2014/09/06(土)「ホワイトハウス・ダウン」
これだけ見れば、そこそこの出来になっているが、先行作品のアイデアを引っ張ってくるだけでは情けない。定番の「ダイ・ハード」にロバート・アルドリッチ「合衆国最後の日」の風味を加えてみました、という感じの映画だ。
特に「ダイ・ハード」の細部まで真似ているのが気になる。テロリストに1人のヒーローが立ち向かうという設定は同じでも仕方がないが、細部のエピソードにはオリジナルがほしい(「エンド・オブ・ホワイトハウス」もそうだった)。脚本家はお手軽に考えず、本気でアイデアを絞り出してはどうか。
2014/08/08(金)「世界の果ての通学路」
世界4カ国の子供たちの通学風景を描くドキュメンタリー。出てくるのはケニア、モロッコ、アルゼンチン、インドの子供たちで、学校まで20キロ前後もある道のりを2時間から4時間もかけて通う。彼らはなぜそんな過酷でつらい思いをして学校へ行くのか。父親の一人は「勉強して人生を切り開け」と言う。現在の貧困を抜け出すには勉強して良い勤め先に就職することが必要なのだ。彼らにとって学校は夢や希望へと続く道なのである。
4時間も歩いて通うのは大変だけれども、彼らには夢や希望があるから乗り越えられる。そこそこ満ち足りた生活をして、なぜ勉強しなくてはいけないのか分からない子供も多い日本とは大違いだ。なんてことを考えながら見ていて、ケニアの兄妹がゾウに襲われるシーンで「おや?」と思った。
「なぜカメラマンは逃げないんだろう?」
ゾウに襲われたのなら、カメラマンも一緒になって逃げるはず。しかしカメラは微動だにせず、逃げていく兄妹の後ろ姿を撮っているだけ。次のカットでカメラは逃げる兄妹を崖の上から撮り、その次のカットでは逃げてくる兄妹を前から撮っている。1台のカメラでこんな撮り方をするのは不可能だ。カメラが3台あれば可能だが、あらかじめカメラマンを配置しておく必要がある。この場所でゾウが襲ってくるのが事前に分かるはずはないから、配置しておくのも無理だ。つまり、このシーン、明らかに演出なのである。
その後のシーンにも至る所に演出らしきものが目について、もしかしたらこれ、普通の子供たちに演技させたフィクションなのではないかと思えてくる。
パンフレットによると、撮影はチーフカメラマンと録音技師とパスカル・プリッソン監督が行ったそうだ。問題のゾウのシーンについて監督はこう言っている。
「そしてある朝、撮影隊が子どもたちと一緒にいたとき、数頭の象が襲ってきたんだ!ふたりはあっという間に走って逃げ去り、私たちも慌ててふたりの後を追ったが追いつけなかった」
はあ? 追いつけなかったあ?
ちゃんと前方から撮っているのに!
なんなんだろう、この監督。なんでこんな嘘を言うのか訳が分からない。
というわけで、どうも信用できない映画、という感想にならざるを得ない。ドキュメンタリーにいくらかの演出はつきものだが、見え透いた演出はシラける。
だいたい、1カ所につき12日間かけて撮った映画を1日の通学風景のように見せている時点でドキュメンタリーを名乗るのはどうかと思う。ドキュメンタリーを強調せず、単なる実話を基にしたフィクションとしてパッケージングすれば良かったのではないか。どこまでが本当でどこまでが嘘なのか分からないと、感動していいのかどうか判断に困るのだ。
あのインドの車いすの少年も本当は足に障害などなく、映画の撮影が終わったら、元気に走り回っているのではないか、と疑いたくなる。ついでに邦題にも文句を付けておくと、「世界の果て」はひどい。いったいどこから見た世界の果てなのか。子供たちにとっては自分の住んでいる場所こそが世界の中心だろう。
2014/08/02(土)「オッド・トーマス 死神と奇妙な救世主」
ディーン・クーンツの傑作「オッド・トーマスの霊感」をスティーブン・ソマーズ監督がコンパクトに映画化。オッドの周辺の人物とエピソードを、ルウェリンと署長を除いてバッサリ捨て、中心となる事件だけを描いている。コンパクト過ぎる気もするが、仕方がないか。ラストでグッと来たのは原作を思い出したためかもしれない。
原作を読んだ際、悪霊のボダッハは「ゴースト ニューヨークの幻」に出てくる黒い霊のようなものをイメージしていた。この映画のエイリアンのようなイメージも悪くない。原作は7作目の「Saint Odd」まで出ているが、邦訳は4作目で止まったまま。残りも出してほしいものだ。
2014/07/26(土)「GODZILLA ゴジラ」
ウィリアム・M・ツツイの好著「ゴジラとアメリカの半世紀」に「アメリカのファンが好んでいるのは60年代から70年代にかけてゴジラが正義の味方として活躍した映画群」との指摘がある。意外な気もするが、テレビで繰り返し放映された影響なのだという。そういう背景があるので、新作「GODZILLA ゴジラ」のキャラクター設定がこうなるのは必然だったのだろう。
ゴジラを正義の味方(生態系の守護神)として描く上でギャレス・エドワーズ監督が平成ガメラシリーズを参考にしたのは間違いないようで、見ているうちにゴジラがガメラに、ムートーはギャオスに見えてくる。惜しいのはゴジラがその正体を明らかにする見せ場がないこと。芹沢猪四郎博士(渡辺謙)がゴジラはムートーを退治するために出てきたとなんとなく説明するだけではもったいない。平成ガメラ1作目のあの吊り橋のシーン、中山忍たちを狙ってギャオスが吐いた光線をガメラが手でかばい、正体不明の怪獣から善の怪獣であることが初めて明らかになるシーンのように、ドラマティックな演出がほしいところなのだ。
キャラクターの描き方の弱さは怪獣だけでなく、人間たちの描き方にも当てはまる。総じて平板であり、これがドラマの弱さにつながっている。もっと緩急とメリハリをつけたいところだ。
このほか、ゴジラの吐く光線の威力がこれでは貧弱すぎるじゃないかとか、不満な点は多々あるものの、それを吹き飛ばすのがゴジラが大音量で咆哮する場面の迫力。もうこのシーンを見られただけでこの映画、プッシュしたくなる。第2作では細かな欠点を修正して、大迫力のゴジラを心から堪能させてほしいと切に願う。
2014/07/20(日)「私の男」
熊切和嘉監督の前作「夏の終り」はドロドロした話なのに、画面にはドロドロさがまったくなかった。主演の満島ひかりが健康的すぎたためだろう。似合わない役柄だったのだ。きれいすぎる女優はリアルな役柄には向かないのではないかと思う。「私の男」の二階堂ふみは中学生から20代前半までを演じて、そのドロドロさを画面に充満させている。
とはいっても、こちらが考えるドロドロさとは違う映画だった。おどろおどろしさもなければ、陰湿さもない。浅野忠信と二階堂ふみの濃厚な絡みの場面を見て、日活ロマンポルノや神代辰巳の映画のようになっていくのかと思ったら、そうはならず、映画は少女の成長と変貌に焦点を絞っていくのである。絡みの場面で血の雨を降らせる演出は画面のショッキングさとは裏腹にメタファーが分かりやすすぎて気恥ずかしい(後の殺害シーンで血しぶきを浴びる浅野忠信の場面と呼応している)し、映画は終盤、エピソードを大胆に省略・改変しているのだけれど、それでも話はつながるし、よく分かる。
何よりもこの終盤は二階堂ふみの変貌に目を奪われるのだ。これは小説では表現しにくい、映画の利点と言える。二階堂ふみ、まったくうまいとしか言いようがない。幼虫から成虫になる過程を思わせる二階堂ふみの演技は映画の説得力を背負っており、モスクワ国際映画祭で浅野忠信が主演男優賞を取ったのは何かの勘違いとしか思えない(ニューヨーク・アジア映画祭で二階堂ふみはライジング・スター・アワードを受賞した)。
映画には納得して深く感心したが、死体の処理を描かないのが気になって桜庭一樹の原作を読んだ。同じように気になった人のために書いておくと、死体はビニールのふとん収納袋に入れて密閉した上でふとんにくるみ、奥の四畳半の押し入れに入れてある。だから2人の住む古びたアパートには饐えた臭いがかすかに漂うことになっている。映画ではアパートの周囲と部屋の中にゴミ袋が散乱しているので死体をバラバラにしてゴミ袋に入れたのかと想像したが、何も処理していなかったわけだ。
原作は映画のラストシーンから始まる。あの後の話(結婚式とそれ以降)を描いた後、第2章から原作は過去にさかのぼっていく。2008年現在から2005年、2000年7月、同1月、1996年を経て発端の1993年、北海道南西沖地震で津波に襲われた奥尻島へ。この時系列を逆にした構成が秀逸だし、細部の描写がいちいちうまい。直木賞受賞も当然の傑作だと思う。
映画は原作の構成を捨て、物語を時系列に沿って語っている。冒頭の流氷の海から這い上がる主人公花(二階堂ふみ)の場面から津波で生き残った子供の頃へと画面が切り替わるジャンプショットを除けば、起きたことを順番に描いている。映画化の企画は多数あったそうだが、この単純とも言える構成が逆に幸いしたのではないか。
良かれと思ってしたことが徒になって、流氷の上でなすすべもなく遠ざかっていく藤竜也。雪と氷に覆われたオホーツク海に臨む紋別の描写が魅力的だ。