2015/04/15(水)「バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)」

 全編ワンカットの映画と聞いて感じるのは息苦しさだ。映画というのはカットを割ってリズムを作っていくのが普通だから、長回しには基本的に無理がある。カットを割らないためだけに不要に人物を追うカメラワークは不自然だし、絵的にも面白くない。ところが、「バードマン」には不自然なところがない。何も知らない人が見たら、冒頭とラストを除いてほぼ全編ワンカットの映画であることに気づかないかもしれない。

 ワンカット映画の嚆矢であるヒッチコックの「ロープ」(1948年)は一つの部屋の中だけで進行する話だったから、全編がワンシーンワンカットの映画となっていた。つまり映画の上映時間と物語の時間の進行が一致していた。

 「バードマン」はワンカットの中で回想はあるし、場所も頻繁に変わるし、場面の中心となる人物も変わる。時間の経過も数日間に及んでいる。フィルムの制約から10分ぐらいしか連続して撮れなかった「ロープ」の時代と違って、デジタルなら連続撮影時間に制限はなく、シーンのつなぎ目にも合成が使えるから、こうした撮影が可能になったのだろう。気になったのはシーンのつなぎ目。「ロープ」はフィルムを取り替える際に人物がカメラを覆ったりして黒みを入れて処理していた。「バードマン」も同様にシーンのつなぎ目に黒みを入れる場面があるが、つなぎ方はそれだけではなく、カメラのパンの途中で切り替えるなど工夫している。まあ、それにしても移動は多いし、撮影は大変だっただろう。

 物語は過去に「バードマン」というヒーロー映画で人気を得たが、それ以後ヒット作のない初老の役者リーガン・トムソン(マイケル・キートン)がブロードウェーの舞台で復活をかける話。リーガンはレイモンド・カーヴァーの小説「愛について語るときに我々の語ること」を脚色・演出・主演で舞台化しようとするが、開幕までにさまざまなトラブルが起き、次第に精神的に追い詰められていく。終盤にスペクタクルなシーンを入れているし、笑いも随所にあって観客へのサービスは怠りないのだが、こういう話であれば、普通にカットを割って撮影しても良かったのではないかという気もする。

 ビルの屋上からカメラが降りてきて窓を通って部屋の中に入ってくるというワンカットも、以前ならそのカメラワークだけで驚いたものだが、合成で何でもできるようになった今は驚けない。映画の撮影技法は物語を効果的に語るために使うべきで、ヒッチコックが「ロープ」を撮ったのは実験的な意味合いが大きかったと思う。「バードマン」のアレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥはシリアスなドラマが多い監督だが、意外にヒッチコックのように映像の遊びが好きな人なのかもしれない。

2015/04/11(土)「ソロモンの偽証 後篇・裁判」

 「口先だけの偽善者」。藤野涼子(藤野涼子)は柏木卓也(望月歩)からそう言われたことの負い目から学校内裁判を行うことになる。これは原作にはない設定で、涼子だけでなく、弁護士を務める神原和彦(板垣瑞生)もこの言葉に影響されており、映画を貫く1本の軸となっている。

 「前篇・事件」は三宅樹里(石井杏奈)と浅井松子(富田望生)に対する大出俊次(清水尋也)たちの暴力など描写の迫真性に優れ、永作博美や田畑智子、黒木華、市川実日子ら女優陣の踏ん張りが目立ち、中学生たちの演技のまっすぐさに心を動かされた。疑いようのない傑作だと思う。それを受けた「後篇・裁判」はいよいよ柏木卓也の死の真相が裁判によって明らかになる。映画の出来としては残念ながら前篇には及ばなかったというのが正直な感想だ。しかし、文庫で3000ページに及ぶ長大な原作の映画化として極端なダイジェストにはなっていず、異例にうまくいったのではないかと思う。藤野涼子をはじめとする中学生たちが良いためだろう。

 3000ページもありながら、原作はツルツル読める面白さだが、普通なら長くても上下2巻で終わりそうな物語展開だ。こんなに長くなったのはこれが詳細な描写とキャラクターの豊富なエピソードで成り立った物語だからだろう。キャラクターは端役に至るまで書き込まれている。特に第1部はスティーブン・キングとの類似を感じずにはいられなかった。宮部みゆきにはキングの「ファイアスターター」にインスパイアされた「クロスファイア」のような作品があるが、「ソロモンの偽証」は題材ではなくキングの手法を取り入れている。

 当然のことながら、映画は詳細な書き込みとエピソードを大幅に省略している。柏木卓也の死体の発見者である野田健一(前田航基)の家庭の事情をばっさりと切り、いくつかのエピソードを原作とは違うキャラクターにまとめている。しかし、骨格は原作から逸脱せず、テーマもそのままだ。うまい脚本だと思う。加えてオーディションで選んだ中学生たちの演技が実に良い。藤野涼子はまっすぐな視線と姿勢に好感が持て、初主演とは思えない堂々とした演技を見せる。板垣瑞生は裁判でのセリフ棒読みが少し気になるが、まあ裁判だから演技的な部分は残ってもおかしくはない、と好意的にとらえることはできる。リハーサルを繰り返し、演技を引き出した成島出監督に拍手を送りたい。

 後篇が前篇に比べて落ちるのは事件の真相に説得力を欠く部分があるからで、これは原作でも同様だ。原作では真相(犯人の動機)を詳細に描き込んであるのだけれど、それでも十分な説得力はないのだから、映画でできるわけがない。それでも原作と同様に満足感が残るのは出演者たちの好演によるところが大きいだろう。出番は少ないが、浅井松子の父親を演じる塚地武雅が温かい印象を残す。

2015/04/05(日)「アラバマ物語」

 ミステリマガジン5月号のコラムでオットー・ペンズラーがハーバー・リーの小説「アラバマ物語」(amazon)について、こう書いている。「おそらく史上最高に成功したミステリ小説で、出版から半世紀以上が経った今でも、アメリカで毎年五十万部近く売れている」。この小説を映画化した作品が黒人差別を描いた名作でグレゴリー・ペックがアカデミー主演男優賞を受賞したことは知っていたが、ミステリとは知らなかった。原作が毎年50万部も売れていることも知らなかった。ペンズラーのコラムは「アラバマ物語」の続編が出版されることを紹介したもので、続編の初版は200万部だそうだ。これほど売れ続けている小説の続編であれば、破格に多い初版も当然なのだろう。原作を読んでみたくなったが、その前に2年前にWOWOWから録画した映画(1962年製作、ロバート・マリガン監督)を見た。

 1932年のアラバマ州メイコムという小さな町が舞台。弁護士の父親アティカス(グレゴリー・ペック)と息子のジェム(フィリップ・アルフォード)、娘スカウト(メアリー・バダム)の家族が遭遇する事件を主人公スカウトの視点で描く。最初の1時間はメイコムの日常が描かれる。謎の隣人や貧しい白人家庭の子供のエピソードなどを描いた後、メインとなる事件、黒人青年による白人女性のレイプ事件の裁判が描かれる。公民権運動が盛んになった時代を反映した内容だ。

 長い法廷場面があるのでペンズラーがミステリに分類するのも分かるのだが、映画を見た限りでは南部の町とアメリカの正義を描いた作品で、ミステリの部分はそんなに大きくはない。法廷場面の印象は今のミステリに比べると、プリミティブだし、映画の作り自体もそれほどうまいとは思えなかった。IMDbの採点は8.4、ロッテン・トマトでは94%のレビュワーが肯定的評価をしているが、辛口の映画評論家として知られたロジャー・イーバートは星2つ半をつけ、それほど評価していない。

 ただし、裁判で陪審員が出す評決はショッキングだ。中学・高校生に人種差別と正義や理想を考えさせる上で、原作は最適のテキストなのだろう。

 原題は「To Kill a Mockingbird」。これが「アラバマ物語」というまったく内容を伝えない邦題になったのは公開当時、○○物語というタイトルの映画が流行ったためだろう。Wikipediaによると、メアリー・バダムはジョン・バダム監督の実妹とのこと。これがデビュー作となるロバート・デュバルは10年後に「ゴッドファーザー」で貫禄ある演技を見せるとは思えないナイーブな役柄を演じている。

2015/03/08(日)「ソロモンの偽証 前篇・事件」

 雪のクリスマス。学校内で男子生徒の死体が見つかる。いったんは事故死と断定されたが、関係者に事件を目撃したとの告発状が届く。生徒を殺したのは同じ学校の男子生徒3人だという。

 宮部みゆきの原作は「事件」「決意」「法廷」の3冊(文庫は6冊)だが、映画は「事件」「裁判」の2作。原作は未読だが、長大な原作の映画化作品がダイジェストになるのは仕方ないだろう。映画を見て感心したのは俳優たちの演技で、黒木華、永作博美、田畑智子らが生徒役の子供たちをしっかりと支えている。主演の藤野涼子は役名でデビューした新人(役名でデビューと言えば、「若者たち」の佐藤オリエあたりが最初だろうが、僕らの年代では「愛と誠」の早乙女愛なども思い出す)だが、これまで通行人しかやってなかったとは思えないぐらい好演している。

 成島出監督の演出は緊密でリアルな暴力描写などに重たい質感がある。しかし当然のこととは言え、事件が解決しないのでフラストレーションはたまる。1カ月後の後篇を楽しみに待ちたい。

2015/03/07(土)「幕が上がる」

 主人公の高橋さおり(百田夏菜子)が燃やしている台本のタイトルが「ウインタータイムマシン・ブルース」なのを見てクスッと笑った。言うまでもなく、本広克行監督の旧作「サマータイムマシン・ブルース」にかけてある。「サマータイムマシン・ブルース」は劇団「ヨーロッパ企画」の芝居を映画化したものだったから、高校演劇部を描いたこの映画にふさわしいだろう。

 台本を燃やしたのはさおりたちの学校が高校総合文化祭の地区予選で優良賞だったから。優良賞は最優秀賞、優秀賞の計3校以外の学校に与えられる参加賞に過ぎない。さおりは全国大会を目指していたわけではないが、やはり悔しい思いがあったのだ。ここから映画は毎年、地区予選で落ちていた富士ヶ丘高校演劇部が全国大会を目指して奮闘する1年間を描いていく。

 キネ旬3月上旬号の本広監督と大林宣彦監督の対談で、大林監督はこの映画を絶賛し、アイドル映画を撮るには「虚構で仕組んでドキュメンタリーで撮る」ことが大事だと言っている。この映画はストーリーに沿って順撮りで撮影したそうで、だから演劇部の上達とももいろクローバーZの5人の演技の上達が重なって、ドキュメンタリーのような効果を上げている。

 しかし、何よりも心を動かされたのは演劇部が取り上げる「銀河鉄道の夜」のセリフにある「どこまででも行ける切符」を持った高校生たちのきらめきを描いている点だ。十代が持つ無限の可能性を積極的に肯定的に描いて、この映画とても心地よい。

 元学生演劇の女王と言われた新任の吉岡先生を演じる黒木華が自在の演技を披露して、ももクロの5人をしっかりと支えている。映画を見た後に平田オリザの原作を読んだが、黒木華が「自分の肖像画」を演じる場面は原作ではさらりと触れられているだけだった。生徒たちに演技の奥深さを教えるこの場面の説得力は映画ならではのものである。序盤で吉岡先生は生徒たちに「私は行きたいです。君たちと、全国に。行こうよ、全国!」と呼びかける。これがあるから、演劇部にとってショッキングな出来事を乗り越えて、さおりが「行こう、全国へ」と部員たちに話す場面が感動的なのだ。

 原作も評価は高いけれど、映画は一直線に何かに打ち込む青春を描いて充実している。最近よくある恋愛青春映画よりもずっと硬派な映画だ。脚本の喜安浩平(「桐島、部活やめるってよ」)は原作のエッセンスを上手にすくい上げ、それを超える作品にしている。加えて忙しいアイドルたちに十分な時間をかけて演技を上達させた本広克行監督の手腕に拍手を送りたい。