2013/11/30(土)「ハワイ・マレー沖海戦」

 恐らく、この映画のクライマックスを見た1942年当時の観客は、1980年に「地獄の黙示録」を見た観客と同じぐらいの興奮にたたき込まれたのではないか。マレー沖海戦の部分には「ワルキューレの騎行」が流れ、パールハーバーの部分は実写とミニチュアを組み合わせた円谷英二の特撮が素晴らしすぎる。

 この映画の3年前には「キング・コング」という映画史に残る傑作があるにせよ、日本の特撮映画史においてこの映画が占める位置はとてつもなく大きいだろう。この映画から四半世紀後に作られたウルトラシリーズをある意味、軽くしのいでいると思う。

 映画は戦意高揚映画として始まるが、後半、そんなことはどうでもよくなり、「地獄の黙示録」との類似性もまたくっきりと浮かび上がる。後半1時間はドラマよりも戦闘シーンを見せるためだけに作られた観があるのだ。いけいけどんどんの作風。それはつまり国が意図した戦意高揚にもなっているには違いないが、そこだけに押し込めるにはもったいないと思わせる作品だ。

2013/11/26(火)「かぐや姫の物語」

 「わたし、捨丸となら一緒に暮らせた」。故郷の山に帰ってきたかぐや姫が幼なじみの捨丸に言う。「貧乏で草の根をかじることがあってもか?」「ううん、なんでもない!」

 予告編を見たときに、かぐや姫が凄いスピードで走り回る場面に訳が分からなかったが、映画では非常によく分かった。かごの中の鳥のように、都の屋敷に閉じ込められた生活にかぐや姫は我慢できなかったのだ。かぐや姫が望んだのは子供の頃、故郷の野山を走り回ったように自然の中で生きること。鳥虫獣の命のきらめき、躍動を感じながら生きる暮らしだ。走るシーンは自分が望まない生活から脱出するための激情がほとばしる表現で、納得できるどころか、これ以外には考えられない表現だと思う。こことクライマックスの捨丸と空を飛ぶシーンが映画のテーマを象徴した良い場面だ。

 かぐや姫の望む生き方は金儲けや出世という世俗的な成功を否定している。人が人間らしく幸せに生きるのに、そういうものは必要ないという主張がこの映画にはある。ただし、このテーマを描くのに2時間17分もかけるのはいかにも長すぎる。1時間半ほどにまとめたいところだった。水彩画のようなアニメの表現として面白い部分は多々あるが、それだけでは2時間17分持たないし、テーマが一直線に伝わってこなくなるのだ。子供は途中で飽きて、劇場を走り回るのではないか。

 脚本の構造として少し違うなと思えるのは、おじいさんがかぐや姫を見つけた同じ竹林で金を見つけること。これを手に入れたがために、おじいさんは都に屋敷を作り、高貴な男と沿わせるのがかぐや姫の幸せだと思い込んでしまう。この金、神さまが授けたものとおじいさんは受け止めるが、かぐや姫自身がそんな生活を望んでいないのに、神さま(あるいは月世界の住人)がそれを授けるのはおかしいだろう。これは神さまの敵対勢力が与えるという設定の方がテーマがより明確になったのではないか。西洋なら悪魔を出すのが手っ取り早いが、日本ではそういう超自然的でメジャーな悪の存在がいないので困ってしまうのだけれども。

 高畑勲の14年前の前作「ホーホケキョとなりの山田くん」はその年のワーストに選んだほど僕には無残な出来に思えた。「かぐや姫の物語}は同じような表現を用いながら、少なくとも「山田くん」の汚名返上と捲土重来は立派に果たしている。いろいろ不満を書いたけれども、それは強調しておきたい。

2013/11/04(月)「劇場版SPEC 結 漸ノ篇」

 これまでの物語の振り返りが半分近くで、ストーリーはそんなに進まない。だから前作の「劇場版SPEC 天」は見ておいた方がいいが、それ以前のテレビスペシャル「翔」とテレビドラマ10本、さらにそれ以前を描く「零」まで見ている必要はあまりない(見ていれば、登場人物の性格や物語の背景について理解は深まる)。

 白い服を着たセカイ(向井理)と今回から登場の白い服の女(大島優子)がようやく動き始め、物語が特殊能力を持つスペックホルダーと人間たちとの戦い(人種間戦争)にとどまらないことを明確に描いたところでスパッと終わる。エンドクレジットさえなく、「爻ノ篇」の予告を見せて終わるあたりがいかにも元々1本の映画を2本に分けたという感じがありありだ。いや、むしろそれを積極的に表現しているわけで、1本の映画として成立させようなんて堤幸彦監督らは思っていないのがよく分かる。だから、この作品だけを取り上げてどうこう言っても意味がない。シリーズのファンとしては当麻(戸田恵梨香)や瀬文(加瀬亮)、野々村係長(竜雷太)らのレギュラー登場人物たちの掛け合いを見ているだけで満足で、むしろ早く続きが見たくなる。このシリーズは餃子好きの当麻と、銃弾を撃たれても死なず、まるで不死身の瀬文のバディムービー的な面白さが魅力の一つだ。

 テレビドラマの「SPEC」は警視庁公安部第五課未詳事件特別対策係(未詳と略される)がスペックホルダーの起こす事件を解決していく話だった。一話完結の話と同時に時を止める能力を持つ一十一(ニノマエジュウイチ=神木隆之介)の暗躍が少しずつ描かれるものの、死者を召還する当麻のスペックは描かれなかった。ドラマの各回は「甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸」の十干のタイトルが付けられ、最終回は「癸」(き)、つまり「起」に当たった。それに次ぐ「翔」で当麻の左手の能力が初めて描かれ、物語はスケールアップしていく。セカイが登場するのは「天」が初めてである。

 セカイはどうやら神のような存在で、となれば、「爻ノ篇」は「幻魔大戦」などのようにハルマゲドン級の破壊が起こる話になっていくのだろう。「天」の冒頭と最期、今回の冒頭には「猿の惑星」の自由の女神を思わせる、砂浜に埋もれた国会議事堂の前にいる雅(有村架純)が描かれており、破壊的な出来事が起こることは暗示されている。それがどのように描かれるのか、「爻ノ篇」を楽しみに待ちたい。

2013/11/02(土)「Wの悲劇」

 「1958年生まれ、26歳。職業はいろいろ。年収は日収月収で150万」。世良公則が2度目に会った薬師丸ひろ子に自己紹介する。29年前でも150万円は少ない方じゃないかと思うが、考えてみれば、バブルの前なのでそういうものなのかなと思う。久しぶりに見た「Wの悲劇」はとても良かった。1984年の映画だが、70年代の青春映画の雰囲気を引きずったところがあって、それがとても懐かしい。今やお母さん役の多い薬師丸ひろ子が、かなりかわいいのにあらためて驚く。世良公則は役柄も含めて好感が持てる。久石譲のセンチメンタルな音楽がとても内容に合っている。

 今回再見してちょっと気になったのは舞台のシーンが少し長いこと。全体のトーンから浮いている感じが拭いきれないのだ。なんぜ、この部分、蜷川幸雄が(派手に)演出しているし、夏樹静子の原作の部分なのでそうそう短くするわけにもいかなかったのだろう。ま、これは小さな傷にすぎず、この映画が青春映画の傑作であることに変わりはない。恐らくミステリの映画化には興味が持てなかったであろう澤井信一郎と荒井晴彦の脚本は原作を劇中劇に押し込めただけでなく、主演の2人のキャラクター設定に冴えを見せ、映画に確かなリアリティーを与えている。

 キネ旬ベストテン2位。この年の1位は伊丹十三「お葬式」だ。「お葬式」に負けるなんて、何かの冗談としか思えない。