2009/09/30(水)「あの日、欲望の大地で」
ファーストショットは平原で燃え上がるトレーラーハウス。原題の「Burning Plain」はパンフレットの表紙にもなっているこの場面から取ったものだろう。このトレーラーハウスが悲劇の始まりとなったわけだから当然だ。邦題の「あの日、欲望の大地で」は良くない。登場人物の誰も欲望で動いているわけではないからだ。夫と子どもがありながら妻子ある男と密会を続ける主人公の母親(キム・ベイシンガー)は不実で自堕落な女に見えるが、後で描かれる2つの悲痛なショットでそうではないことが分かってくる。レストランのマネージャーを務めながら、男と行きずりの関係を続ける主人公のシルヴィア(シャーリーズ・セロン)もまた行動の根幹にあるのは欲望ではない。
「21グラム」「バベル」の脚本家で、これが長編映画監督デビューとなるギジェルモ・アリアガはこれまでの脚本と同じように時系列をバラバラにして断片の描写を積み上げていく。現在のパートは青を基調とした寒々とした色彩で、過去のパートは温かな色彩でと分けてはいるのだけれど、並列的に描かれるため最初は人間関係もエピソードのつながりもまったく分からない。「21グラム」を見た時に僕は「物語をどう語るかに腐心することは大事なことだけれど、それを余計に感じる題材というものもあるのだ」と思った。この映画に関してはこの手法で良かったと思う。ミステリアスな雰囲気が作品に奥行きを与えているからだ。悲劇が横たわる母と娘、その娘とそのまた娘との関係をアリアガは重厚なタッチで描いている。断片を積み重ねる手法にもかかわらず、見ていて映画への興味が薄れないのは映像に力があるからだろう。
時系列をバラバラにするのは「21グラム」「バベル」の監督アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥの趣味かと思ってきたが、考えてみれば、脚本を書いたアリアガの手法であることは当然なのだった。小説家でもあるアリアガの物語を語る手法は完成されている。語り口が身上とも言える映画なので、時系列に沿ってストーリーを紹介すると、映画の面白みも半減してしまう。何も知らずに見た方が良い映画と言える。
アリアガの演出・脚本は優れているが、映画を支えているのは何よりもシャーリーズ・セロンだ。美貌とスタイルに恵まれたセロンはアイドル的な映画スターになることも簡単だったが、それを拒否して13キロ体重を増やし、過剰なメイクを施して「モンスター」に出演した。「モンスター」での演技力は評価されてしかるべきものだったけれど、同時に僕はやりすぎではないかとも思った。演技が人工的で主人公の造型にも無理があった。その後の「スタンドアップ」にも僕は無理を感じたが、それに比べてこの映画のセロンは自然体である。虚無感漂う主人公を演じて間然とするところがない。しかも化粧っ気がないにもかかわらず美しい。悲しみに彩られた主人公にしっかりとリアリティを与えている。
脚本で惜しいと思ったのは過去と決別し、自傷行為を行う主人公の行動がやや説得力を欠くことか。映画の構成に凝る前にここをしっかりと補強した方が良かったと思う。