2006/02/13(月)「ジャーヘッド」
ジャーヘッドとは海兵隊員の俗称。1991年の湾岸戦争を経験したアンソニー・スオフォードのベストセラー「ジャーヘッド アメリカ海兵隊員の告白」を「アメリカン・ビューティー」「ロード・トゥ・パーディション」のサム・メンデス監督が映画化した。劇中にある「4日と4時間と1分で戦争が終わった」という表現は地上戦が始まった1991年2月24日から28日までを指す。
主人公が所属する第2小隊はサウジアラビアに駐留して油田警備などをしながら半年近くも延々と待った挙げ句、イラク国境に進撃するが、銃を撃つこともなく、終戦を迎えることになる。狙撃兵の主人公が生きた敵の姿を目にするのは、はるか遠くにいるイラク将校の姿をライフルのスコープの中にとらえる場面だけ。だから映画の中で描かれるのは湾岸戦争というよりも出番を待ち続ける海兵隊員たちの姿。IMDBによると、「Fuck」とそれに類する言葉が278回も出てくるそうで、そういう猥雑な海兵隊の日常がユーモアを交えて描かれていく。メンデスは一場面一場面をかっちりと撮っていく監督なので、燃え上がる油田の描写や砂漠の中の訓練など印象的な場面が多い。爆撃シーンはあっても兵士同士の戦闘場面はなく、それゆえ反戦とも好戦とも違った異色の戦争映画、軍隊映画になっている。ただ、それ以上のものではない。海兵隊の実情はよく分かっても、批判精神が希薄なので、中途半端さを感じるのだ。
映画の最初にざっと描かれる説明によれば、主人公のスオフォード(ジェイク・ギレンホール)の父親はベトナム帰還兵。母親は生活に疲れきっており、妹は精神病院に入っている。典型的なプアーホワイトの家なのだろう。「大学に行く途中で間違って」18歳で海兵隊に入ったスオフォードは「フルメタル・ジャケット」のような訓練を受けた後、サウジで「砂漠の盾作戦」に参加する。ところが、まだ外交交渉の段階なので、海兵隊の当面の任務は油田警備だった。ここから過酷な訓練やスオフォードの恋人への思い、「地獄の黙示録」の襲撃シーンに興奮する兵士たち、気温45度の中でのフットボール、クリスマスイブの騒ぎ、兵士たちのいらだち、苦悩などなどがスケッチされていく。そして砂漠に来て175日と14時間5分後にようやく「砂漠の嵐作戦」が開始される。
湾岸戦争は一応、イラクのクウェート侵攻をやめさせるという大義名分があり、アメリカ側の犠牲者も少なかったから、空爆によるイラクの死者が10万人を超えようとも、アメリカにとっては正義の戦いを標榜できた。その戦争を一兵士から見るという狙いは悪くなく、メンデスは無難にまとめているが、ドラマティックな要素は少ないので、ちょっと物足りない思いも出てくる。原作自体、海兵隊の人間ドラマのようだから仕方ないが、それをベースにフィクションを構築しても良かったのではないかと思う。物語の中心となるポイントらしいポイントがないのが弱いところか。
ジェイク・ギレンホールはこのところ、絶好調という感じ。普通のアメリカの青年を素直に演じて好感度が高い。指揮官のカジンスキー中佐を演じるのは「アメリカン・ビューティー」で元海兵隊大佐を演じたクリス・クーパー。小隊の直接の上司であるサイクス三等曹長は「Ray/レイ」のジェイミー・フォックス。それぞれ、いかにも軍人らしい演技をしている。
2006/02/10(金)「博士の愛した数式」
吉岡秀隆がなぜ自分がルートと呼ばれているかを教室で生徒に説明する。それがこの物語の語り方。原作でルートは確かにラストで数学の教師になるが、黒板で数式の説明するようなシーンは映画としては、うまくはないなと思う。原作の地の文にある数学の説明をするには黒板は確かに便利だが、日本のSF映画でよくあった白衣の科学者が物事を説明するシーンになんだか似ているのだ。しかし、これは小さな傷で、全体としては心優しい気分になれる佳作だと思う。博士(寺尾聰)と義姉(浅丘ルリ子)の関係を原作より明確に描いたことは生々しくなってあまり好みではないのだけれど、ゆったりとした静かな物語のアクセントになっている。「義弟には10年前の私の姿がそのまま見えているのです」という義姉の言葉にはドキリとさせられた。博士の記憶が80分しかもたないことによって、この2人は他人には入り込めない濃密な関係にある。同時に80分しか記憶を持てないがゆえに博士は苦しみも悩みも記憶せずに純粋でいられる。小泉堯史の脚本・演出は博士の枯れた静謐な生活の裏にどろどろしたものがあることをそっと浮かび上がらせている。博士の純粋さに惹かれていく深津絵里の真っ直ぐな生き方が心地よい。
家政婦として働きながら10歳の子供を育てる主人公が元大学教授の博士の家で働き始める。博士は10年前に交通事故に遭って職と記憶の能力を失い、その後は義姉の世話になって離れに住み、細々と暮らしている。数学雑誌の懸賞に応募して賞金を得るのが唯一の収入である。原作で素晴らしいのは博士の人柄を示すこんなシーンである。
「プレゼントを贈るのは苦手でも、もらうことについて博士は素晴らしい才能の持ち主だった。ルートが江夏カードを渡した時の博士の表情を、きっと私たちは生涯忘れないだろう。(中略)彼の心の根底にはいつも、自分はこんな小さな存在でしかないのに……という思いが流れていた。数字の前でひざまずくのと変わりなく、私とルートの前でも足を折り、頭を垂れ、目をつぶって両手を合わせた。私たち二人は、差し出した以上のものを受け取っていると、感じることができた」
家政婦が何人も辞めた変わり者でありながら、数学を愛し、謙虚な姿勢を貫き、子供を庇護する。タイガースファンであるという共通点を持っていた博士と家政婦親子の3人は一緒に過ごすことで幸福な時間を得る。原作はそうした幸福な描写と数学の魅力がうまく調和して、とてもとても心地よい話になっている。ただし、原作を読んで少し不満に思ったのは終盤にもっと大きな秘密が明らかになるのではないかというこちらの想像がまったく裏切られたことだった。これはミステリ慣れしている自分が悪いのだけれど、映画はそういう不満をラスト近くの義姉の言葉によっていくらか緩和してくれた。両親も捨て、親戚も捨て、世捨て人のように暮らしている2人の関係がより現実的に浮かび上がってくるのである。
映画が幸福な描写だけに終始していたら、小泉堯史らしい映画ということで終わっていただろう。この脚本、決して絶妙にうまいわけではないが、少なくとも映画としてのバランスは取れている。寺尾聰と深津絵里が良く、特に深津絵里は映画では初めての適役といっていいぐらいの演技だと思う。
2006/02/09(木)「ミュンヘン」
Inspired by Real Event.イスラエル政府は公式には暗殺チームの存在を認めていないので、この映画もまた細部はフィクションである。そしてフィクションとしてはとても面白い。古今東西のスパイ映画や殺し屋を描いた映画の中で出色の出来だと思う。モサドの兵士たちがベイルートのPLO幹部を襲う場面などはヤクザ映画を彷彿させ、見ているうちに戦争映画になる。後半、暗殺チームの存在が知られ、命を狙われることになって、主人公が部屋のベッドを切り裂いたり、電話やテレビを分解して爆弾を探す場面は「カンバセーション 盗聴」(1973年)で狂ったように盗聴器を探すジーン・ハックマンの姿を思い出した。フランスでチームにPLOの情報を教える一家の描写などは「ゴッドファーザー」のようだ。この映画はそうした過去の映画のあれやこれやを思い起こさせる。もちろん、スピルバーグの描写の技術は超一流なので、暗殺場面のリアルさ、サスペンスの醸成は抜かりがなく、2時間44分を一気に見せる。映画の面白さには何の文句もない。テロがテロを生み、報復の連鎖が終わらないという主張にもまた何の文句もない。
ただ、見ているうちにくすぶってくる不満は、テロの恐怖や無意味さを描くのなら、自分の国を取り上げてはどうか、ということだ。30年以上前の他国のテロに仮託して現在のテロの恐怖を描く方法は宇宙人の殺戮にテロを重ねた前作「宇宙戦争」と基本的には同じである。イスラム過激派とアメリカの対立の構図を元にして今を鋭く突く映画をスピルバーグは作るべきだった。そういうジャーナリスティックな視点がないので、現在に近いところで成立させた「亀も空を飛ぶ」のような衝撃をこの映画は持ちようがないし、結局、テロの恐怖が一般論に終わってしまう。一級のサスペンス映画になった完成度の高さに感心する一方で、そういう不満を抱いてしまう映画である。
1972年9月。ミュンヘン・オリンピックの選手村に「黒い9月」を名乗るパレスチナゲリラが侵入し、イスラエルの選手・役員11人を人質に取る。「黒い9月」はイスラエルに収監されているパレスチナ人の釈放を要求するが、イスラエル政府は拒否。当時の西ドイツ政府は犯行グループを国外に脱出させることで合意する。しかし空港で銃撃戦が始まり、人質11人は全員殺される。映画は冒頭でこの事件の概要を描いた後、イスラエル政府の報復を描く。ここからが本題である。政府は事件を首謀した11人のPLO幹部の暗殺を決定し、諜報機関モサドの中から5人の暗殺チームを組織する。リーダーのアヴナー(エリック・バナ)は妊娠7カ月の妻を残し、ヨーロッパに旅立つ。仲間は車両のスペシャリスト、スティーブ(ダニエル・クレイグ)、暗殺現場の後処理を担当するカール(キアラン・ハインズ)、爆弾製造のロバート(マチュー・カソビッツ)、文書偽造のハンス(ハンス・シジュラー)の4人。フランス人の情報屋ルイ(マチュー・アマルリック)から情報を買い、5人は次々に標的を始末していくが、やがて5人の存在は敵に知られ、チームは一人また一人と殺されていく。
最初の1人は銃で撃って倒すが、その後は爆弾で始末していく。爆弾を使うことでマスコミに取り上げられ、相手に恐怖を与えるために政府からもそう指示されているからだ。電話やテレビ、ベッドに仕掛けた爆弾での暗殺はそれぞれにサスペンスの仕掛けがあって面白い。イスラエルの選手がゲリラに顔を銃で撃たれて両方の頬に穴が開く描写や、撃たれた女殺し屋がしばらくして首の銃創から血をドクドクと噴き出す描写、腹に響く爆発音などなどリアルな場面がたくさんある。
こうした描写やサスペンスがあまりに面白いので「シンドラーのリスト」のような社会派の映画を見るつもりが、スパイ映画の傑作を見せられたような気分になる。スピルバーグの技術はそういう場面を的確に撮ることに長けているのだ。だから主題と内容の面白さとの間にアンビバレンツな気分が起こってきてしまう。「自分たちは高潔な民族じゃなかったのか」。メンバーの一人が言うように暗殺を続けていくうちにアヴナーの心にも迷いが起きる。1人を殺してもすぐに後任が出てくることで自分たちの使命に意味を見いだせなくなり、自分が殺されることの恐怖もわき上がってくる。そうした苦悩が描かれていくのは過去のヤクザ映画やギャング映画と同じ構図である。そうしたジャンルの中で「ミュンヘン」はトップクラスの面白さを誇っているのだけれど、テロとその報復を描いてそんな風な映画の在り方でいいのかという気分になってくる。スピルバーグの面白さを追求した技術はフィクションを描くにはとても有効だが、現実のテロを描くには向かないのではないか。現実から乖離したフィクションのようになってしまうのである。
付け加えておけば、パレスチナ自治評議会選挙でイスラム過激派のハマスが圧勝し、中東情勢が緊迫感を高めていることで、この映画は結果的にタイムリーになった。あくまでも結果的にであって、意図的にではないことが残念なのである。
2006/02/08(水)「スタンドアップ」
ようやく見た。アメリカで初めてのセクシャル・ハラスメントの集団訴訟となった題材を「クジラの島の少女」の女性監督ニキ・カーロが映画化。裁判の原告席に座る主人公ジョージー(シャーリーズ・セロン)の回想で綴られるが、裁判自体を描いたというよりも、一人の女性がひどすぎる現状を変えようと立ち上がる姿を描いている。邦題のスタンドアップはだから的確なのだが、的確すぎて面白みには欠けるセンスだと思う(原題はNorth Country)。
映画も邦題に負けず真正直な作りである。ここで描かれるセクハラは社会的弱者への差別・攻撃・侮蔑・無理解と同じことで、男女の関係に限らない普遍性を持ち得ている。現状を打破しようとする主人公の行動には強く共感させられる。ただ、技術的に感心した部分はあまりなかったし、もう少し短くできると思う。主人公と父親の関係、夫の暴力、息子との関係、過去の不幸な出来事、友人の難病などなどが詰め込まれ、これは主人公のキャラクター形成の上では意味があるのだが、主題をやや分散化する方向に働いてしまったようだ。題材から言って鋭い社会派の映画になるはずが女性映画に近くなった観がある。それでも美貌と演技力を兼ね備えたシャーリーズ・セロンを見るだけでも価値がある。アカデミー賞主演女優賞ノミネートも当然という感じの演技である。ショーン・ビーンやシシー・スペイセク、フランセス・マクドーマンド、ウディ・ハレルソンら脇を固める俳優たちの演技もいちいちうまく、役者に助けられた部分が大きい映画だと思う。
最初にInspired by True Storyと出るので、現実の訴訟そのままではなく、フィクションを取り入れた部分が多いのだろう。1989年、ミネソタ北部の小さな街が舞台。夫の暴力に耐えかねて故郷に帰ったジョージーは2人の子供を養うため旧友のグローリー(フランセス・マクドーマンド)に誘われて給料のいい(食堂のウエイトレスの6倍)鉱山で働き始める。最高裁の判例があるので仕方なく女性にも職場を少し開放しているといった感じの会社は女性への配慮はまったくない。粗にして野だが卑でもあるという最低の男たちが女性蔑視を当然のようにして横暴に振る舞う。働く女性たちは金を稼ぐために男たちの嫌がらせを我慢するしかない。ジョージーはあまりの仕打ちに腹を立て、社長に訴えるが、取り合ってもらえず、逆に辞職を勧められる。ついに高校時代に付き合っていたボビー(ジェレミー・レナー)に暴行を受け、ジョージーは弁護士のビル(ウディ・ハレルソン)に相談して会社を訴える。
ジョージーは裁判を起こしたことによって男たちの反感を買うだけでなく、働き口を守りたい女性たちからも孤立してしまう。そんな中、娘と対立していた父親が組合の集会で孤立した娘を守ろうと立ち上がる姿は胸を打つ。ここがあまりにいいので、その後、裁判で主人公のレイプされた過去が描かれ、息子と和解し、職場の仲間の女性たちが立ち上がるシーンがやや弱い印象になった。というか、そんなにたくさんクライマックスは不要のように思う。ひどい職場を改善するために組合結成に立ち上がった女性を描くマーティン・リット「ノーマ・レイ」(1979年)のように主題を絞り込んだ方が良かったのではないか。まじめに取り組んだ力作であることは間違いないが、突き抜けた傑作にはなり得ていないのが少し残念だ。
2006/02/01(水)「フライトプラン」
飛行機の中から6歳の娘がいなくなるというジョディ・フォスター主演のサスペンス。SFではないのだから、娘が飛行機のどこかにいるのは明白で、そのアイデアだけで後半まで持って行くのはつらいものがある。脚本も穴だらけで、よくまあこの程度の脚本で映画化にOKが出たものだなと思う。プロデューサーに脚本を読む力がよほどなかったか、映画化の段階で脚本が大きく書き換えられたかのどちらかなのではあるまいか(恐らく前者)。密室の中で人が消えたり、殺されたりの不可能犯罪には緻密なトリックがないと面白くない。母親が寝ている間に子供を連れ去るだけではがっかりするのだ。しかもそこからの展開が偶然に頼りすぎた部分がある。この犯人、バカかと思う。個人的には去年の「フォーガットン」(これはSFだったが)と並ぶぐらいのがっかり度。脚本は「ニュースの天才」のビリー・レイとピーター・A・ダウリング。設定だけは考えられても、そこからの物語の発展のさせ方が基本的に分かっていないようだ。監督はドイツ出身のロベルト・シュヴェンケ。序盤の不安なタッチは悪くなく、まともな脚本ならば、もう少しましな映画を撮る監督ではないかと思う。
ドイツで転落事故によって夫を亡くしたカイル(ジョディ・フォスター)は6歳の娘ジュリア(マーリーン・ローストン)とともに深い悲しみの中、ベルリン空港からニューヨークに帰る飛行機に乗り込む。最新型のジャンボジェットE-474はカイル自身の設計によるものだった。睡魔に襲われたカイルは眠り込んでしまう。3時間後、目覚めたカイルはジュリアがいなくなっているのに気づく。客室乗務員とともに飛行機の中を探すが、見あたらない。しかも、調査した乗務員はジュリアの名前が乗客名簿にないと言い出す。カイルがポケットに入れていたはずの航空券の半券もなくなっていた。カイルは機長(ショーン・ビーン)に助けを求めて捜索するが、やがてジュリアは夫とともに6日前に死んでいたという情報がもたらされる。孤立無援の中、錯乱したカイルは飛行機を緊急着陸させようとして、エアマーシャル(私服航空保安官)のカーソン(ピーター・サースガード)に取り押さえられ、手錠をはめられてしまう。
カイルが狙われたのが飛行機の設計士だったからという理由は説得力に乏しい。犯人の狙いがこの程度のことであるのなら、カイル以外の誰でも良かったはず。警官に包囲された飛行機の中でのカイルと犯人の対決もサスペンスにはなりようがない。もっともっと緻密に話を組み立てるべき映画だった。話の底が浅すぎるのである。熱演が少しも報われていないにせよ、ジョディ・フォスターは悪くない。ただ、フォスターのような知的な女性はこんなに錯乱しないのではないかと思う。飛行機に乗り合わせた精神分析医の役でグレタ・スカッキが出ているが、主要キャストではなく、パンフレットに名前さえないのが悲しい。
エアマーシャルという職業は初めて知った。同時テロ以降、保安強化のために配備が進んでいるそうだ。