2016/07/19(火)「FAKE」 事実の幅を広げる手法

「FAKE」パンフレット

 ラスト12分間をばらさないことが試写を見る条件だったという。この12分間で描かれるのは本当なのか、やらせなのかよく分からない。題名がFAKEというぐらいだから、ここもフェイクだろうという見方もあるし、いや、フェイクというのは佐村河内守が18年間もゴーストライターを雇っていたことを言うのであり、この12分間は本物だという見方もあるだろう。佐村河内守のゴーストライター疑惑を最初に報道したノンフィクション作家の神山典士はこの映画を評した「残酷なるかな、森達也」の中で、ここが真実であったにしても意味がないというたぐいの指摘をしている(映画のネタバレになっているので未見の人は閲覧注意)。

 神山典士はこの文章の中で「この映画は調査報道ではない」という観点からの批判をしているが、そもそも森達也監督に調査報道をしようなんて気はなかっただろう。取材対象の家の中に入るには取材対象から信頼を得る必要がある。世間のほとんどから非難されている(佐村河内には400人の友人がいたが、事件をきっかけに誰もいなくなったそうだ)人間から信頼を得るには自分が味方であること、あるいは中立の立場であることをアピールしなければならないだろう。そうしなければ、取材対象は家の中にまで入ってくることを許さない(それをやるのはバカだ)。自分の不利益になることを進んでやる人はいない。

 森達也は本物か偽物かを自分で判断しようとはしていない。このスタンスはオウム真理教を取り上げた「A」「A2」においてもそうなのだろう(未見なので断言はしない)。テレビドキュメンタリーを作る過程をまとめた「職業欄はエスパー (角川文庫)」でもそうだった。スプーン曲げの青年の超能力に関して、森達也は否定も肯定もしていなかった。それが昔からの森達也のスタンスなのだ。

 それでは真実かどうかの追求を放棄したドキュメンタリーに意味はあるのか。この映画を見ると、あると言わざるを得ない。少なくともカメラが佐村河内守の自宅に入らなかったら、来客があるたびにショートケーキを出す奥さんの存在は知り得なかったし(あの奥さん、来客の予定があるとケーキを買いに走るに違いない)、インタビュアーの質問を奥さんが手話通訳で佐村河内に伝えていることも分からなかった。見ていて、佐村河内は自宅でも奥さんに対して演技しているのか、それとも本当の姿なのかが分からなくなるし、奥さんは本当に佐村河内の耳が聞こえにくいと思っているのか、それとも本当は聞こえていると思っているのに演技に合わせているのか、あるいは最初は演技だったのにそれがいつの間にか日常に変わってしまったのか分からない。その根底にあるのが佐村河内守への愛なのか、それとも自分が生きていくためなのか、無自覚なのか、そんなことを考えさせられるのがとても面白い。おまけにクスクス笑える場面まである。

 とりあえず取材対象に密着すること、そこで知り得たことを公表すること。森達也のそのスタンスは事実の幅を広げることにつながっている。本物と偽物、あるいは善と悪の単純な切り分け方に疑問を呈することが森達也の手法の根底にはある。こうした在り方は一般的な見方を180度反転させることはできなくても、少し傾かせることはできるのだ。

2016/07/02(土)「リップヴァンウィンクルの花嫁」 前半は論理的、後半は情緒的

「リップヴァンウィンクルの花嫁」パンフレット

 上映時間3時間。最初の1時間余りは快調だった。派遣教員の皆川七海(黒木華)がSNSで知り合った男と結婚し、義母に浮気の疑いと嘘を責められて離婚させられ、安ホテル住まいをするあたりまで。その後映画は変調する。ポンポンポンポンと進んだ話が途端にスローペースになる感じ。前半を緻密な計算で組み立てた密度の濃い話とするなら、後半は感情に基づいて出来上がったような印象を受ける。前半は論理的、後半は情緒的と言うべきか。

 キネマ旬報4月上旬号(1713号)の黒木華のインタビューによると、撮影開始時には脚本が完成していなかったのだという。それならば、僕がそう感じてもおかしくはない。インタビューを引用しておこう。

 「原稿のままの脚本で、七海を軸にした大体のストーリーはあるんですが、完成していないものでした。出来上がった映画は最初に貰った脚本とは全然変わっていて、映画ができるまで、脚本は本当に完成していなかったんです。撮影をしながら、シーンがどんどん増えて、物語は肉づけされて、必要ないと判断されたものは削られていく。そうした変更が監督から撮影の前々日とかに伝えられて、当日に、こういうふうにしようと思うものを渡されたので、いつも集中してました。一緒に場面を作っていってる感じでした」

 もちろん、黒木華はこれを否定的には語っていない。脚本の続きを直前に渡されたから、演技に集中しなければならなかったということを強調している。1年近くかけて撮影したのだから、ストーリーを練る時間は十分あっただろう。それでも撮影しながら話を作っていくと、微妙に不完全な部分が出てくるのではないか。やはり脚本は撮影前に完成していることが望ましいのだ。

 その脚本は黒木華にあて書きして書かれたそうだ。だからなおさらなのだろうが、黒木華に関してはとても良い。控えめな性格で自分に自信がなく、おどおどして流されていくキャラクターを黒木華は初々しく、かわいらしく演じている。七海は「声が小さいからマイクを使って」と生徒に言われ、真に受けて使ったために学校をクビになる(ちょうど結婚が決まったところだったので、表面的には寿退職ということになる)。両親は離婚しているが、結納ではそれを隠して出席。結婚式に呼ぶ親族が少ないので、何でも屋の安室行舛(アムロ、行きます。ネットのハンドルはランバラル=綾野剛)に頼み、出席者をそろえる。夫の浮気を疑って安室に調査を頼むと、予想外の展開となり、逆に義母から浮気を疑われてしまう。やることがすべて裏目に出て離婚することになり、住む所もなくなるという前半は大変面白い。

 後半は安室に頼まれた仕事で一緒になった真白(Cocco)との交流がメインになる。後半のタッチはロマンティシズム、リリシズムの得意な岩井俊二らしいのだけれど、前半のあれよあれよという展開に比べると、話の密度としては物足りない思いが残る(前半より後半がいいという人もいるだろう)。これなら3時間もかけず2時間程度でも良かったのではないか。ネット配信の特別版は2時間だが、それでも十分話は通るのだろう。

2016/06/22(水)「クリ-ピー 偽りの隣人」

「クリ-ピー 偽りの隣人」パンフレット

 前川裕の日本ミステリー文学大賞新人賞受賞作「クリ-ピー」を黒沢清監督が映画化した。元刑事で犯罪心理学の大学教授とその妻が引っ越してきた新居の隣に住む男にじわじわと追い詰められていくサイコ・サスペンス。隣に住む男を演じる香川照之は登場した時から異常で不気味な雰囲気を漂わせ、粘着質で話が通じない男をリアルに演じている。

 物語は家族を恐怖で支配し、7人が犠牲になった北九州の家族監禁連続殺人事件をモデルにしているようだが、人を恐怖で支配・従属させるのではなく、映画では中毒性のある薬を使う。人当たりの良い顔で近づき、徐々に本性を現して支配していく過程を描くと時間がかかるし、薬でやってしまった方が手っ取り早くて映画向きではあるのだろう。少し冗長さを感じる部分があるにせよ、僕は面白く見た。ただ、気味が悪すぎて嫌悪を感じる人もいるかもしれない。

 主人公の高倉(西島秀俊)は警察署内で逃亡したサイコパスの男から背中を刺される。1年後、刑事をやめて大学教授になり、妻の康子(竹内結子)とともに新居に引っ越す。近所に挨拶回りに行くと、2軒隣の家は「近所付き合いはしない」とつっけんどん。隣の家はインターホンを押しても誰も出てこなかった。その隣の家には西野(香川照之)が娘の澪(藤野涼子)と住んでいることが分かる。妻もいるらしいが、姿は見えない。大学で高倉は6年前に起き、未解決となっている一家3人失踪事件に興味を持ち、同僚とともに事件現場を訪れる。事件当時、修学旅行で不在だった早紀(川口春奈)のみ失踪を免れたが、早紀は事件前後の記憶をなくしていた。

 当然のことながら、この失踪事件は西野に結びついていく。高倉の同僚だった刑事・野上(東出昌大)や事件の捜査をする谷本(笹野高史)が西野の家を訪れる場面はヒッチコック「サイコ」の私立探偵アーボガースト(マーティン・バルサム)がベイツ・モーテルを訪れる場面を思わせる。「サイコ」がそうであったようにこの映画も化け物ホラーの側面を持っている。

 映画は後半、西野の家の地下室を見せる。日本の一般住宅に地下室があることはまれだが、造型を含めて陳腐にはなっていず、成功している。黒沢監督は映画がR15+指定にならないよう死体の処理の仕方を工夫したそうだ。この処理の仕方は日本独自のものだろう。事件が解決するかと思わせて、さらにもう一つのエピソードを付け加えたのは普通を嫌ったためか。ラストだけでなく、全体も原作とは異なった部分が多いようだ。いっそのこと、すごく後味の悪い結末にする手もあったかなと思う。そういうラストは独立系の映画にはできても、松竹配給の作品では難しいのだろう。

 西島秀俊と東出昌大は演技的にどうかと思える場面が一つ、二つある。映画を支えているのは言うまでもなく香川照之と、不安と官能を身にまとった竹内結子の演技だ。

2016/05/28(土)「ルーム」

「ルーム」パンフレット

 狭い部屋に7年間監禁された母親ジョイ(ブリー・ラーソン)とその子どもジャック(ジェイコブ・トレンブレイ)。ジャックは5歳になったばかりだ。ジョイはこの部屋でジャックを産んだ。ジャックの父親はジョイを拉致した犯人でオールド・ニック(ショーン・ブリジャース)と呼ばれる(本名は分からない)。部屋の中で物語が進行する前半を見ながら思ったのは、この状況は暴力的な夫から支配され、逃れられない母子と容易に置き換えられるということ。そして、部屋の中が世界のすべてと思っている子どもはSFにありそうな存在だということだ。

 エマ・ドナヒューの原作は部屋の中を描く「インサイド」と脱出後を描く「アウトサイド」の構成になっているそうだ(この原作、2014年に文庫が出たが、現在絶版で読めない。映画公開に合わせて復刊できないのは出版不況のためか)。ブッカー賞の候補になったという原作が面白いのだろうが、この構成を踏襲した映画も見ていて前のめりになるぐらい面白い。前半と後半で面白さの質も異なる。

 部屋は3.3平方メートルしかないらしい。トイレと浴槽、台所設備はあるが、窓は空しか見えない天窓だけ。ドアは暗証番号を入れないと開かない。閉所恐怖症の人には耐えられないような狭さだ(ジョイが大声で叫ぶ場面がある)。外の世界を知らないジャックはテレビの内容を本物ではないと思っている(そう教えられている)。本物なのは自分と母親だけ。ジョイはそんなジャックを頼みにして「モンテ・クリスト伯」を参考に脱出計画を立てる。

 この中盤の場面がとてもスリリングで感動的だ。高熱を出した(ふりをした)後、オールド・ニックに死んだと思わせたジャックは絨毯にぐるぐる巻きにされてピックアップトラックに乗せられる。走り始めて3回目に一時停止したところでトラックを飛び降りるが、オールド・ニックに気づかれ、捕まってしまう。そこに通報を受けた警官がやって来る。女性警官パーカー(アマンダ・ブルーゲル)はジャックの話を根気よく聞いて、母親が監禁されているらしい場所の手がかりを得るのだ。

 ここから映画は社会に復帰した母子を描く。ジョイの両親(ウィリアム・H・メイシー、ジョーン・アレン)は離婚し、母親は別の男と暮らしていた。17歳で拉致され、社会と隔絶された7年間を過ごしたジョイは徐々に精神的にまいっていく。ジャックは初めて知る世界の大きさを少しずつ理解し始める。ジョイの父親は犯人の子どもであるジャックをまともに見られない。ジョイは7年間を耐えられたのはジャックがいたからこそで、ジャックに父親はいないと思っている。映画がキワモノにならず、心を揺さぶる作品に仕上がったのは母子を見つめ続ける視点に揺るぎがないからだ。

 「ショート・ターム」(2013年)で注目されたブリー・ラーソンはこの映画でアカデミー主演女優賞を受賞した。確かに好演しているが、同賞にノミネートされた「キャロル」のケイト・ブランシェットや「さざなみ」のシャーロット・ランプリングに比べて演技的に際立って優れたところはないように思う。映画の出来がとても良かったことが受賞につながったのではないか。ラーソンよりもジャックを演じたジェイコブ・トレンブレイの方が映画を支えている感じだ。監督はこれが長編5作目のレニー・アブラハムソン。脚本に原作者が加わったことも功を奏したのだろう。

2016/05/21(土)「アイアムアヒーロー」

「アイアムアヒーロー」パンフレット

 漫画家アシスタントの主人公・鈴木英雄(大泉洋)が同棲していた恋人てっこ(片瀬那奈)から追い出されたアパートに行き、郵便受けから中を覗くと、ベッドに寝ていたてっこが体をくねらせたありえない動きで玄関まで這ってきて、鍵のかかったドアをぶち破って襲ってくる。ここから漫画家(マキタスポーツ)の家での惨劇→通りのあちこちでゾンビに襲われる人々のパニック→タクシーで逃げたら同乗の男がゾンビ化→噛まれた運転手もゾンビ化→高速道路を暴走するタクシーが横転と、すごい疾走感で映画は進む。前半は快調そのものだ。

 ゾンビはZQN(ゾキュン)と呼ばれ、そのウイルスは風邪のように感染するらしい。空気の薄い所では感染しないと聞いた英雄はタクシーに同乗した女子高生の比呂美(有村架純)と富士へ向かう。比呂美は近所の赤ちゃんに噛まれており、半分ZQNになってしまう。この半分というのはウェズリー・スナイプス主演「ブレイド」(1998年)など他の作品にもよくある設定で、他の例に漏れず比呂美は超人的な力を発揮する。富士の裾野のショッピングモールに行くと、そこには元看護士の藪(長澤まさみ)らZQNを逃れてモールの屋上に住む集団がいた。リーダーの伊浦(吉沢悠)に統率された集団かと思えたが、仲間割れが始まる。

 韓国の閉鎖されたショッピングモールでロケしたという後半は、よくあるゾンビもののパターンになっていくのだが、それでもゾンビの描写はオリジナリティーにあふれる。クモのような動きのゾンビがいたり、走り高跳び選手で頭を凹ませたゾンビがいたりする。動作も素早いものからゆっくりふらふらしたものまでさまざまだ。もちろん、噛まれて感染するのはゾンビ映画のお約束。頭を砕けば、絶命するのもお約束だ。そうしたゾンビ映画のルーティンを守りながら、これだけのオリジナリティーを出したのは大したものだと思う。

 従来のゾンビ映画やテレビドラマ「ウォーキング・デッド」などではゾンビの造型に関しては同工異曲で、違いは動くのが速いか遅いかぐらいしかなかった。海外の3つの映画祭で評価されたのは、ゾンビのオリジナリティーと前半のスピード感のためだろう。大量に作られてやり尽くした観のあるゾンビ物のジャンルでもまだやれることはあるのだなと感心した。

 花沢健吾の原作は家に1巻だけあったので見る前に読んだ。アシスタントの日常の中に異変が2つほどあり、英雄がアパートに行くところまでが描かれる。その先を読まなかったのは映画を見る上では正解だったかもしれない。ZQN化したてっこの変貌ぶりと動きは想像を超えていた。

 佐藤信介監督の「GANTZ」(2011年)では容赦ない血みどろ残虐描写にびっくりしたが、この映画の後半はそれが延々と続く。それだけでなく、ユーモアも随所にあるのは主演を大泉洋にした効果だろう。話があまり進まないのが残念だが、原作もまだ完結していないのだから、仕方がない。このスタッフ、キャストで続きを撮ってほしいものだ。