2010/10/02(土)「十三人の刺客」
脚本を担当した天願大介は永井豪「バイオレンス・ジャック」にインスパイアされたのではないか。両手両足を切断され、舌を抜かれた女が登場する場面を見てそう思った。スラムキングによって人犬にされた男女の姿は少年時代に「バイオレンス・ジャック」を読んだ世代に強烈な印象を残している。僕と同世代の天願大介が少年マガジンで「バイオレンス・ジャック」を読み、同じようにトラウマになるような強い印象を持ったという想像はあながち間違ってはいないだろう。そうでなければ、映画「西太后」の線もあるが、「西太后」では舌は抜かれなかったし、描写の衝撃度から見ても「バイオレンス・ジャック」の方が可能性は高い。こういう感想を持った人は多いらしく、ネットで「十三人の刺客 バイオレンス・ジャック」のキーワードで検索すれば、たくさん出てくる。
となれば、狂気と凶暴さと知性を兼ね備えた将軍の弟で明石藩主の松平斉韶(なりつぐ=稲垣吾郎)はスラムキングの残虐さをイメージしたものなのかもしれない。ただし、三池崇史が撮ると、悲惨な女の描写はお歯黒と引眉のためもあって悲惨さの前にまず化け物のように感じる。まるでホラーだ。このショッキングな場面を子供が見たら、それこそトラウマになってしまうだろう。この女の姿を見せられて、主人公の幕府御目付役・島田新左衛門(役所広司)は心底怒りに駆られ、老中土井利位(としつら=平幹二朗)から命じられた斉韶暗殺を承諾することになる。もう一つ、主人公は見ていないが、縛った女子供たちを斉韶が至近距離から矢で射殺すという恐ろしく残虐な場面も、斉韶暗殺の正当性に説得力を持たせている。単なる凶暴なサイコ野郎ではなく、静かなたたずまいに狂気を忍ばせた稲垣吾郎、適役と言って良いほどの好演である。
工藤栄一の集団抗争時代劇を47年ぶりにリメイクしたこの作品、エネルギッシュに2時間半近くを突っ走る。旧作はビデオで見たためもあって、クライマックスの抗争で感心したのは剣の達人を演じた西村晃の鮮烈さ、格好良さだけだった。この新作もはっきり言って後半の50分に及ぶ大がかりなアクションは量が多いだけでやや質を伴っていないきらいはあるのだが、松方弘樹の立ち回りの速さを見せてくれただけでも価値がある。松方弘樹、ほれぼれするほどの殺陣であり、松方弘樹を主役に据えたアクション時代劇を撮ってくれと思えてくる。このほか市村正親、平幹二朗、松本幸四郎、岸部一徳らのベテラン俳優たちが脇を固める、というよりも映画の格を大きく引き上げている。
ベテラン俳優たちのキャラクターに息を吹き込んだ演技があるから、13人の刺客たちのアクションが生きてくる。松方弘樹は「実は殺陣って“動”ではなく、“静”の場面が大事なんです。…緩急をつけることで、より“動”を強調させるんですよ」と語っているが、それと同じことはこうしたアクション映画全体にも言えることなのだ。
市村正親はかつて西村晃の付き人だったそうだ。キネマ旬報9月下旬号のインタビューで市村正親は「巡り巡って(13人の刺客に敵対する)鬼頭半兵衛を演じるというのも、何か、この映画に縁を感じますね」と言い、その語りには師匠である西村晃への敬愛があふれている。松方弘樹は「僕は今でも父親が日本一立ち回りがうまいと思っています。僕はその父親へ近づけるように頑張ってきたんですよ」と話し、時代劇と父・近衛十四郎への愛情が満ちている。そうした過去の映画と映画人に対する敬意が、このアクション大作にアクションだけに終わらせない幅を与えている要因ともなっているのだと思う。
2010/09/20(月)「悪人」
「そがん風にして生きていかんば。そがん風に人を笑うて生きていかんば」。
柄本明演じる佳乃(満島ひかり)の父親が佳乃を山道に置き去りにした増尾(岡田将生)に怒りを込めて言う。薄っぺらで見栄っ張りに生きている佳乃と増尾。それとは対照的な地味で控えめに生きざるを得ない清水祐一(妻夫木聡)と馬込光代(深津絵里)。一つの殺人事件を巡る人々を奥深く描いて、「悪人」は間然するところのない出来である。
李相日監督は極めて映画的なショット(例えば、病院で柄本明から娘の死を伝えられた宮崎美子演じる妻がくずおれる場面をセリフなしのシルエットで演出する)でシーンを構成し、社会から見れば取るに足りない存在、どこにでもいる取り柄のない男女の逃避行を描いて、痛切な青春映画として結実させた。情感を込めた久石譲の音楽も素晴らしく良い。モントリオール世界映画祭での深津絵里の主演女優賞受賞は作品全体に対して与えられたものなのだろう。さまざまなテーマを盛り込みながら、そのスタンスは一般庶民の立場に立ったものであり、だからこの映画のいろいろなショットは強く胸を打つのだ。この大衆性は李相日の前作「フラガール」とも無縁ではない。
長崎、佐賀、福岡を舞台にしたこの映画は方言で語られる言葉や描写の一つひとつにとても重みがある。映画を見終わった後に細部を振り返りながら、この重さと切実さは野坂昭如「心中弁天島」を映画化した増村保造「遊び」(1971年)に似ていると思った。関根恵子と大門正明の出会いとその道行きの切実さ。それはやはり若い2人の逃避行を描き、青春映画として帰結した「闇の列車、光の旅」(2009年、キャリー・ジョージ・フクナガ監督)とも通じるものだ。「闇の列車…」を見た時、貧しさが背景にあるこういう切実な青春映画は今の日本映画ではもう撮れないだろうと思わざるを得なかった。「悪人」はその考えを見事に打ち砕いてくれた。貧しさは絶対条件ではない。日常に満たされない思いとやりきれなさを抱いた男女の出会いがあればいいのだ。
もちろん、主演の2人の境遇が十分に豊かなわけではない。光代は佐賀県内の紳士服のフタタに勤め、妹とアパートで暮らしている。冷たい雨の中、自転車で帰れば、妹は男を引っ張り込んでいて、ドアにはチェーンロックがかかっている。ガタガタと寒さに震える光代の姿は凍えそうに空虚な日常を象徴しているようだ。幼稚園も学校も職場も家も国道のそばにあり、光代の人生はこの狭い範囲から外へ出たことがない。一方、祐一は幼い頃に母親(余貴美子)から捨てられ、長崎県の漁村で祖父母(井川比佐志、樹木希林)に育てられた。病気がちの祖父を病院に連れて行き、建物解体の土木作業員として毎日黙々と働き、家計を支える。唯一の趣味は(恐らく中古の)日産スカイラインGTRだ。「海のそばにある家なんていいわね」と言う光代に対して、祐一は「海が目の前にあると、ここから先にはどこにも行けないような気になる」と答える。
日常に縛られてどこにも行けない人生。どん詰まりの人生を生きている2人が出会い系サイトで知り合い、深く理解し、求め合う。もっと早く出会っていれば良かったのに、と思う。しかし、その時、既に祐一は悲劇的な殺人を犯しているのだ。自首しようとする祐一を光代は引き留め、灯台に向かう。灯台は祐一と母親の悲しい思い出につながる場所だ。灯台でのひとときはそれが終わりを迎えることが分かっているからこそ痛ましい。いったん警察に保護された光代は隙を見て逃げだし、傷だらけになりながら再び祐一のいる灯台、初めて生きる充実感を与えてくれた祐一のいる灯台を目指す。
佳乃の父親は久留米の寂れた理容店の店主である。軽薄な娘の父親ではあっても、むしろ祐一の側に立つ人間だ。だから怒りの矛先は増尾に向かうのだろう。映画は善良に生きている庶民の立場に立って組み立てられている。李相日と原作者の吉田修一が書いた脚本にはこの点でまったくブレがない。加えて、マスコミに追いかけられる樹木希林の祖母を通して、君塚良一「誰も守ってくれない」のように犯罪加害者の家族の問題も盛り込んでいる。樹木希林の演技は絶妙と言うほかなく、助演女優賞は決まりではないかと思う。
増尾が乗る車は原作ではアウディA6となっているが、映画に登場するのはアウディQ5。普通の若者には手に入らない高級車であることに違いはない。目の前で佳乃が増尾のこの高級車に乗るのを見た祐一は一瞬、顔を歪ませて激怒する。妻夫木聡、この表情がとてもうまい。嫌な役柄を嫌なキャラクターとしてだけではない深みを交えて演じた満島ひかりと岡田将生も立派。出演者の演技がこれほど充実しまくった映画も珍しい。
2010/07/08(木)「ロストクライム -閃光-」
「プライド 運命の瞬間」以来12年ぶりの伊藤俊也監督作品で、3億円事件を題材にしたサスペンス。永瀬隼介の原作「閃光」を長坂秀佳と伊藤監督が脚色している。話自体は悪くないと思うが、至る所に演出の細かい齟齬がある。それが集積して映画全体として面白みに欠ける作品になってしまった。12年間のブランクが悪い方に影響したのか。といっても、僕は伊藤俊也の作品に思い入れはないし、面白いと思った作品も少ない。相性とかそういう問題ではなく、この人、テクニックはあまりないと思う。社会派の監督でもなく、「さそり」のようなシャープなB級作品に本領を発揮するタイプなのだろうと思う。
隅田川で絞殺死体が発見される。定年を2カ月後に控えた刑事滝口(奥田瑛二)は捜査メンバーに名乗りを上げる。コンビを組むのは若手の片桐(渡辺大)。滝口が事件に関心を持ったのは殺された男葛木が3億円事件の重要容疑者の1人だったからだ。1968年12月10日、偽白バイ警官が現金輸送車から3億円を奪った事件。既に公訴時効が成立したが、滝口をはじめ警察関係者は当時、複数の犯人グループを突き止めていた。それなのになぜ、逮捕しなかったのか。映画は事件の真相を徐々に明らかにしながら、現在もなお、3億円事件の深層を隠蔽しようとする警察上層部と事件に絡んだ連続殺人を描いていく。
現在の連続殺人が過去の事件につながっていくというのはミステリでは極めてよくある設定。この映画(原作)も、そのスタイルを踏襲している。事件の真相に驚きはなく、警察の隠蔽の理由も説得力を欠く。そう思えるのは映画に力がないからだろう。ドラマの構築が弱いのだ。
奥田瑛二の演技は僕には全然うまいとは思えない。渡辺謙の息子、渡辺大は色に染まっていないのが良いところだろうが、、主役を張るほどの貫録はない。他のキャストはかたせ梨乃、宅麻伸、中田喜子、烏丸せつ子、夏八木勲ら。これは70年代の映画か、と思えるような布陣だが、68年の事件を題材にしているため、というよりは監督の趣味なのではないかと思う。かたせ、中田にはそれぞれラブシーンがあるが、どちらも不要に思えた。
2010/06/01(火)「パレード」
予告編からはスリラーのような印象を受けた。それが先入観としてあったので、いつまでたってもスリラータッチにならないなと思いながら見ていた。だから、実はこれが行定勲監督作品としては「きょうのできごと」に連なる映画であることに気づくまで1時間近くかかった。「ロックンロールミシン」と合わせてモラトリアム3部作なのだそうだ。しかし、映画はやはりスリラーとして、予告編とは違う意味でのスリラーとして着地する。
映画を見た後に、家にあった吉田修一の原作を読んでみたら、解説で作家の川上弘美が「こわい、こわい」と繰り返していた。監督自身はこの映画について「青春映画のふりをした恐怖の映画」としている。大学生の日常を描いた「きょうのできごと」は最後までほんわかした映画だったが、この映画には正反対の怖さがあるのだ。同じように若者の日常を描きながら、緩やかな人間関係の根底にある不条理な恐怖が浮かび上がるラストが秀逸だ。
2LDKのマンションで男女4人が共同生活をしている。4人の間に恋愛のような濃い関係はない。いつでも出て行けるという安心感のある共同生活であり、それぐらい緩やかなつながりである。当人たちはこの生活の在り方を「インターネットのチャットや掲示板のような」と、たとえる。これは少し分かりにくい表現だが、要するに本音を隠して付き合っているということだろう。マンションには男部屋と女部屋があり、男部屋には伊原直輝(藤原竜也)と杉本良介(小出恵介)、女部屋には大河内琴美(貫地谷しほり)、相馬未来(香里奈)が住む。住人が集う居間がチャットルームのような在り方になるわけだ。そこに「夜のオシゴト」をしてるらしい小窪サトル(林遣都)が転がり込んでくる。マンションの近所では連続暴行事件が発生していた。というシチュエーションの下、物語は5人の視点で描かれていく。
映画は原作に忠実だが、怖さの質は少し異なる。ラストの処理で一歩踏み込んでいるのだ。原作が描いているのは映画のレイプシーンばかりを集めたビデオテープをテレビドラマ(原作では「ピンクパンサー2」のアニメ)を上書き録画するシーンが象徴している。水面下にある醜悪な現実を見ないで付き合う関係の怖さ。登場人物の1人はラストでそれに気づき、慄然とする。映画はそこから踏み込み、そうした表面的な人間関係から逃れられない怖さをラストに持って来た。「行くよね」。無表情に1人がつぶやくセリフが怖い。彼らの関係は非日常的なことが起こっても壊れない。いや壊さない暗黙の了解があるのだ。
個人的にはもっともっと不条理な展開が好きなのだが、日常生活にある不条理さを浮かび上がらせるにはこれぐらいの方がいいのかもしれない。若手俳優5人がそれぞれに好演している。小出恵介と林遣都は昨年の「風が強く吹いている」とは正反対の役柄ながら、逆にそこがいい。「GO」では感心したのに、「北の零年」では才能ゼロとしか思えなかった行定勲は若者を描いた映画に本領を発揮する監督なのだと思う。
2010/05/03(月)「ゼブラーマン ゼブラシティの逆襲」
6年ぶりの続編。前作の感想を読み返してみたら、前作は2010年が舞台だったのだった。今回はそれから15年後、2025年の設定。ゼブラーマンこと市川新市(哀川翔)は記憶を失い、路上で目ざめる。そこから何があるかというと、ゼブラシティと名前を変えた東京での戦い。都知事の娘ゼブラクイーン(仲里依紗)との戦いである。まるで「ストリート・オブ・ファイヤー」のダイアン・レインを思わせるように刺激的な仲里依紗以外に見るべきものがないのが悲しいところだ。
前作はスーパーヒーローもののパロディを思わせる展開ながら「信じれば、夢は叶う」というモチーフを軸に据えて充実した出来だったが、今回は相当に落ちる。宮藤官九郎の脚本が弱い。白ゼブラと黒ゼブラの合体のシーンなど爆笑もので、三池崇史の趣味は全開なのだけれど、細部で笑わせられても、話の本筋がこれでは映画は盛り上がらない。仲里依紗のみを見るべき映画であり、それでも入場料金ぐらいの元は取れるのだけれど、映画としては喜べない出来に終わっている。