2008/11/02(日)「闇の子供たち」

 原作を読んでると、映画を見ながら物語を反芻する感じにしかならないが、阪本順治流のアレンジが何カ所かあった。エイズにかかった少女を音羽恵子(宮崎あおい)がゴミ運搬車から助ける場面と主人公を新聞記者の南部(江口洋介)に変えて、ラストにその過去をフラッシュバックさせる場面。どちらも阪本順治のエンタテインメント気質が表れた場面で、原作にはない。このラストはサイコな映画によくあるもので、それはないだろうと思ったが、トークショーでの監督の話によれば、物語を遠い国で起こったことと思って欲しくなかったための措置だとか。それにしても、これがあることで社会派作品から一瞬、サイコドラマに変わってしまった印象がある。

 阪本順治の映画としては「KT」の系譜に属する作品だが、題材の重たさに比べて出来の方は水準作にとどまった。重たいといっても原作よりはるかに軽いのはペドファイルたちの子供に対する性行為が具体的に描かれないからだ。これは仕方がない。粘膜が割け、肉がきしむような過激な描写が映画でできるわけがない。その代わりに映画は白ブタのような白人男性やオタクのような日本人を出すことで、醜悪さと嫌悪感を表現している。

 映画を撮るに当たって、監督は現地で児童買春と臓器移植について取材したそうだ。原作に書かれたことは10年から15年前のもので、今は子供に足かせをはめて暗い地下室に閉じ込めるようなことはやっていないという。だから映画には取材で分かったことも取り入れられている。それならば、取材を元に映画を構成しても良かったような気がする。なぜドキュメンタリーを撮らなかったのかという点について、監督は「自分はフィクションしか撮ったことはないし、ノンフィクションであっても監督の主観は入る。ドキュメンタリーだったら、少女が這いながら自宅に帰る場面は撮れない」と説明した。それと宮崎あおいや妻夫木聡のファンが映画を見に来て、この問題について知るという効果も確かにあるだろう。

 ただし、原作を読んで映画を見ても僕は臓器移植については懐疑的だ。大きな災害の後に子供がいなくなることが多いそうで、そうやって連れ去られた子供たちは売春と移植組に分けられる、と監督は言ったけれども、そこを具体的に映画の中で明らかにしてくれないと、信用できないのである。こういう部分はノンフィクションじゃないと説得力がない。まあ、原作にも臓器移植の具体的な描写はないので、これは現地の警察の捜査を待たないと、無理なのだろう。

 原作には出てこない心臓移植を受ける少年の父親役を佐藤浩市がさらりと好演。ゴミ運搬車から少女を助ける場面で宮崎あおいが殴られて倒れても反撃に転じる場面はいかにも阪本順治のタッチになっていた。

2008/10/26(日)「パコと魔法の絵本」

 「パコと魔法の絵本」パンフレット

 やっぱり中島哲也の映画は見逃せないと思い直し、キネ旬でも褒めてあったので見に行く。もう公開も終わり間近にしてはまずまずの入りだった。映画は「嫌われ松子の一生」ほどではないが、まあ面白かったというのが率直な感想。まるで舞台のような展開だなと思ったら、原作は舞台劇なのだそうだ。ディズニー風の音楽とともに始まるにもかかわらず、過剰なメイクと極彩色の色遣い、乱暴な言葉遣い、過激な描写、脱ドラマとユーモアが混ざり合って、いかにも中島哲也らしいポップさだ。でも本筋は真っ当で、ほろりときそうなラストをひっくり返し、さらにほろりとさせるように持って行くのがうまい。もっともこれは元の舞台の台本通りなのだろう。前半をコンパクトにして「松子」のように歌を散りばめてくれたら言うことはなかった。「松子」のようなミュージカルを期待していたのだ。

 原作は後藤ひろひとの「MIDSUMMER CAROL ~ガマ王子VSザリガニ魔人~」。CAROLで分かるようにこれは「クリスマス・キャロル」にインスパイアされた物語だ。主人公の大貫(役所広司)は一人で会社を興し、仕事一筋に生きて会社を大きくしたが、発作で倒れて入院。「お前が私を知ってるってだけで腹が立つ」と周囲に当たり散らしているスクルージのような男で、周囲からはクソジジイと呼ばれている。ある日、大貫は病院の庭で「ガマ王子とザリガニ魔人」という絵本を読んでいる女の子パコ(アヤカ・ウィルソン)に出会う。

 パコは交通事故の後遺症で1日しか記憶が持たなかった。だから大貫の大事なライターを持っていて、大貫からぶたれても翌日は天使のような笑顔を見せる。パコの1日は誕生日で、ママから「毎日読んでね」とプレゼントされた絵本を毎日読んでいるのだった。両親は事故で死んだが、パコはそれを知らず「ママ、会いに来てくれないかな」と願っている。パコの頬に手を触れた大貫に対してパコは「おじさん、昨日もパコに触ったわね」と言う。大貫はパコに思い出を残してやりたいと病院の人たちにパコの絵本を演じてくれるように頼む。

 「先生、俺は子供時代から泣いたことがないから涙の止め方が分からない。どうやったら止まるんだ」

 「簡単ですよ。いっぱい泣けばいいんです」

 パコの身の上に涙した大貫に病院の院長(上川隆也)が言う。いっぱい泣いて、涙が涸れるまで泣いたら、涙は自然に止まる。泣きたいときには泣けばいいという当たり前のことをさらりと言うセリフが心に残る。そのほか、ユーモアの中での真実みのあるセリフが詰まっていて、これまた中島哲也らしいなと思わせる。

 「ざけんじゃねえよ」と言いつつ、子供時代の不幸と唯一の希望だった思い出を、その希望を与えてくれた当事者で今は薬物依存症の入院患者(妻夫木聡)に語る土屋アンナのまるで「下妻物語」の延長のような弾けた役柄が良い。小池栄子の歯がギザギザですぐにかみつく凶暴な看護師も良い。残念なのは何回も見せられた予告編で物語の大筋が分かり、本編にはそれを大きく超える感動がなかったことか。パコのために病院全体をセットにして絵本の扮装をした登場人物が所々で3DCGに変わるクライマックスもこちらのイメージ以上のものはなかった。

 出演者は唯一過剰なメイクのない劇団ひとりや過剰だらけの阿部サダヲ、加瀬亮、國村隼などいずれも好演していた。

2008/10/19(日)「イーグル・アイ」

 巻き込まれ型のノンストップアクション&スリラー。全然内容を知らずに見て、それこそノンストップのアクションを堪能し、ヒッチコックの効果的な引用に感心し、クライマックスの「知りすぎていた男」のうますぎる換骨奪胎にしびれた。個人的には主人公のエモーションが最後まで持続する点で、ジェイソン・ボーンシリーズなんざ裸足で逃げ出す大傑作と思うのだが、世間的には評価が高くない。IMDBでは6.9。うーむ。まあいいや、十分すぎるほど楽しめたから。僕はベストテンに入れます。

 主人公のジェリー・ショー(シャイア・ラブーフ)はスタンフォード大学を中退してふらふらしている男。双子の兄は空軍に入り、ジェリーとは違って優秀な男だったが、事故死してしまう。兄の葬儀の翌日、ジェリーの口座に75万ドルが振り込まれ、アパートに帰ると、部屋には大量の兵器が届いていた。戸惑うジェリーの携帯にFBIが踏み込むので逃げろ、と女の声で連絡が入る。半信半疑だったジェリーはテロリストとして逮捕されてしまう。同じ頃、シングルマザーのレイチェル・ホロマン(ミシェル・モナハン)にも女の声で電話があった。指示通りにしなければ、息子を殺す。ジェリーには再び女が電話をかけ、指示通りに行動してFBIのビルから脱出。レイチェルの運転する車にたどり着く。2人は訳が分からないままFBIから逃げ、謎の女の指示通りに動く羽目になる。

 訳が分からないまま動く2人が巻き込まれるアクションが壮絶。カーアクションは「フレンチ・コネクション」を参考にしたらしいが、ちょっと撮り方に難はあるものの、スピード感は満点だ。何よりも謎だらけの展開なのに面白く物語っていく手腕に感心した。謎が途中で明かされるのはヒッチコック映画を踏襲している。その後は敵の目的が謎として残り、それも明らかになった後はサスペンス的展開となる。2人が選ばれた理由もここで分かる仕組み。謎が分かってしまうと、途端に失速する映画がよくあるけれど、この映画の場合、そこでSFチックな展開になるのがよろしい。そこにもやっぱり名作SFを引用してあるのが微笑ましかったりする。

 FBIの捜査官にビリー・ボブ・ソーントン、空軍の捜査官にロザリオ・ドーソン。D・J・カルーソ監督の前作「ディスタービア」はヒッチコック「裏窓」の盗作であるとして製作のスピルバーグが訴えられた。カルーソは「テイキング・ライブス」でもヒッチコックタッチを引用していたから、相当にヒッチコックが好きなのだろう。もうそのあたりで贔屓の引き倒しにしてしまいます。ヒッチコック映画を知っていれば、より楽しめるが、知らなくてもスピーディーな展開に不満はないはずだ。アクション映画、サスペンス映画のファンは見逃してはいけない作品だと思う。

2008/10/12(日)「容疑者Xの献身」

 原作の映画化としては成功の部類だと思う。といっても僕は原作にはそんなに思い入れはない。トリックの部分で感心しただけである。

 原作にほぼ忠実な映画化で、「県庁の星」の西谷弘は今回も手堅い演出を見せている。これ、原作ファンにも不満はないのではないか。なんと言っても松雪泰子と堤真一がよろしい。ラストの慟哭の場面は切実さが足りない感じはあるが、我慢できる範囲内。原作もそうだが、この話は湯川(福山雅治)がメインではなく、この2人が中心なので、それ相応の演技力がいるのだ。大学時代は数学の天才と言われたのに今は冴えない中年の高校教師に堤真一はリアリティーを与えている。松雪泰子はどんどん良くなる感じ。

 問題は容疑者Xの動機の部分の弱さか。これは原作にも感じたが、もっともっとキャラクターを描き込むべきだった。なぜ自殺しようとしたのか、隣に住む親子のどこが生きる希望を持たせてくれたのかを詳細に描かないと、殺人の動機に説得力がないのだ。原作の感想について、どう書いたか調べたら、こう書いていた。

 「よくできた本格ミステリで1位にも異論はないが、ぜいたくを言えば、もっと石神のキャラクターを掘り下げた方が良かったと思う。キャラクターよりもまだトリックの方が浮いて見えるのだ。社会に認められなかった天才数学者の悲哀をもっと掘り下げれば、小説としての完成度をさらに高めることができたのではないかと思う。これの倍ぐらいの長さになってもかまわないから、そうした部分を詳細に描いた方が良かった。一気に読まされてある程度満足したにもかかわらず、そんな思いが残った」。

 映画もこうした部分の弱さを克服できていなかったわけである。

 柴咲コウは相変わらず目の演技に細かさがある。所轄の刑事の描写に「踊る大捜査線」っぽい部分があるのはフジテレビが絡んでいるからか。福山雅治の演技も僕はありだと思う。脚本と音楽も手堅くまとまった佳作。見て損はないです。というか、ほとんど失敗する本格ミステリの映画化としては褒めていい出来だと思う。

2008/10/05(日)「地球爆破作戦」

 さすがにコンピュータの描写などは古くなっているが、テーマは現代に通じるものがある。

 スーパーコンピュータのコロッサスにアメリカの防衛を任せたら、ソ連にも同じ規模のコンピュータ・ガーディアンがあることが分かり、コロッサスはガーディアンとの接続を要求する。接続しなければ、ミサイルを撃ち込むと脅迫。アメリカは間に合うが、ソ連は間に合わずに石油コンビナートを爆破されてしまう。仕方なく接続すると、2台のコンピュータは結託して人類を支配下に置こうとする。コロッサスを開発したフォービン博士(エリック・ブレーデン)は何とかそれを回避しようとするが…。というストーリー。1時間39分、緊迫したタッチがよろしい。監督はジョセフ・サージェント。

 1970年の映画で、これ以前に「2001年宇宙の旅」があるので、コンピュータの反乱は珍しくはない。コンピュータとしては人類を支配下に置くことで戦争を回避する意図があるのだが、自由のない社会がいいかどうか。ということを考えると、共産主義の脅威も反映しているのかもしれない。時代はまだ冷戦の頃だったのだ。

 細部で面白かったのは主人公がマティーニを飲む場面。主人公はベルモットをグラスについだ後、こぼしてジンを入れる。思い切りドライなマティーニというわけ。マティーニはジンとベルモットを4:1の割合で混ぜるのが普通だが、通はドライにしたがる。映画だったか、何かのエッセイだったかで、ドライなマティーニの作り方として、ベルモットの栓のコルクをグラスの底に押し付けた後にジンを注ぐというのがあった。最もドライなマティーニはチャーチルが作ったもので、「ベルモットを口に含んだ執事に息を吐き掛けさせ」てジンを飲むというのと、ベルモットの瓶をそばに置いてジンを飲むというのがあるらしい。そんなことするぐらいなら、ジンだけ飲めばいいじゃんと思うが、それだとマティーニにはならない。

 DVDにはテレビ放映時の日本語吹き替え版が収録されている。主人公の声は今は亡き山田康雄。テレビ放映時のものなので、当然カットされている部分もあり、そこだけは字幕になる。どこがカットされているのか調べたら、ほぼ予想通り、ベッドシーンだった。

 主人公は終始コロッサスに監視されているので、恋人とベッドインするところだけ、監視から外すよう頼む。恋人を同僚の女性博士(スーザン・クラーク)ということにして監視を離れたところで情報を交換しようとする計画だったが、そのうちに本当にベッドインしてしまう。

 こういう息をつけるシーンがあるのは微笑ましい。ベッドルームに行く前に居間で全裸にならなければならないが、そこは1970年の映画らしく慎ましい表現の仕方だった。これも好ましい。