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2021年10月19日の記事

2021/10/19(火)破格の面白さ「最後の決闘裁判」

 ラスト近く、ヒロインのマルグリット(ジョディ・カマー)が見せる無表情は愚かすぎる男性優位社会に愛想を尽かし果てた結果だろう。カマーの演技は「第三の男」ラストのアリダ・ヴァリの冷たさを彷彿させる。リドリー・スコット監督の「最後の決闘裁判」は83歳の監督が撮ったとは思えないほどの充実ぶりを見せつける。14世紀のフランス最後の決闘の話なのに、現代に通じるさまざまな問題を提示し、複雑な感情を呼び起こすのだ。見事な完成度と言うほかない。



 エリック・ジェイガーのノンフィクション「決闘裁判 世界を変えた法廷スキャンダル」(文庫版は現在、映画と同じに改題)をマット・デイモンとベン・アフレックの「グッド・ウィルハンティング 旅立ち」のコンビに、ニコール・ホロフセナー(「ある女流作家の罪と罰」)が加わった3人で脚色。レイプ事件を夫と妻、加害者の三者三様の視点で語るという構成は言うまでもなく黒澤明「羅生門」を踏襲しているが、もちろん単なる模倣には終わっていない。

 騎士ジャン・ド・カルージュ(マット・デイモン)の妻マルグリットがカルージュの旧友ジャック・ル・グリ(アダム・ドライバー)にレイプされたと訴える。その時、ジャンは不在で使用人たちも夫の母親に連れられて外出しており、家にはマルグリット以外誰もいなかった。ル・グリは否定するが、妻の言葉を信じたカルージュは国王に決闘裁判を申し出る、というのが大まかなプロット。これを映画は第1章をカルージュの視点、第2章をル・グリの視点、第3章をマルグリットの視点で語る。

 リドリー・スコットはいつものように完璧な美術と画面構成でストーリー語っていくが、はっきり言って第1章を見た段階では凡庸な映画なのではないかと疑いたくなった。その印象は第2章で一変する。カルージュの無能さ、愚かさがル・グリの視点で語られ、カルージュ視点の物語とは微妙に異なるものとなっているのだ。レイプの事実は変わらない。しかし、ここでは男の目から見た都合の良い女性の姿も描かれていく。そして第3章ではマルグリットが感じているカルージュへの不満、姑への不満、ル・グリの女たらしで横暴な側面が明らかにされていく。

 脚本にホロフセナーが加わった大きなメリットはこの第3章にあるだろう。夫の一方的なセックス、結婚して5年たっても子どもができないことに対する姑の嫌み、女性の第一の役割を子どもを産むこととする14世紀の価値観は今の社会でも残念ながら見られるものだ。驚いたことに当時の女性には裁判に訴え出る権利はなかった。その権利は自分の所有物を汚された夫だけにある、とされていた。レイプ裁判なので法廷では当然のようにセカンド・レイプのような審問が繰り返されることになる。

 マルグリットは決闘裁判に持ち込むことを望んではいなかったが、怒ったカルージュが自分のメンツから決めてしまった。決闘裁判が恐ろしいのは勝った方が正しいとされること。神が正しい者を勝たせると信じられていたからだ。その上、レイプされた女性は夫が決闘に負けた場合、裁判で偽証したと判断され、生きたまま火あぶりの刑に処せられる。

 クライマックスの決闘場面はとんでもなくリアルな迫力で描かれる。槍を持ち、馬に乗って激突するカルージュとル・グリ。槍では決着が付かず、2人は馬を下り、斧やナイフで戦う。決闘はどちらかが死ぬまで続くのだ。決闘場には火刑台があり、その上には足かせを嵌められたマルグリットが喪服を着て立っている。周囲には決闘を見に来た多数の民衆がいる。マルグリットはどうなるのか。

 黒澤明は「羅生門」を人間不信の物語の果てに「それでも人間を信じたい」とのヒューマニズムで締めくくった。リドリー・スコットは女性を下に見る男性優位社会に対するヒロインの絶望を通り越した激しい怒りで終わらせる。傑作を既に数多く発表してきたスコットがまたも代表作となる1本を加えた。80代でこれほど破格に面白い映画を撮れる監督は極めてまれだ。優れた脚本の助けがあったとはいえ、すごい監督だと思う。