2006/09/09(土)「X-MEN ファイナル ディシジョン」
監督がブライアン・シンガーからブレット・ラトナーに替わった第3作。ジェームズ・マーズデンはシンガーの「スーパーマン リターンズ」にも出ているためか、本来ならX-MENの中心メンバーであるはずのサイクロップスがあっさり退場。それとは関係ないが、ひいきのミスティーク(レベッカ・ローミン)も早々に姿を消すのにがっかり。今回の中心は前作のラストで死んだと思われたジーン・グレイ(ファムケ・ヤンセン)で、エグゼビア教授(パトリック・スチュワート)教授もマグニートー(イアン・マッケラン)をも上回る超能力の暴走がX-MENにとって大きな脅威となる。ラトナーの演出はこの悲劇的な話を少しもエモーショナルには描かず、VFXだけの映画という印象となっている。映画を盛り上げるポイントがないのである。シンガーならもう少し情感たっぷりに描いたはずだ。個人的にはストーム(ハル・ベリー)とヤンセンを見ているだけで満足なのだが、ヤンセンのあの怪物のような形相はいただけない。抑えきれない超能力の暴走という点で「キャリー」や「フューリー」を思い起こさせる映画である。
ミュータントの能力をなくす治療薬キュアが開発される。ミュータント省の長官を務めるビースト(ケルシー・グラマー)は「恵まれし子供たちの学園」を訪れ、エグゼビア教授にそれを告げる。政府はミュータント政策としてキュアの投与を呼びかけるが、マグニートー率いるブラザーフッドは反発。キュアを開発したのはワージントン(マイケル・マーフィー)。ワージントンの息子エンジェルは背中に翼を持つミュータントだった。一方、ジーン・グレイを失って失意のサイクロップスはグレイの声に導かれるようにジーンが死んだ湖に行く。そこへ死んだはずのジーンが現れる。ウルヴァリン(ヒュー・ジャックマン)とストームも湖に駆けつけ、ジーンを学園に連れ帰るが、サイクロップスの姿はなかった。エグゼビア教授はウルヴァリンに、ジーンは邪悪なフェニックスとの二重人格者だと教える。そしてジーンはウルヴァリンの目の前で学園を脱走、接触してきたマグニートーの仲間に加わる。
キュアの元になったのはミュータントの能力を無力化する能力を持つミュータントのリーチ(キャメロン・ブライト)。保護された研究所の中にいるリーチの在り方は大友克洋「アキラ」を思わせる。クライマックスはこのリーチを抹殺しようと図るミュータント軍団に立ち向かうウルヴァリンたちが描かれる。この場面は映画の最初の方にある戦闘シミュレーションと呼応しているのだが、撮り方もVFXもそれほど際だったものではない。復讐の女神と化したジーン・グレイをどう助けるかでリーチの能力を生かすのかと思ったら、普通の決着の付け方なので少しがっかり。というか、本来ならこの決着の付け方の方が悲劇的ではあるのだが、ラトナーの演出がそれを生かせていないのである。パンフレットのみのわあつおの文章によると、「X-MEN」はキャラクターのスピンオフを含めて計10作が作られる予定という。せめてこの第3作まではシンガーに撮って欲しかったところではある。
ファムケ・ヤンセンは今年41歳、ハル・ベリーも40歳だが、年を感じさせない魅力はさすが、というべきか。前作までレベッカ・ローミンはレベッカ・ローミン=ステイモスという名前だったが、ジョン・ステイモスとは昨年、離婚したのだそうだ。
2006/09/06(水)「うつせみ」
キム・ギドクがヴェネチア映画祭で銀獅子賞を受賞した作品。詩情あふれる映画で、予告編にある「至福のロマンス」という表現がぴったり来る。セリフが少ないのはギドク作品では珍しくはないが、主人公(ジェヒ)にはまったくセリフがなく、相手役のイ・スンヨンは「愛してる」などひと言、ふた言だけというのが徹底している。これだけセリフがないと、字幕なしでも十分理解できるだろう。主演の2人の心の動きは描写だけで分かるのだ。描写の洗練度は最近のギドク作品の中でも上位に来ると思う。
留守の家を探して忍び込み、洗濯をしたり、掃除をしたり、故障した時計を直す青年がある豪邸で女と出会う。女は殴られて顔にあざができている。青年の様子を見ていた女は何となく親近感を覚えるが、そこに夫が帰ってくる。横暴な夫を見て腹を立てた青年はゴルフボールをぶつけ、女は青年と一緒に出て行く。そこから2人は留守の家を探し、忍び込み、という生活を続ける。
こういう生活に破綻が来るのは目に見えているが、そこからの展開も面白い。2人の間にある障害をどう克服していくかの話と見ることもできるだろう。ファンタスティックな描写はないけれど、ジェヒとイ・スンヨンがどちらも美形なので、幻想的な雰囲気が立ち上ってくる。
ギドクは誰にも教わらず独学で独自の世界を作り上げている希有な監督で、そのオリジナリティーは大したものだと思う。残念ながら、新作の「弓」は韓国では1週間で打ち切られたそうで、「グエムル」のポン・ジュノとは対極の立場にあるが、それでも作品から目を離せない監督であることは間違いない。
2006/09/03(日)「グエムル 漢江の怪物」
映画の冒頭、米軍が大量のホルムアルデヒドを下水に流す場面は韓国で2000年に実際にあった事件だそうだが、たかがホルムアルデヒドぐらいで巨大化した突然変異の怪物ができるわけはないと思う。監督のポン・ジュノはしかし、そんなことは単なる設定だよと言わんばかりに、怪物に娘をさらわれた家族の奮闘をユーモアを絡めて徹底的にエンタテインメントに描いていく。
怪獣映画の中には怪獣の出てくる場面だけが見所で、あとは延々と退屈という作品がよくあるけれど、この映画の場合、家族を描いた部分が怪物登場シーン以上に面白い。というか、おかしい。このユーモアは登場人物のキャラクターと直結していて、主人公のソン・ガンホは小さいころ頭が良かったのに成長時にタンパク質がたりなくて今のようになってしまったとか、出てくるアメリカ人科学者がなぜか斜視であったりとか、ソン・ガンホの妹と弟も駆けつけた合同葬儀の場面のドタバタとか、怪物追跡で疲れきって寝入ってしまう場面とか、頭からウィルスを採取されようとするソン・ガンホの手術の場面とか、ほとんど冗談かと思える描写が多くて実におかしい。この面白さはポン・ジュノの前作「殺人の追憶」に共通するもので、この作り方がポン・ジュノの個性なのだなと思う。こうしたユーモアがキャラクターの分厚い肉付けとなっている。それはあらゆる映画に必要なものであるにもかかわらず、書き割りみたいな類型的キャラクターが怪獣映画には多くてうんざりするのだが、基本的に映画作りのうまい監督が撮ると、やはり映画は面白くなるのだった。怪物自体に新機軸はないものの、怪物映画の快作になり得たのはそのうまさがあるからにほかならない。
怪物をゴジラのように巨大化しなかったのは賢明で、あれぐらいの大きさなら家族で対抗できると思う。巨大鮫や巨大熊が出てくる動物パニック映画と基本的には同じ作りなのである。惜しむらくはこの映画、軍隊が登場しない理由が明確には描かれない。あんな怪物、バズーカ砲を一発見舞ってしまえば、終わりだろう。
漢江から謎の怪物(グエムル)が現れ、人々をむさぼり食う。漢江のそばで売店を営むパク・ヒボン(ピョン・ヒボン)は長男のカンドゥ(ソン・ガンホ)とその娘ヒョンソ(コ・アソン)と暮らしていたが、ヒョンソが怪物にさらわれ、水の中に消える。弟のナミル(パク・ヘイル)とアーチェリーの選手でもある妹のナムジュ(ペ・ドゥナ)が犠牲者の合同葬儀に駆けつけるが、怪物は謎のウィルスの宿主だったとして韓国政府は怪物に接触した人々を隔離する。その夜、カンドゥの携帯にヒョンソから電話が入る。ヒョンソは生きていたのだ。家族4人は病院を抜け出し、武器を調達して怪物が逃げ込んだ下水道を探し始める。
グエムルが橋の欄干からゆっくりと水中に落ちる場面の動きなどは「エイリアン」を参考にしたのかと思う。同様に娘をさらわれるのも「エイリアン2」の設定を借りているのだろう。家族で怪物に対抗するのは「トレマーズ」あたりか。僕はなんとなくこれまたB級怪物映画の快作「ミミック」(1997年、ギレルモ・デル・トロ監督)も連想したが、パンフレットでポン・ジュノ、やはり「ミミック」に影響を受けていると語っていた。ペ・ドゥナの役柄はアーチェリーで銅メダルを取った選手だから、これはクライマックスにそれを利用するシーンがあるだろうと思っていたら、やはり。その使い方も工夫があって面白かった。
怪物のデザインはWETA社が担当したそうで、魚とトカゲを組み合わせたような造型はよくできている。CGのスピーディーな動きが凶暴性を感じさせて良かった。それにしてもこの怪物、1匹だけではないだろう。続編も期待できるが、有能なポン・ジュノは同じことを2度はしないような気がする。
2006/09/02(土) シーガイア楽園音楽祭
「人いっぱいいてうれしいーっ」。一青窈が言った。確かに多かった。数千人から1万人ぐらいか。一青窈は「かざぐるま」(映画「蝉しぐれ」の主題歌)がオープニング。約1時間で10曲ほど歌ったか。観客が総立ちなので、背の低い次女には全然ステージが見えない。時々、抱えてやる。
しゃべりの中で「ハナミズキ」は同時テロの際に作ったというエピソードが紹介された。この歌、君と君の好きな人というフレーズが印象的なのだが、ホントは君と君の好きな人とそのまた好きな人という風につながっていけばいいという思いを込めたそうだ。なるほど。そういう説明をされて初めて歌詞をじっくり聴いた。ボートに3人は乗れないから君と君の好きな人を乗せて自分は残るという歌なのですね。一青窈はオーシャンドームで20代最後のビキニを着たそうだ。
続いてゴスペラーズが登場。観客の7割ほどが女性だったのはゴスペラーズのファンが多かったからだろう。こちらもメンバーが登場した途端に総立ち。またもや時々次女を抱える。
ゴスペラーズは1995年にやはりシーガイアでミニコンサートを開いたことがあり、1000人の観客の前で歌ったのはその時が初めてだったそうだ。ラジオの公開番組で本番は20分だったが、観客の支持を受けてアンコールが40分になったという。「持ち歌はすべて歌いきり、学生時代の練習曲まで歌って、もう歌う曲がないと言って終わりました。無名のころだったので、純粋に自分たちの音楽が評価されたのがうれしかった」という趣旨のことを語った。その時からブレイクするまではしばらく時間がかかったとのこと。
このほか宮崎出身の坂本梨奈、福岡のデュオ・ケイタク、DEPAPEPEという2人組(インスト・アコースティック・ギター・デュオというそうだ。歌はなく、演奏のみ)が前座で登場。ゴスペラーズと一青窈は大学時代の先輩後輩で、最後はDEPAPEPEを含めてコラボ。アレンジした「真っ赤な太陽」など。午後6時から10時過ぎまで。アーティストがみんな乗っていたのは観客が多かったからだろう。そういう意味では良いコンサートだった。
それにしても立ちっぱなしで疲れた。駐車場から会場までも遠かったし。
2006/08/27(日) スクリーンクォータ制度
韓国の映画館は年間146日間、韓国映画を上映しなければならないと決められた制度。7月から半分の73日にするとのことだったが、そうなったのだろうか。この言葉をGoogleで検索してみると、スクリーンクォーターと間違った記述が多い。検索結果の最初に出てくる著作権マニアのページのコメント欄で指摘されているようにScreen Quota(割り当て)が正しいようだ。
キネ旬総研とか毎日新聞とかも間違っているのが面白い。どう考えても146日は4分の1(quarter)じゃないですよね。どっちを入れても検索結果に出てくるGoogleはえらいと言うべきか。