ今年前半に見逃した映画をDVDで追いかけることにした。これは何となく、史劇に食指が動かなかったので見なかったのだが、映画館で見るべきでした。

 キリスト教徒とイスラム教徒の軍事的抑制で危ういバランスが取れていた12世紀のエルサレムを舞台にしたドラマ。キリスト教徒の王・ボードワン4世の死で、バランスが崩れ、戦闘が始まる。テレビの画面で見ていると、美術やセットなどがいかに素晴らしくても、主人公がエルサレムへ行くまでの前半は何ということもない映画に感じられるが、クライマックスのエルサレム攻防の戦闘シーンが凄かった。「ロード・オブ・ザ・リング」に匹敵するスペクタクル。CGで描いたと思われる兵士の数の多さにはもう驚かないけれど、投石の迫力が凄いし、画面の構図や映像の撮り方がオリジナリティに富んでいる。

 さすがにリドリー・スコットは映像派の監督だなと再認識した。個人的にはベストテンに入れてもいいかと思ったほど。中盤の戦闘シーンを省略したのは、見ている間は「影武者」を参考にしたのかと思ったが、クライマックスの迫力を減じないためではないかと思い直した。

 主演は「ロード・オブ・ザ・リング」のレゴラスことオーランド・ブルーム。こうした超大作の主演にはちょっと線の細さを感じるが、無難に演じている。聖地を守るためではなく、そこに住む民を守るために戦うという主人公の設定がいい。

2005/11/22(火)「ダーク・ウォーター」

 「ダーク・ウォーター」パンフレット鈴木光司原作、中田秀夫監督の「仄暗い水の底から」(2002年)のリメイク。監督は「セントラル・ステーション」「モーターサイクル・ダイアリーズ」のウォルター・サレス。原版を見ていないので比較しようがないが、これはホラーというよりも母娘の絆を描いた映画と言える。ホラーとしては理に落ちた分、怖くなくなっている。物語に納得してしまえるホラーは怖くないのである。不条理の怖さ、理由のない怖さ、問答無用の怖さ、といったものはこの映画にはない。子供の頃に母親から憎まれ、捨てられたヒロインの精神状態の不安定さを利用すれば、そうした怖さが表現できたと思うが、サレスはそういう演出をしていない。睡眠薬で丸一日眠ってしまったヒロインが見る悪夢のシーンなどはもっと怖くできるのに、と思う。黒い水(ダーク・ウォーター)が部屋を浸食するようにヒロインの精神も浸食されていくような演出がもっと欲しいところではある。だから、この映画を見ると、たかが子供の霊だから怖くないんだよなということになってしまう。同じくハリウッド進出監督のホラーということで、見ていて連想したのはアレハンドロ・アメナーバルの「アザーズ」だが、あの映画で怖さ以上に魅力的だった情緒的な悲劇性もまた、この映画には薄い。映画の丁寧な作りとジェニファー・コネリーの好演に感心はしたが、映画としては水準以上のものにはなっていない。

 離婚調停中のダリア(ジェニファー・コネリー)は一人娘のセシリア(アリエル・ゲイド)とルーズベルト島のアパートに引っ越してくる。ダリアは夫のカイル(ダグレイ・スコット)とセシリアの親権を争っているが、ニューヨークのアパートは家賃が高すぎてダリアには手が届かなかった。アパートは古ぼけており、管理人のヴェック(ピート・ポスルスウェイト)は愛想が良くない。親子はアパートに入った途端、気味の悪さを感じるが、家賃が安かったこともあって入居を決めた。部屋は9階。ダリアは天井には黒いシミがあるのを見つける。上の階から水が漏れているらしい。上の物音も響いてくるが、10階の部屋は空き部屋だという。いったん修理した天井のシミからは再び黒い水がしたたってくる。10階の部屋に行ってみたダリアは部屋が一面、黒い水で水浸しになっているのを見る。そしてセシリアは見えない友人ナターシャと話をするようになる。地下のコインランドリー室では洗濯機から黒い水が噴き出す。不思議な出来事と夫との親権争いが徐々にダリアを精神的に追いつめていく。

 雨がしとしとと降り続く場面が象徴するように映画には湿っぽい雰囲気が充満している。それはダリアの幼少期からの不幸な境遇にも通じており、ダリアは今の娘との幸せを守ろうと必死になっている。コネリーは実際に2人の子供の母親だけあって、そのあたりの母親の愛情についてはうまく表現している。映画で惜しいのは語り口がやや一本調子になってしまったこと。これはストーリーと関係するが、途中で大きな転換の場面が欲しくなってくる。丁寧に撮った作品が必ずしも傑作になるわけではないのである。物語自体の面白さがやはり必要なのだろう。ラファエル・イグレシアスの脚本は原作(短編)を膨らまし切れていないように思う。

 いい加減な不動産屋のジョン・C・ライリーといつも車の中で仕事をしている弁護士のティム・ロスのキャラクターは面白かった。ピート・ポスルスウェイトも含めて、この映画、役者の演技に関しては文句を付ける部分はない。