2013/12/23(月)「永遠の0」

 染谷将太がこんなちょい役であるはずはないと思っていたら、終盤、みるみる大きな役になっていった。なるほど。やっぱり。

 百田尚樹の同名小説の映画化。日経のインタビューによれば、百田尚樹は映画化の話を何度も断ってきたそうだが、山崎貴監督の脚本は素晴らしく、映画化にゴーサインを出したという。映画の出来も「10年に一度の傑作」と思っているそうだ。僕は「10年に1本」の映画とは思わないが、よくできた映画であることには同意する。山崎貴監督は「ALWAYS 三丁目の夕日」と同じように過去を再現するために自然で過不足のないVFXを使い、ミステリータッチのドラマをうまく演出している。「ALWAYS」と同じように大衆性を備えて涙を絞る展開なので、これもまた大ヒットするだろう。

 映画は原作の狙いでもある「戦争を語り継ぐこと」と「かけがえのない命を大切にすること」というテーマをきちんと押さえ、「帝国海軍一の臆病者」「海軍の恥さらし」と言われた宮部久蔵(岡田准一)とはどんな人間だったのかを描き出していく。宮部の謎を探っていくのが孫の佐伯健太郎(三浦春馬)と慶子(吹石一恵)で、真珠湾からミッドウェーを経て、特攻隊で死ぬまでの4年間の宮部の足跡をたどる。宮部は人並み外れた操縦技術を持っていたが、愛する妻子のために必ず生きて帰ることを決意していた。そして若い兵士たちにも命を粗末にすることを許さなかった。

 岡田准一も好演しているが、何よりも田中泯や橋爪功、山本學、夏八木勲ら年配の俳優たちがいい。特にヤクザの組長を演じる田中泯。若い頃を演じる粗暴な新井浩文が年を取ると、こうなるという感じが出ている。

 山崎貴の専門分野であるVFXに関しては、それが必要以上に前面に出てこないのが良い。零戦の登場する戦闘シーンもそこだけが目立つわけではないのに、日本映画として水準以上の出来になっている。あくまでも映画の主眼はドラマにあり、それをわきまえた山崎貴は強いな、と思う。

2013/12/16(月)「ゼロ・グラビティ」

 最後まで見て初めて、グラビティ=重力という原題の意味が感慨深いものになる。邦題にある「ゼロ」はつくづく余計だと思う。配給会社はいったい何を考えておるのか。

 という些末なことはどうでもよい。映画は3Dの技術の高さに驚嘆させられるものの、それよりも決してあきらめない主人公を置いたことが成功の大きな要因になっていると思う。次から次に襲いかかる困難を一つ一つクリアしていく主人公。「宇宙からの脱出」を図るため、懸命に必死に知力と体力を駆使する姿が感動的だ。本当に人を引きつけるのは技術よりも物語なのだ。

 後半は一人芝居となるサンドラ・ブロックに「しあわせの隠れ場所」に続いて2度目のオスカーの呼び声があるのも納得だ。宇宙服を脱いで、宇宙船の中で奮闘する姿は「エイリアン」のシガニー・ウィーバーを彷彿させた。49歳なのに引き締まったスタイルの良さには感心させられる。女優は体を鍛えておかなくてはいけない。絶望的状況の中でもユーモアを忘れず、ブロックを鼓舞するジョージ・クルーニーも格好良くて好ましい演技だ。

 余計なものをそぎ落として緊張感とサスペンスが持続する91分。映画の中の時間と実時間が一致しているようにも思えるが、90分で地球を周回する宇宙のごみが2度襲来するので、映画は少しだけ時間が長いことになる。

2013/12/01(日)「劇場版SPEC 結 爻ノ篇」

 「漸ノ篇」がこれまでの総集編みたいな内容だったから、たぶん「爻の篇」はスケールを大きくするのだろうと思ったら、警視庁の屋上だけで話がほとんど終始する。周囲をCGでいくら表現しても、これでは動きが少なくて間が持たないし、広げた風呂敷をうまくたためてもいない。話のスケールに舞台が合っていないのだ。この話を考えたらしいプロデューサー植田博樹はアイデアをうまく消化できていないのではないか。

 戸田恵梨香&加瀬亮のコンビに僕はかなり好感を持っているので、けなしたくないのだけれど、映画としてこれでは不完全だ。誰でも発端のアイデアぐらいは思いつく。それを観客が十分に納得するほどうまくまとめられるのがプロというものだろう。テレビシリーズから延々と作ってきた「SPEC」の完結編がこれではあまりにお粗末だ。

 元々、この「SPEC」、当麻(戸田恵梨香)と一十一(神木隆之介)の対決だけで、ということは「劇場版SPEC 天」までで終わっても良かった話だ。「天」の最後にセカイ(向井理)を出したがために、「結」つくることになった。というか、「結」を作りたいからセカイを出したのだろうが、このために物語がツギハギめいて見えてしまうことになった。とても残念だ。

 テレビドラマの「SPEC」が支持を集めたのは当麻や瀬文(加瀬亮)や野々村係長(竜雷太)や雅ちゃん(有村架純)らおなじみのおかしくて愛すべきキャラクターにあったと思う。観客が求めたのは話のスケールの大きさではなく、こうしたキャラによって生まれる話だったはずだ。「天」と「結」はなかったことにしてかまわないから、テレビで「SPEC2」をやってくれないだろうか。

2013/11/30(土)「ハワイ・マレー沖海戦」

 恐らく、この映画のクライマックスを見た1942年当時の観客は、1980年に「地獄の黙示録」を見た観客と同じぐらいの興奮にたたき込まれたのではないか。マレー沖海戦の部分には「ワルキューレの騎行」が流れ、パールハーバーの部分は実写とミニチュアを組み合わせた円谷英二の特撮が素晴らしすぎる。

 この映画の3年前には「キング・コング」という映画史に残る傑作があるにせよ、日本の特撮映画史においてこの映画が占める位置はとてつもなく大きいだろう。この映画から四半世紀後に作られたウルトラシリーズをある意味、軽くしのいでいると思う。

 映画は戦意高揚映画として始まるが、後半、そんなことはどうでもよくなり、「地獄の黙示録」との類似性もまたくっきりと浮かび上がる。後半1時間はドラマよりも戦闘シーンを見せるためだけに作られた観があるのだ。いけいけどんどんの作風。それはつまり国が意図した戦意高揚にもなっているには違いないが、そこだけに押し込めるにはもったいないと思わせる作品だ。

2013/11/26(火)「かぐや姫の物語」

 「わたし、捨丸となら一緒に暮らせた」。故郷の山に帰ってきたかぐや姫が幼なじみの捨丸に言う。「貧乏で草の根をかじることがあってもか?」「ううん、なんでもない!」

 予告編を見たときに、かぐや姫が凄いスピードで走り回る場面に訳が分からなかったが、映画では非常によく分かった。かごの中の鳥のように、都の屋敷に閉じ込められた生活にかぐや姫は我慢できなかったのだ。かぐや姫が望んだのは子供の頃、故郷の野山を走り回ったように自然の中で生きること。鳥虫獣の命のきらめき、躍動を感じながら生きる暮らしだ。走るシーンは自分が望まない生活から脱出するための激情がほとばしる表現で、納得できるどころか、これ以外には考えられない表現だと思う。こことクライマックスの捨丸と空を飛ぶシーンが映画のテーマを象徴した良い場面だ。

 かぐや姫の望む生き方は金儲けや出世という世俗的な成功を否定している。人が人間らしく幸せに生きるのに、そういうものは必要ないという主張がこの映画にはある。ただし、このテーマを描くのに2時間17分もかけるのはいかにも長すぎる。1時間半ほどにまとめたいところだった。水彩画のようなアニメの表現として面白い部分は多々あるが、それだけでは2時間17分持たないし、テーマが一直線に伝わってこなくなるのだ。子供は途中で飽きて、劇場を走り回るのではないか。

 脚本の構造として少し違うなと思えるのは、おじいさんがかぐや姫を見つけた同じ竹林で金を見つけること。これを手に入れたがために、おじいさんは都に屋敷を作り、高貴な男と沿わせるのがかぐや姫の幸せだと思い込んでしまう。この金、神さまが授けたものとおじいさんは受け止めるが、かぐや姫自身がそんな生活を望んでいないのに、神さま(あるいは月世界の住人)がそれを授けるのはおかしいだろう。これは神さまの敵対勢力が与えるという設定の方がテーマがより明確になったのではないか。西洋なら悪魔を出すのが手っ取り早いが、日本ではそういう超自然的でメジャーな悪の存在がいないので困ってしまうのだけれども。

 高畑勲の14年前の前作「ホーホケキョとなりの山田くん」はその年のワーストに選んだほど僕には無残な出来に思えた。「かぐや姫の物語}は同じような表現を用いながら、少なくとも「山田くん」の汚名返上と捲土重来は立派に果たしている。いろいろ不満を書いたけれども、それは強調しておきたい。