2012/02/23(木)「道化師の蝶」の選評
久しぶりに「文藝春秋」を買った。芥川賞の選評が載っているからだ。いったい選考委員の誰に円城塔の小説が分かったのだろう、と興味があった。一読、誰も分かっていなかったことが分かった。分からないけれども、文学の幅を広げる試みと今後の可能性を考慮したということなのだろう。
8人の選考委員の中で最もうなずけたのは黒井千次の評。「うまく読むことが難しい作品であり、素手でこれを扱うのは危険だという警戒心が働く。しかしこのわからなさの先に何かあるのではないか、と考えさせる風が終始作品の奥から吹き寄せて来るのは間違いがない。したがって支持するのは困難だが、全否定するのは更に難しい、といった状況に立たされる」。これが正直な感想だろう。付け加えて「読む者に対して不必要な苦労をかけぬような努力は常に払われねばなるまい。作品の入口や内部の通路をもう少し整備してもいいような気がする」と注文を付けている点も良い。
受賞を最も推したのは川上弘美のようだが、川上弘美も分かっているわけではない。「日常の言葉では語り難いことを、どうにか日常の言葉で語ろうとしている作者の作品は、読むことも大変に困難です。けれど、それでもあえてその難儀な試みを続ける作者に、芥川賞が与えられたこと。それは私にとって大変喜ばしいことでした」。
島田雅彦は明確に分からないとは言っていない肯定派だ。「この作品は夢で得たヒントのようにはかなく忘れられてゆく無数の発想へのレクイエムといってもいい」とした上で、「こういう『やり過ぎ』を歓迎する度量がなければ、日本文学には身辺雑記とエンタメしか残らない」としている。
明確な否定派は石原慎太郎で、「最後は半ば強引に当選作とされた観が否めないが、こうした言葉の綾とりみたいなできの悪いゲームに付き合わされる読者は気の毒というよりない。こんな一人よがりの作品がどれほどの読者に小説なる読みものとしてまかり通るかははなはだ疑がわしい」。自分の分からないものは酷評するという単純な思考回路はお気の毒と言うよりないが、まあ、しょうがないかなと思う。
同誌に掲載されている円城塔の受賞インタビューで「やっぱり」と思ったのは「神林長平に強く影響を受けて」いると語った部分。昨年、「これはペンです」を読んで、僕はデビュー間もないころの神林長平のインタビューを思い出した。そのインタビューで神林長平は「同じものをインプットされても、人によってアウトプットされるもの(言葉)は違う」という趣旨のことを語っていた。言葉にこだわる円城塔の小説は成り立ちの根底にあるものが神林長平の小説と似ている部分がある。それがつまり影響を受けているということなのだろう。